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︑勝義は不可言説であり︑言説を司る寺岡 の 働く境界を超越することが知られるのである ︒それ故に無毒 無何 の 策 土戸 二 静慮以上が不可 言 純の境界であると考へてよい であらう︒ さらに勝義なる空は不可言説であると 考 へることができるのである︒補足すれば︑ 初 静慮 地 に属する 身語 の 表 業を借りて︑第四静慮にいたるまで 身語 の 表業 があるとされる︒従ってそれによれば第四静慮 以 上 が不可言説の境界 であると 看徴 されよ う ︒しかし真諦 訳﹁
脾節 経口 に ﹁我は︑真実は不可言説なりと説く︒一切の 覚 観心新訳の尋同に 同 の 境を過ぐると知るべし︒﹂Ⅰ正蔵第十六巻 セ 一二 c セ 1人りとあることからく 527)
す訃 必無 か朴 びか 朴 ︒ 訃か 奉仕 か跡訃卜 小いかで 説 ︵ 呂苧ゴ 馬尾さであ る ︒また名句 文 についても︑﹁倶舎論 ヒ によれ ば ﹁八名 身等は V 欲界繋と色界繋である︒百師 は 説く︑無色界繋の場 合 もあるが︑しかしそれらは不可舌口説︵ ドコぃ 6% 斬 づ ︶ ゅ ︶であると︒﹂Ⅰ八二・四りと ひ はれるのである から︑無色界以上は 不可舌口説であるといへる︒さて﹁中論﹂におい ても︑第一八章第五 偶 に﹁分別から︵ せ @Fp‑ ロぃ ︵ り廿 ︶ 業 ・煩悩が生ずる︒
分別は戯論から起る︒しかして戯論は空におい て 滅する ピ 三五 0. 四 1 % と 説かれる︒また 第二三章第一偶には
﹁ 貧 ・ 瞑 ︐凝は分別から生ずる︵ き旧ガ p‑ つい も qp ヴ Ⅰ ヲう廿 ︶︒﹂Ⅰ四五一・九 |一 OU とひ はれてゐる︒ この場合﹁分別
︵ き且 S‑ つい ︶とは円月称の語釈によれば﹁ 尋 ︵ せ
@ ︵ ド
︵ 牙ぃ ︶であ ラム @ ︒﹂Ⅰ四五一・一一口 す @ し 工 @ ⅠとⅡ トプハり ︒従っ て 分別︵ 4@ ガ p‑ ロぃ ︶はョや であると考へてよい︒またそれは戯論から生ずる ものであるといはれてゐるから︑言説を原因と する︒ところで戯論 は空において滅するのであるから︑それから 生 ずる分別は空においてはありえない︒また第一八 章男 セ 偶に﹁心行が 滅するとき︑所説の対象は滅する︒何故なら 法 性は ︑不生不滅にして︑ 浬 磐の如きものである から︒﹂ 宝 二八四・三 |
巴
といはれるのも︑同様の趣旨である︒それ 故に﹁中論 ヒ の場合も︑分別は尋であり︑それは 言説を司る 小 作用で地 六即ち第二静慮 V には尋が低い︒それより以上 では等 持 が転じて寂静である
ピと
説かれるから ︒﹂ ハ 正蔵第二十九巻 セ二八 b 一八ロ と 説かれる如くである︒
また次に﹁㈲戯論によって戯論されない︵ ロ ra 審ひ ca@ ﹁ ぃヮ ra 屡ひ n@ ︵リ ヨ ︶︒﹂とは如何なる意味であら︐ っが ︒ 先づ ﹁戯論
a ︒ pb 苫 S ︶とは﹂︑﹁ 明 句論 L には﹁対象を戯論 する語である︒﹂ 9 二七三・九りと定義される︒ そ れ 故に﹁戯論によっ
て 戯論されない︒﹂といふのは︑﹁語によって 表 明 されないといふ意味である︒﹂ 三セ 三・九 |一 OU と語釈される︒
従って意味するところは︑前述の不可言説とい ふ のに同じい︒しかし戯論は単なる言説とは異な る ︒何故なら ぱ︑前
逃したら う に﹁ 業と 煩悩との滅から解脱がある︒ 業と 煩悩とは分別より起る︒それらは戯論より 起る︒しかして戯論
は空において滅する︒﹂ 呈 四九・一五︑三五 0. | 五口と説かれてゐる やう に︑戯論は業・ の 根本的要因となる
からである︒それ故に頂き乱 ぎ ㏄は﹁戯論﹂と 漢訳されるや う に ︑ 負の価をもっ︒舌口説が負の 価 をもっ戯論として
理解されるのは︑業の間 頴と 深く関る︒詳細は
である︒即ち︑ 膀義
善 ︑換言すれば至福は意業によりて達せられる のであり︑ 語 業及び身業によるものではない︒何 故 ならば︑二業の働
くところ必ず煩悩をともなふからである︒また かくして達せられた至福は︑牟尼と形容される︒ 牟尼︵ ヨヒコ 一︶とは 寂
黙の意である︒何故ならば︑煩悩及び随煩悩に よって作られた舌口説を遠離するからである︒従っ て ︑戯論寂滅といふ
のは︑牟尼なる勝義善を修飾する語句である︒ いまここに﹁㈲戯論によりて戯論されない︒﹂と いふのも同様の意味
であり︑それ故に真実の不可言説性を指示する と 解してよいであらう︒
さて以上に検討したや う に︑真実が不可舌口説な る 牟尼の境界であるならば︑それはまさしく﹁ ㈲他を縁としない
(528) に 無事 無 伺の第二静慮以上はただちに﹁㈲寂静 ︵ ゆめコ ︵の︶である︒﹂といはねばならない︒﹁順正理 論 ﹂に﹁契経に﹁ 恢 @t また次に尋 何 は︑それによって起る舌口説が散 動 を性 とするものてあるから︑不寂静 ? 綺コ ︵巴を相 とする︒従って 逆
以上から我々は︑真実が不可言説であるといふ 結論を導出し得たと思ふ︒しかしながらその限り では︑いまだ空観 との必然的関連を見出すには不充分である︒ そ れ 故に︑真実が不可言説であるといはれることの
なければならない︒ところで先に我々が戯論は 業と 煩悩の根本的要因であると述べた達文におい て ︑﹁空において 戯
論 が滅する︒﹂ことに言及した︒また真実の第五 相 として︑﹁㈲不異義である︵ 曲コゅコゅ ﹁︵ ゴリ ヨ︶︒﹂と ひ はれるのは︑真実 が 一方で多義性を拒否するところに成立っこと を 指すものであるとともに︑他方で空観と交渉 す ることを示すもので
ある︒何故なら︑ここにい ふ ﹁不異義﹂は ︑第 一八章第一一偶に﹁不一義︑不異義であり︑不断 ︑本宮である︒
が 諸仏世尊の甘露なる教である︒﹂二毛 セ ・ 毛と説かれ︑また帰敬偶に﹁不滅︑不生︑不 断 ︑不 常 ︑不一義︑
不異義︑ ︑ ︑︑ @ 本来︑不 去 であり︑戯論が寂滅して 吉 祥 なる縁起を説きたま ふ 五等覚︑その 説 者中の最 上 なる彼に私は稽首 する︒﹂ コ 一・一 二| 一六ロ と 説かれる不異義と含 蓄を同じくすると考へられるからである︒換言 すれば︑八不の縁起 を 志向する︒それ故に不可言説なる真実は空観 と 密接な関連を保つと見ることができる︒ 寂は真 実の不可言説性に対す る 存在論的根拠は ︑ 既に拙稿﹁﹁中論 L の二諦 | その 一 | ﹂口印仏所第二 0 巻 第一号 ロ で解明したから︑併せ て 参照されたいじ 説
を 検討した結果︑ n 釜 べは不可舌口説であることが 承認されると思ふ︒
口説であるならば︑仏教 に 通達するには三口説を必 要 とせず︑それ故に真実
あると考へるべきであらうか︒ さ うではない︒ 何故ならば︑ 先づ 第一
83 (529)
︵ p ︒ つワへい も﹁ 痒 ︵せ いぜぃヨ ︶︒﹂といはれ得る︒即ち﹁ 明 句論 L の語釈によれば︒﹁そこには縁とすべき 他 り 他者の説示によって 証知 されず︑自身によって のみ領解される︒﹂ 三ゼ 三・一りといふ意味で ある︒
よって表現することができないものであるなら ば ︑それは他者による伝達を拒 屯 した境界に他 な らな
証 得は全く自内証︵ っ経 ︵ せゅヰヨぃ托笘ぃ ︶にようざる を 得ないのである︒ のはない︒つま
真実が言説に
い︒従ってその
後考の阿毘達磨に論か属する︒論︵ かゅ の︵ ra ︶ とは ︑例へば ﹁色は変擬するが故に色てある︒︐ 一 云々 と 分析する 慧 ︑つま に ︑ 司 倶舎論しには阿毘達磨に二種あるとされる ︒第一は︑勝義のそれであり︑第二は︑仮名の それである︒そして 三世俗諦の語拉さて勝義が不可言説であ ると解することが評されるならば︑二諦説の構造
言説であると規定することができるであらうか︒ 次にこの点を清辮及び 月 称の解釈を手掛に考察 する︒ 先づ ㈲ 活滞に ついて世俗諦︵のの 旧 ︒ 廿よ り︵せこの語義を検討する︒ ﹁般若鷹 論 ﹂によれば︑﹁世間世俗諦とは世間の 三口説である︒即ち㈲
色 等の諸法が生ずる ︑ 住する︑滅する云々とか︑ ㈲デーヴァダッタが行く︑ヴィシュヌミトラが 亜 べる︑ソーマ ダッ タが 修行する︑ブラフマ ダッタ が解脱する云々 と いふ これらは︑世間の舌口説であり︑しかも木頭 倒 であるから︑それ が 世間世俗諦である︒﹂ 口 一八六 a 四口と説かれる︒ 従ってこの場合︑世俗︵ か ささ ミ ︒ き 八田旧せ 巾 ︵ @ ︶ と は 一義的に言説︵ 連さ 窯技八 v ︶ い つ いゴゅ ︵ り ︶のことである︒またこの舌口説 には二種の系統が認められる︒第一は︑諸法の生 住 滅を云々するもの
であり︑第二は︑デーヴァダッタが行くなどを
一 五々するものである︒後者は所謂日常の言語活動
であるから︑それが
言説であることに問題はない︒しかし前者が世 間の言説であることには︑多少の説明を必要と する︒前述したや う に ︑仏教への通達は︑仏法僧に対する帰依に始ま る ︒しかも 能 帰依の休は︑麗姿砂肝によれば︑ 屯 旧主 仏 ︵ va ヰ ー二日 ぃロヱ ︶で
ある︒譜表とは具体的な舌口語表現のことである︒ 従って仏教の通達にとって︑舌口説は不可欠の要 件 である︒また第二 に ︑ 龍樹は ﹁三口説に依らなければ︑勝義は説示さ れない︒﹂と明確に説いて ぬ るのである︒人は ︑ 龍樹 の 一
自性をここに認めてゐる︒しかしながら︑不可
壬 ‑ 口説なる勝義が言説によって表明されるといふ こ とは︑いかにも構音 した表現であり︑俄には首肯 し 難い︒ここにお いて我々は二諦説の核心に触れるのである︒問題 は 次の如く要約でき
る︑ 即ち勝義が不可舌ロ説であり︑しかもそれが 壬 一口説され得るものであるならば︑その場合の言説 とは一休如何なるも
のであり︑かつまたそれは如何にして可能であ
︐ め
うかと︒
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