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針 2 山

ドキュメント内 絵解きと縁起のフォークロア (ページ 159-189)

主 」

Lの場面 H第一幅最下

④﹁嘘を吐けば地獄へ行ってこのやうに鬼のために舌を抜かれ

とんよくしんいぐちりせめ

るの

だ﹂

H第五幅上から三層目の﹁貧鴫愚責﹂の場面[図⑧]

﹁至るところで︑蒼白く痩せたひとたちが口を小さくあけ

て泣き叫んでゐた﹂H

第一幅から第七幅の最下層にちりば

められた地獄で苦しむ亡者の図像

雲祥寺の地獄絵の上部には極楽が︑下部には地獄が描かれてい

る︒越野タケ氏は︑﹁修ちゃはウンウンって︑高いところの掛軸

を伸び上って見るんです

︒﹂

と言

ている︒錦氏は︑太宰が﹁思

ひ出﹄に記すのは地獄ばかりであり︑天井から下げられた絵を見

上げれば︑背丈の低い子どもには︑このような場面ばかりが目に

地獄絵のIl~導と近代文学 159 

焼きついて印象に残るのは当然のことだろうとする︒

160 

太宰治の巡礼と﹃津軽﹄

太宰の小説﹃

津軽

は︑昭和十九年五月中ごろから六月初めにかけて行われた太宰の津軽旅行をもとに書かれ︑

同年十一月に﹃新風土記叢書7﹄として小山書庖から出版された︒当初から地誌として依頼されて執筆したので

あるが︑そこには太宰特有の小説的造形が施されている︒太宰自身が生まれ故郷の津軽を旅して記しているのだ

から︑﹁津軽﹂に対しては︑自己発見︑自己確認の書︑自己の根元への遡及などと指摘されてきた[日

] ︒

﹃津

本編の冒頭章は﹁巡礼﹂と題されている

︒ ﹃

津軽﹄に付された自筆の﹁津軽図﹂に地名が記されたように︑浅

虫・青森・蟹田・今別・三厩という陸奥湾沿いの旅から始め︑五所川原・

木造金木の内陸を経て︑十三・小泊

の日本海沿いへ抜ける旅となっている︒津軽半島を周遊して多くの知己を訪ねて歩く旅であった︒知己の居所は

太宰の自己形成の巡礼地であり︑それを太宰自身が確認してゆく巡礼の旅であった︒巡礼の旅とは︑最終的には

結願の聖地に至ることである︒太宰は︑﹁このたび私が津軽へ来て︑ぜひとも︑逢ってみたいひとがゐた︒

私は

その人を︑自分の母だと思ってゐるのだ︒﹂﹁私の一生は︑その人に依って確定されたといっていいかも知れな

ぃ︒﹂﹁たけのゐる小泊の港へ行くのを︑私のこんどの旅行の最後に残して置いた︒﹂と記しているように︑幼少

の太宰を養育した女中であったタケがいる小泊が︑巡礼の最終地であった︒タケに逢って自己の存在基盤を確認

したいのであった︒﹃津軽﹄の終章には﹁私は︑たけの子だ︒﹂と思い﹁心の平和﹂を感じることで︑巡礼の結願

に至るのである︒越野タケによると︑訪ねてきた太宰は︑﹁吾文治さんと本当の兄弟だが?﹂﹁吾︑五所川原の

ガツチヤの子供でねガ?﹂と︑実の母の子でなく︑養育した叔母キヱの子ではないかと真顔で聞いたという[リ

] ︒

やはり自己を探し求める旅であった︒

なお

︑﹁

津軽

﹄では︑寺院を訪れて説明を聞く場面がある︒東津軽郡今別町の本覚寺では︑

五十年輩のおかみさんらしいひとが出て来て︑私たちを本堂に案内してくお寺の坊さんはお留守のやうで︑

れて︑それから長い長い説明がはじまった︒(中略)﹁何をおっしゃってゐるのです︒貞伝上人様はこのお寺

を御草創なさったのではございませんよ︒貞伝上人様は︑このお寺の中興開山︑五代目の上人様でございま

して︑││﹂(中略)﹁あそこにありまする大きな見事な額は︑その大野九郎兵衛様のお書きになった額でご

ざいます︒﹂(中略)﹁ご存知でございませう︒忠臣義士のひとりでございます﹂(中略)﹁あのお方は︑この土

地でおなくなりになりまして︑おなくなりになったのは四十二歳︑たいへん御信仰の厚いお方ございました

さうで︑このお寺にもたびたび莫大の御寄進をなされ︑││﹂

というような本堂での説明を太宰は記している︒これも津軽地方の寺院の唱導を知る資料の

一 つ

であろう︒

四 読者による﹁太宰巡

﹂と斜陽館

・雲祥寺

太宰治の作品を好む人々は﹁太宰ファン﹂と呼ばれる︒中高生の読書感想文には太宰の﹃人間失格﹄の感想文

がしばしば登場する︒たとえば︑

﹃読

感想文作品集

﹄[

日]の一九八四年度から二

O

O

三年度を見ると︑一九九

の感想文が入選している︒読者自身と主人公葉蔵︑さらに太宰との関わりに触九年まではほぼ毎年﹃人間失格﹄

れた部分を紹介してみよう︒

﹁人

間失

格﹂

︒彼

(著

者)

はその言葉にふさわしい︒彼に私自身がだぶってならない︒道化の仮面は人間な

らば誰でも持っている︒(中

学三

年女

一九

八四

年)

地獄絵のl頃導と近代文学 161 

② 自分の弱さを追いつめ疎外された人間の︑弱く純粋な魂を書きこめている

孤独を確かな目で見つめ︑自分自身にいつも素直で忠実であったために挫折していったぎりぎりの生を見た︒ 一人の人聞が︑自分の弱さ︑

16

(中

学 三年

女子

一九八五年)

③私は葉蔵を見捨てることができなかった︒彼にひかれ︑葉蔵に優しい気持ちをいだくようになっていた︒

自然に作者太宰治を考えずにはいられない︒(中学三年女子

一九

八六

)

①あまりにも優しい心と︑純粋な心故に︑世間的な︒人問︒を失格した葉蔵の死を無駄にしないような生き

方をしていきたい︒

(中

学二

年女

一九八六年)

⑤﹁恥の多い生涯を送ってきました︒﹂葉蔵の告白は︑作者太宰治︑

修治としてのつぶやきであった︒(高校二年女子 いや作家としての衣を脱いだ一個人津島

一九

八六

年)

太宰治の自画像とも︑遺書ともいわれている﹃人間失格

﹄から︑彼がどんな気持ちで書き続けたのか読み

とりたい︒作者自身︑小説の中に溶け込んでいる︒(中学二年男子一九八七年)

⑦私は共感さえした︒やっぱり私も﹁人間失格﹂なのか︒(中学三年女子

③この本を読ま︑なければ本当の人間の生き方など考えずに終わっていた︒(中学三年女子

①﹁

道化﹂とは︑偽善に満ちた人聞社会に気付いてしまった葉蔵の︑哀しい自己救済の手段であった︒葉蔵は︑ 一九八八年)

一九

八八

年)

私の心の中に︑いつまでも︑警鐘を鳴らし続ける存在になった

︒(

校三年女子

一九

八八

年)

⑩葉蔵の中に私自身の弱さ︑醜さ︑更には飾り気のない人間の真実を見いだす思いをし

︑私の中にも彼がい

るのだと認識させられた︒(高校一年女子一九八九年)

⑪世渡りが下手でもいい︑いやらしい偽善者にはなりたくない︒自分に正直に生きてゆこう︑そう決心した︒

(中

学 三年

女子

一九

九年)O

⑫葉蔵と同じように心のどこかで愛情に飢え︑孤独に苦しんでいる︒私自身の中に葉蔵と同じものを見

てし

まった︒真実を追究し︑悲しみ︑怒り︑傷つく方が︑﹁人間失格﹂どころか︑より﹁人間らしい姿﹂なのだ︒

(高

二年女子一

九九

O年)

⑬彼の考え方や生き方は︑私達の内部にも存在する人間本来の姿だ︒己の心に忠実に生きることを目標にして︑

人生を歩んでいきたい︒(中

学三

年女子一九

一年)

⑬葉蔵は太宰治そのものなのだ︒太宰は自分の死をもって︑﹃人間失格﹄を世間という大組織に対抗し得る域

にまで高めようとした︒(高校三

年男

一九

一年)

⑬なぜ素直に生きることが人聞を失格することなのか︒﹁人間失格﹂だれもがこれに値する︒傷ついても︑欺

かれでも私は一生懸命に生きよう︒人を欺きそうな自分に気づいたら︑もう一度この本を聞きたい︒

(中

三年女子一

九九

三年)

⑬この作品が太宰の自伝であるならば︑私はこの一文に彼の本来の姿をみる︒この小説に接して︑私は人間

の本質について考えるようになった︒(高校三年女子一九九四年)

何度読んでみても︑葉蔵と作者の姿が重なって見えてきてしまう

︒自らの欠点や醜さを直視し︑認めなが

ら生きていくことは苦痛をともなうが︑そうして自己を見つめる自分をいとおしみ愛し続けるだろう︒

( 通

信制高校一年女子

一九

九五

年)

⑬私は葉蔵と同じ種類の人間だ︒

社会の中に自分の個性をうずめているのではなく

︑自分の力で︑自分の意

志で生きて行きたい︒自分自身を﹁失格﹂と認めてしまわぬように︒(

中学

三年

女子

一九九六年)

⑬自分の中のある業蔵的部分を物語に共鳴させてしまい︑やり切れない思いになった私達︒太宰は知っていた︑

誰もが葉蔵であった︒やはり太宰は生きているのだ︑﹁私の太宰﹂となって

︒(

校三

年女

一九九八年)

地獄絵の唱導と近代文学 163 

し︑自己の中に存在する醜いものに気づかされ︑ これらに見られるのは︑人間や社会の醜いものに対面する主人公の告白に接して︑読者自身が作品に自己投影

やがてその存在のあるがままを認めて︑癒される読者像である︒

164 

また︑小説の主人公の告白は︑作者太宰治の自伝的告白であると捉える作者像もみられる︒読者は︑葉蔵と太宰

と読者が秘密の告白を共有しあって︑それぞれが﹁私の太宰﹂を形成しており︑これが﹁太宰ファン﹂の典型と

なっている︒太宰の妻津島美知子は︑﹁生理的にたいへん健康な人は︑太宰の書いたものを芯から理解できない

のじゃないか﹂と述べている[目︒心に陰を持つゆえに︑太宰の作品と太宰自身の生き方によって心を癒される

のが﹁太宰ファン﹂なのである︒

太宰の作品を自己に引きつけて主観的に読む読者にとっては︑太宰の作品は自己と対話するテキストとなる︒

﹃思 ひ

出﹄は︑太宰の少年時の悪や秘密の告白であるので︑読者にと

って は

︑自身の過去と重ね合わせて︑その

悪や秘密を癒すには好都合な作品となる︒

﹃津 軽﹂ は

︑太宰が故郷の津軽地方を巡礼する作品であり︑作家太宰

治を形成した本源に向かう旅に︑読者をいざなう紀行文であるので︑﹁太宰ファン﹂にとっては︑太宰とともに

旅ゆくことができる太宰の世界への巡礼書の一つとなる︒彼らは︑太宰が作品に描いた土地を訪れる巡礼者であ

一度は行って自分で確るので︑太宰の生家の斜陽館や幼時に行った雲祥寺は︑彼らにとっては聖地なのであり︑

かめて︑太宰の幼少期に思いをはせながらそこを見学したい場所なのである︒

太宰の生家である津島家の住宅は︑昭和二十三年に津島文治が角田唯五郎に売却し︑昭和二十五年から旅館

﹁斜陽館﹂として開業した︒昭和五十

一か ら

は黒滝氏が所有して営業した︒昭和五十六年ごろの﹁斜陽館﹂は︑

旅館になっているので誰でも泊まれ︑宿泊しなくても一階はもとの土聞を改築して喫茶庖になっていたので︑内

部を見ることができたという

[ 目

︒斜陽館は平成元年に金木町指定有形文化財に指定され︑平成八年に旅館を廃

ドキュメント内 絵解きと縁起のフォークロア (ページ 159-189)

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