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明 ? 笹

ドキュメント内 絵解きと縁起のフォークロア (ページ 93-133)

神ん

と 申 奉 る は

E

︿

往昔花洛に三候小鍛冶宗近といへる鍛冶有︒人王六十六代一候

略縁起の成立と変化 93 

︿

帝の御字︑永延二年禁廷へ宗近を召れ︑近来所/¥に夷秋蜂起し︑叡慮を悩し奉る︒諸将の輩

兵 革

︿ U

hu

hUねちか干支の止時なし︒汝名工の誉世に知れる所なり︒此

度 最 上 の 剣 を 鍛 へ 捧 べ き 旨

︑ 倫 命 尤 他 に 異 り

︑宗近

︿

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難 レ 有 謹 て 領 掌 し

既勅答終て我家へ帰り︑百日精進潔斎し︑日頃念ずる藤の森稲荷の社へ参龍し

﹁ 帰

hu

命頂札稲荷大明神︑心願空しからずんハ︑何卒希代の剣を打しめたまへ︒﹂と︑丹誠無二の祈念を起し︑直

に孟にか冶りて鉄を鍛ふ︒宜なるかな︑稲荷の神合鎚を助たまひしかパ︑計ざるに心に

叶ふ剣を鍛ひ出し︑

すなハちてうて

‑っ

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即朝廷に捧奉る︒氷の刃堂上を照し︑麗しき事云斗なし︒時に叡感淳しく悉も宗近を賞美の余り︑本朝

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huねちかきゃう且つな︑めE

鍛冶の首匠たるべしと︑官一命の下るにまかせ︑受領俸録行る︒宗近恐悦斜め・ならず︑

自鍛る小刀を以て

&

︿

稲荷の神像を彫刻し︑合鎚稲荷を尊号し︑我家に安置し奉る︒世人是を尊む事世にまた痢然し

そ れ よ り 星 霜 累 て

︑ 建 長 四 年 鎌 倉 征 夷 大 将 軍 頼 嗣 卿 帰 洛 の 後

副元帥北条相模守平時頼朝臣︑天聴に

E

達し︑親王を招し下し将軍職を嗣せ泰んと︑其時の惣奉行宿谷左衛門尉光則を使として

︑人王八十七代後

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︿

嵯峨帝第一の皇子宗尊親王いまた若年にて渡らせ給ふを︑御迎のため上錐せしめ︑花洛に数日滞留の内おも

¥

ひらくハ︑﹁世間いまた穏ならず︑何と

ぞ名剣を求

君を守護し奉らん︒﹂と︑方々尋︑漸兼て願し

小鍛冶

の剣を乞求む︒其夜光則夢ミらく︑一人の童子忽然として枕に立︑﹁いかに光則︑予ハ是宗近が信ずる所の

&

&

稲荷なり︒不断此剣を守護なせり︒汝此剣を得て鎌倉へ帰りなパ︑予も剣と友に行なん︒予を念ずる輩ハ︑

︿

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衆 人 愛 敬 疑 な く

︑心願ことに満足せん︒﹂と覚ての後︑枕元に小洞有︒光則奇異のおもひをなし︑聞きミれ

︿

パ木像の稲荷の神にて御座︒難レ有もまたたのもしく︑直に御供仕り将軍と友に鎌倉に誘奉り

︑此剣を

/

¥

帯し将軍を守護し奉り︑

E

また神影ハ鎮守とあほき︑愛敬稲荷と崇敬す︒弥国家安寧︑高民快楽︑衆人愛

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敬ます/¥に難レ有

神威也

︒今

宿谷の鎮護の神山上に神佑て︑都都の参詣袖を列︑霊一験誠にあらた也

︒今

しゃとうにきやか

︿

た社頭賑に猶/¥神位弥増せり

︒奇

瑞霊験数多なれハ書載るに連あらず

︒伺略して記する事左のことし︒

94 

2

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長は

f

谷せ

1

E

i

宿

2

3 E 6

谷や

則?

i

2

右の略縁起の梗概は次の通りである

︒①

三条

小鍛冶

宗近が一条天皇の命により最上の剣を打つため︑藤森稲荷

に心願すると︑稲荷神が相鎚を助けた︒

宗近は剣を朝廷に献上すると︑本朝鍛冶の首匠とされた

︒②宗近は小万

で稲荷の神像を彫刻し︑

合鎚稲荷として自宅に安置した

︒③

宿谷光則が宗尊親王を鎌倉に迎えるために上洛した

折に︑小鍛冶の名剣を求めると︑稲荷神の

夢告があり稲荷の木像が現れた

④光

則はこの木像を愛敬稲荷と称し

て宿谷の自邸に鎮守として把った︒

藤森稲荷とは︑江戸時代の関東における伏見稲荷の呼称である

[3 ] ︒ 愛

敬 稲 荷 の 開 帳 と 略 縁 起 の 変 化

この略縁起よれば︑愛敬稲荷は建長四年に宿谷光則が把ったというが︑愛敬稲荷が記録にあらわれるのは︑十

八世紀以降の開帳記録からである

享保十年

( 一

七二五)の開帳は︑﹃

享保世話

巻 一

[4]

に︑

o

鎌合宿谷村︑

日蓮大菩薩御身骨・愛敬稲荷大明神︑六月朔日より七月廿九日迄︑下谷宗延寺開帳︑別当光則寺﹂とある

︒明和

元年(一七六回)の開帳は︑﹃武江年表﹂

には

︑﹁

O深川浄心寺にて︑鎌倉宿谷光則寺祖師開帳﹂とあり︑﹃開帳

差免帳﹄には開帳仏として﹁日蓮之像・鎮守稲荷神鉢﹂をあげる︒{玉暦十三年の﹃延齢高祖大菩薩略縁起﹄

は ︑

翌年の明和元年の開帳のために刊行されたものであり︑祖師像の由来を記した後に︑

故今に高祖の御真骨︑件什光則寺本尊の愛敬稲荷大明神一説怖︑宝物等有之︑先年古田兵部少輔重恒後室大梅

院︑九死一生の大病の時︑延齢高祖の霊夢二依而本服し︑破壊の堂宇を再興せり︑一叡耕一一一能川いい︑今般堂

宇大破につき︑奉

レ達二

公聴

一︑於

一 一 深川浄心寺

一︑未申の四月十

日より六月十三日迄六十日の問︑為

二結

略縁起の成立と変化 95 

① 

光則寺の開帳と略縁起

{

lo 7

J¥. 

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~-

r工 J工 r工

3 {

) 1

i告 大 三ァ

4 pJi 

敬 蓮

象 {

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l5

要 量

96 

縁一令

一 一 一開帳︑

と記されてい

る ︒

これ

によ

って ︑

享保十年と明和元年の開帳仏とおもな霊宝は︑祖師像・祖師の御真骨・小鍛

冶宗近作の愛敬稲荷神体像であったことがわかる︒

文化二年

(一 八

O五

)

と天保十一年

( 一

八四

O)

の開帳仏に

つい

ては

﹁開帳差

免帳

﹂には﹁日蓮之像・霊宝

等﹂とだけあって︑具体的には記されていない︒

しか

し︑

﹃ 愛

敬稲荷略縁起﹂の表紙の開帳刻記によれば︑この

略縁起は文化二年の開帳のために刊行されたものであり︑光則寺の﹃開運延齢高祖大菩薩略縁起﹂[5]も天保

十一年に刊行されたものであるところから︑これらの開帳仏も享保・明和の開帳と同様だったとみられる︒

延齢高祖大菩薩略縁起﹄(

天保

一年)は︑日朗の入{牛︑日蓮の佐渡配流と赦免︑宿谷光則の帰依まで﹃開運

を ︑

﹃延齢高祖大菩薩略縁起﹄(宝暦十三年)を下敷きにして記述している︒

それ

に続

けて

こふそにとひたてまっ

U

︿

や︑あって奉

間 高 祖 日

︑ 我 先 年 将

軍宗尊親王

御倶の為上

京せし時︑或公家より三候古鍛冶宗近の作古

め伝らすよる

狐丸宝剣を給わり︑武門の

第一

魂 な れ パ 不 斜 悦 し

︑ 其

夜独の神女頭に白狐を頂き︑忽然として枕上に立

︿

われなんじ

ぎつねあい

るぎくわんとうて示して目︑﹁我ハ汝が得る処の古狐丸の合槌を打たる稲荷大明神也︒今より剣と共に関東に下て汝を守護

ドキュメント内 絵解きと縁起のフォークロア (ページ 93-133)

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