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堂 ・ 業

ドキュメント内 絵解きと縁起のフォークロア (ページ 133-159)

大川民純紀伊名所案内発行所明治四十二年

( 一

O九

)

学文路にある︑名高い刈萱物語りで知らぬ人がない︑石堂丸の止宿した玉屋も亦此村にあ

る ︑

﹁高

野山

名勝

内﹄

‑学文路の里に‑仁徳寺あり︑苅萱堂と号して世に名高き石童丸の古蹟なり︑其母氏の墓あり︑

明治時代以降も︑学文路は千里・石童丸の母子が宿った所であり︑玉屋はその由緒ある旧家で︑仁徳寺に千里

の墓があることが知られていた︒

高野山の~ij萱伝説と絵解きの成立

133 

図 @

r~ij道心行状記J (高野 山苅萱:M:版、明治43年)

四 大 正

・ 昭 和 期 の 高 野 山 苅 萱 堂 での出版活動

134 

﹃苅萱道心

行状記

﹄は︑江戸時代は木版本であったが︑高野山

では︑光明院の山形聖道により編集されて︑明治三十二年に︑活

字版七十九頁で刊行された[図

② ] ︒

移転後の苅萱堂ではこれをも

とにして︑高野山の参詣者に苅萱物語を宣伝したのだろう︒高野

山版活字本﹃苅萱道心行状記﹄の序文には︑﹁高野山苅萱堂に秘蔵する苅萱道心行状記は︑真にこれ実伝なり﹂

と記されている︒江戸時代の高野山では︑苅萱物語はあまり語られていなかったわけであるが︑ここではあたか

も古くから高野山に苅

物語があったかのように主張した

︒学文路でも︑明治四十年に︑仁徳寺を管理してい

た西山徳左衛門が︑高野山にならって八十頁の﹃苅萱親子一代記﹄を刊行した︒これは︑内容は﹁苅萱道心行状

記﹂であって︑題名だけ変えて印刷したものであるが︑やはり序文に﹁学文路仁徳寺に秘蔵する苅萱道心

親子

代記﹂というように︑高野山版と同様のことを記している︒明治末期に︑高野山と学文路ではたがいに意識しあ

って︑苅萱物語を出版していたのである︒

また︑高野山苅萱堂では﹃苅萱道心行状蔓茶羅﹂(縦六九・八x横三九・三センチメートル)

していた[図

⑧ ] ︒

これは︑刊年は未詳だが︑﹁画工探舟謹写 の絵紙を刷って頒布

版権所有紀伊国高野山四百六拾二番地山

形玄

浄﹂

とあり

︑明治期に出版されたものと推測される︒中央に﹁親子三人地蔵化身﹂と記して三体の地蔵像を描き︑

一加藤繁昌祈後継嗣二

石童丸御要馬

つの周囲に二十七図をめぐらせている︒各図の詞は以下のとおりである︒

五繁昌卒新亭ニ原田種正送良女六数高私四繁氏継跡守博多

発逆意跡

七爪木謀殺千里姫 十 二 繁 氏 諸 国 中 旧 跡 十

繁氏脱官霧登叡山

十五千里姫至播

十六千里姫産 廿千里石塔丸慕父到紀ノ園︑其

八早足漆

斬 乞

EJ

九 千 里 姫 遁 九 州 十 介 保 自 殺 救 主 君 十四繁氏逢異人受講

十一桂子花園観

男子

十七繁氏入黒谷叡空室

十九数高被救早足 十八等阿蒙大師示語

苅萱道心行;犬長茶羅J(高野111苅萱堂版、筆者架蔵)

高野山の苅宣伝説と絵解きの成立 l3

図⑧

石塔丸母別赴南山廿一石童丸尋父登南山廿三玉屋与次語往生廿四苅萱父子慕大師廿二千里姫没旅亭

廿

六 苅 萱 大 往 生 廿 七 道 念 法 師 往 生

これらは高野山版﹃苅萱道心行状記﹄の二十七章に編集された章題にほぼ対応しており︑これに依拠して描か

れた図である︒高野山版﹁苅萱道心行状記﹂を絵解きの台本として︑絵紙の﹃苅萱道心行状目撃余羅﹄を絵解きす

ることが可能である︒明治期の地誌に見られたような高野山苅萱堂での唱導活動は︑﹃苅萱道心行状記﹄

の活

徳廿五苅萱到信州善光寺

136 

本や絵紙によってもなされていたのである︒

大正から昭和初期にかけては︑苅萱物語は絵入り本によって広められた︒高野山で発行された苅萱物語の絵入

り本を見てゆこう︒

①﹃

苅菅

一と石童丸﹄野寺元隆

一代記の図︑十四図を付す(善光寺での往生なし) 高野山苅萱堂大正四年(一九一五)

全三

二 頁

(﹃

苅萱

道心

行状

に依

拠)

② ﹃

苅萱道心と石童丸﹂野寺元隆

③﹃ 苅萱 石童 丸 一 代 記 萱 の い ほ り

﹄野寺元隆

行状記﹄に依拠)三十銭(昭和五年の価格︑以下向)

挿絵二十図︑﹁苅萱と石童丸和讃﹂﹁石童丸琵琶歌﹂を付す

( 善

光寺

で往

) 高野山苅萱堂大正五年(一九二ハ)全五十二頁

高野山苅萱堂大正七年(一九一八)

全二

二二

頁(

﹃苅

萱道

④﹃ 高野

山哀史高野山苅萱堂

苅菅

代記を詳しく記す︑苅萱の古蹟の写真数葉

口絵

︑﹁

苅菅

一と石童丸和讃﹂﹁石童丸琵琶歌﹂を付す 石童丸﹄徳富元隆

大正

十三

年(

二四

)

全一一九頁五十銭

⑤﹃ かる かや

石童

丸和

讃﹄

五行二段組

折本

十五銭

⑥﹃

南嶺哀話悟道の跡﹄笹川臨風高野山苅萱堂昭和三

年(

一九

二人

)

全二三六頁

一円

二十

文学者が苅萱父子の一代記を流麗平易に述べる

昭和田・五年

(一

九二

・三

O)

苅萱堂の一代記の額絵を全部写真版に掲げ簡単な説明を付す

高野山苅萱堂では︑大正

四年

に︑

高野山刈

萱堂を管

理する密厳院の住職である徳富(野寺)元隆

師が

①﹁

苅 ⑦﹃かるかや石童丸写真帳﹄高野山苅萱堂

五 銭

萱と石童丸﹄という三十二頁の小冊子を発行する[図

⑧ ] ︒

この本には挿絵が十四国入

って

いる

これに付された

﹁苅萱と石童丸和讃﹂では善光寺で往生した結末となっているが︑この本の本文での結末は︑苅萱親子が善光寺

に行ったことには触れずに終わっており︑暖味ながら高野山で往生したような話になっているcこれ以後の大正

期から昭和初期には︑③④⑥が発刊されたが︑頁数がだんだん増えてゆき︑二三六頁の大部で詳細な物語まで現

れた

盲目

数の

増 加は物語の増幅と脚色化であった︒明治三十二年の高野山版

﹃苅

萱道

心行状記﹂は︑表紙に苅萱

親子の対面の図を掲げただけで挿絵のない文語文であった︒しかし︑大正期には十四図を連続して掲げた絵本と

口語文の読み物が成立し︑さらにそれは増幅されて大部の読み物に成長していった︒連続した絵の頁では︑絵を 見ながら物語を語るという活動が想定できる︒また︑口語文の読み物の巻末には苅萱物語の和讃や琵琶歌が付さ

図⑫ 『苅萱と石童丸J(高野ji:j 堂版、大正4年)

れ︑それを口ずさむことも可能であった︒後には和讃本

は独立して発刊され廉価で販売された︒大正期から昭和

初期の高野山苅萱堂では︑高野山の参詣者に向けて積極

的に絵本や読み物を発刊して頒布し︑苅萱物語が広めら

れた︒

高野山苅萱堂で現在でも売られている絵本や漫画

の本は︑絵解きが成立する以前からあった絵入り本の流

れにあるものとして興味深い

2 3

高野山のjii宣伝説と絵jfJI(きの成立 137 

五 昭 和 初 期 の高野

山 苅

菅一

堂 での絵解き

138 

高野山苅萱堂で大正期に作られた絵本と読み物は︑やがて最後の頂点として︑﹃

苅萱上人石童丸御一代記絵

伝﹂の絵解きに結実した︒昭和田・五年に︑苅萱堂が改築されたが︑そのとき三十幅の額絵として︑﹃苅萱上人

石童丸御一代記絵伝

が描かれて掲げられた

[3

]この額絵が作られるとすぐに︑﹃かるかや石童丸︒

写真

帳﹄

も刊行されて五銭で頒売された

︒その宣伝文には︑﹁苅萱堂什物の一代記の額絵を全部写真版になし︑簡単なる

説明を附したものです︒﹂とある︒

江戸時代の高野山では︑苅萱の物語は無関係とされていたが︑明治期になり︑女人禁制も解かれて交通が整備

され︑観光化される中で︑苅萱物語は高野山に縁が深い話として宣伝された︒その方途として活字版で文語の苅

萱物語が出版され︑大正時代には︑読みやすい口語の苅萱物語の簡略本ができて︑そこに挿絵が多く入った︒す

ると︑挿絵本を見ながら苅萱物語が楽しまれ︑昭和になるとそれは額絵となり︑絵解きが成立した︒昭和初期に

改築されたと同時に額絵が掲げられたので︑はじめから多くの参詣者に向けて物語を語る絵解きの堂として︑苅

萱堂が改築されたのだと考えられる︒その直後に山田義行氏が︑額絵をもとにした絵解きの台本を作って絵解き

を始めた︒

これ

は昭和五十五年に﹃石童丸のお話﹄と題する台本として残され︑三代目の山田昌弘氏に継承され

ていった︒現在では山田氏と大川正雄氏が絵解きを行っている︒

平成元年から︑昭和初期の額絵のかわりに︑新たにそれを複写して製作された彫刻板絵が掲げられ︑板絵の額

絵によって絵解きが行われている︒多くの絵解きは︑絵の前に座って話を聞くものであるが︑高野山の

絵解

きは

絵が並んでいるところを一緒に歩いて額絵を見て絵解きを聞く︒石童丸と苅萱の人生の遊旅を︑一緒に歩きなが

らたどって︑苅萱・

石 童 丸 の 往 生 ま で た ど り つ く と い う 歩 き な が ら 移 動 す る 絵 解 き で あ る ( 近 代 の 高 野 山 苅 萱 堂

での絵解きについては

︑本

書E第一章五節参照)︒

[1]日野西良定﹁高野山麓苅萱堂の発生と機能i特に千里御前の忠一女的機能について│﹂(大限和雄・西口順子編﹃忍と女神﹄

シリ

ーズ女性と仏教4︑平凡社︑一九八九年)︒

[2]井上与志夫

・加

藤直

(絵 )︑ 五雨 みな 子( 文)

﹃石童丸﹄

( ボ

ール紙絵本︑十頁︑高野山苅萱堂刊)︒加藤直

(絵

)

﹃石童丸﹄

(漫

画﹁

苅萱と石童丸和讃﹂を付す︑五十二頁)︒中村ひろし

(画

)

﹃苅萱上人と石童丸﹄

( 漫

画﹁苅萱・石童丸わさん﹂を

付す︑五十二頁︑大道社刊)

︒ ﹃ 教育劇画苅萱上人と石童丸

﹂(六十四頁︑近畿出版企画刊)︒二宮金嶺(画)﹃苅萱と石

室丸絵伝﹄(徳'旬元隆﹁苅萱道心と石室丸﹂﹁苅萱と石童丸和讃﹂を付す︑高野山苅萱堂刊

) ︒

[ 3

]

久野俊彦﹁古

川野 山苅 萱堂

﹁苅萱上人石室丸御一代記絵伝﹄の絵解き﹂(﹃絵解き研究﹂

五 ︑ 一九八七年)︒大川正雄・久野

俊彦﹁高野山苅萱堂﹁苅萱道心石堂丸御一代記絵伝﹂﹂(林雅彦編﹃絵解き万華鋭﹄三

一宮

一一

房︑

一九

九三年

) ︒

大川

正雄

久野俊彦﹁苅萱上人石室丸御一代記絵伝﹂(林税彦編﹃﹁日本の絵解き﹂サミット報告集山岳集場と絵解き﹂人間文化研

究機構連携研究

﹁日 本と ユ

ラシ ア

︒交流と表象﹂﹁唱導文化の比較研究﹂班︑二

OO

六年

) ︒﹃

苅萱上人石童丸御一代記

絵伝﹄は︑昭和初期に二宮金嶺が画いたもので︑絹本著色︑各幅縦一一一一一×横八七センチメートルである︒

高野山の苅萱伝説と絵解きの成立 139 

ドキュメント内 絵解きと縁起のフォークロア (ページ 133-159)

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