前節において,射影束を観測命題束と考える根拠を述べた.そこで,以下では,射影束 を観測命題束と呼び議論を進める.また,前節でみたように,射影作用素PEO(自己共役 作用素Oの1次元の単位の分解において,ボレル集合 E に対応付けられる射影作用素)
は観測命題|[O, E]|(「物理量Oを測定しボレル集合 E 内に測定値を得る」)と対応付け られる.
PEO ⇔ |[O, E]|
そこで,この対応付けをもって,PEO自体を観測命題と呼ぶこともある.
本節の目的は,量子力学という理論の標準的理解をできる限り厳密に与えることであ る.ただし,ここでいう標準的理解とは,コペンハーゲン解釈やボーア=ハイゼンベルグ の解釈のことではない.現在の数理物理学の標準的教科書(例えば,文献[52])において 量子力学の公理として与えられる理論的内容を,その根拠づけも含めてより精緻に定式化 することを目指す.
まず,観測命題束(P(H), ≤, ⊥)上に確率測度を導入しよう.なお,次の定義は,P(H)
(ヒルベルト空間上のすべての射影作用素からなる束)だけでなく,後のより一般的な議
論も視野に入れて,ヒルベルト空間H上の射影作用素からなる任意の σ-完備なオーソモ ジュラー束P 上で定義しておく.
定義 9. P をヒルベルト空間H上の射影作用素からなるσ-完備なオーソモジュラー束で あるとする.P から[0,1](0から1までの閉区間)への写像ρ が次の条件を満たすとき,
P 上の確率測度という.
1. 単位作用素I について,ρ(I) = 1である.
2. 相互に直交する射影作用素からなる可算集合{Pn}について,級数∑
nρ(Pn)が収 束し,
ρ(∨nPn) = lim
n→∞
∑
n
ρ(Pn)
である.
上で定義したときのように,{Pn}が相互に直交した射影作用素の可算集合であるとき,
{Pn}を含む,最小のσ-完備な直可補部分束は,σ-完備なブール束となる.上で定義した P(H)上の確率測度を,このブール束上に制限すると,古典的な確率測度となる.
もちろん,量子力学的状態が与えられると,それを用いて P(H) 上に確率測度を定め ることができる.例えば,状態ベクトルφが与えられると,それぞれの射影作用素につ いて,
ρφ(P)≡(φ, P φ) P ∈ P(H) と定義すると,これはP(H)上の確率測度となっている.
ただし,あとの議論のことも考え,状態ベクトルによる状態表示ではなく,密度作用素 によるより一般的な状態表示を用いたい.密度作用素の数学的定義は,次の通りである.
定義 10. ヒルベルト空間H 上の線形作用素Dが次の条件を満たすとき,密度作用素と いう.
1. Dは正作用素である(すなわち,任意のφ∈ Hについて,(φ, Dφ)≥0). 2. T r(D) = 1である.
条件2におけるT r(D)は,線形作用素Dの「トレース」と呼ばれる値である.その値 は,Hの完全正規直交系{φn}を用いて,
T r(D)≡∑
n
(φn, Dφn)
と定義される.条件1より,Dは正作用素なので,それぞれのnについて,(φn, Dφn)の 値は非負の実数である.一般には,トレースは収束するとは限らない.条件2は,密度作 用素はトレースの値が収束し,そのうえ収束先は1である,といっているのである.
正作用素は自己共役作用素なので*44,密度作用素は自己共役作用素である.そのうえ,
上のように定義された密度作用素は,いつでも,和が1へと収束する正の実数の可算集合 {en}(ここで,e1 ≥e2 ≥e3 ≥ · · ·)と相互に直交する 1次元射影作用素{Pn}を用いて 次の等式(27)のように表示できる*45.逆に,上述の条件を満たす{en}と{Pn}を用い て下の等式右辺のように書いた作用素は密度作用素となる.
D =∑
n
enPn (27)
さて,系の状態が密度作用素表示を用いてDであるとき,証明は省略するが,
ρD(P)≡T r(DP) P ∈ P(H)
と定義すると,これはP(H)上の確率測度となっている.D が単なる1次元射影作用素 である場合(これもまた,上の定義に照らし合わせると密度作用素である),すなわち,
D=Pψ(ここで,右辺はノルム1のあるベクトルψによって張られる1次元部分空間の 上への射影作用素)であるとき,任意の観測命題|[O, E]|について,
T r(DPEO) =T r(PψPEO) = (ψ, PEOψ)
となるが,最後の式は,ボルン規則によって,測定対象である系が状態ベクトルψで表さ れる状態にあるときに観測命題 |[O, E]|に付与される確率に他ならない.要するに,状態 ベクトルにより表される状態は,密度作用素による状態表示において1次元射影単独で表 される密度作用素に対応する.このような状態は純粋状態と呼ばれる.
一方,D が単なる 1 次元射影作用素でない場合には,次のようになる.その場合 D= ∑
nenPnのように和の形式をとるが,Pnは1次元射影なので,それぞれのnにつ きPn =Pψn となるノルム1のベクトルψnが存在する.よって,
D=∑
n
enPn=∑
n
enPψn
となる.すると,任意の観測命題|[O, E]|について,
T r(DPEO) =T r( (∑
n
enPψn)PEO)
=∑
n
en(ψn, PEOψn)
*44証明は,例えば[54]の35頁の命題2.1.9を参照
*45このことは密度作用素がコンパクト作用素であることから証明できる(文献[54]の「コンパクト作用素 の節を参照).
となる.最右辺の各項における(ψn, PEOψn)は,対象とする系の状態がψnのときに観測
命題|[O, E]|が真となる確率であった.上式の最右辺では,それらの各項が,和が1となる
正の実数{en}の重み付けのもとで加えられている.そこで,密度作用素D =∑
nenPψn は,次のような部分集団からなる統計集団の状態を表すと考えることができる.各部分集 団はnごとに与えられ,状態ベクトルψnで表される純粋状態にある系からなる.そのよ うな各部分集団をそれぞれ割合en で含む統計集団である.このように,複数の純粋状態 それぞれに和が1となる重み付けを掛け,それらを加えた状態のことを混合状態という.
すでに述べたように,密度作用素D によりP(H)上に確率測度T r(DP)が導入され る.ところで,その逆は成立するだろうか.すなわち,P(H)上の任意の確率測度ρには,
ρ(P) =T r(DP)
を満たす密度作用素が存在するのだろうか.もし存在しないならば,量子力学による状態 表示は不完全ということになるだろう.この問いにたいし,グリーソン [19]は次の定理 を証明した.
定理 2. グリーソンの定理
P(H)上の任意の確率測度ρにたいし,ある密度作用素 Dが存在し,任意の射影作用素 P ∈ P(H)について,
ρ(P) =T r(DP) が成立する.
したがって,量子力学において密度作用素を用いて導入される確率測度は,P(H)上の すべての確率測度を尽くしている.
物理量(自己共役作用素)Oを固定し,その1次元の単位の分解に現れるすべての射影 作用素の集合,すなわちB(O)≡ {PEO : E ∈B(R)}は,P(H)における演算「∧ 」,「∨
」,「⊥」をそのまま用いて,σ-完備ブール束となる.実際,次の諸事項が成立する.
(a) PEO
1 ∨PEO
2 =PEO
1∪E2 ∈ B(O). (b) PEO
1 ∧PEO
2 =PEO
1∩E2 ∈ B(O).
(c) (PEO)⊥ =I−PEO =Pσ(O)O −PEO =PEOc ∈ B(O). (d) σ-完備性:可算集合{PEO
n}について,∨nPEO
n =P∪O
nEn ∈ B(O).
σ-完備性についてのみ,みておこう.{En}は相互に排他的である(すなわち,l6=mであ るときEl∩Em =∅)とは限らないが,F1 ≡E1, F2 ≡E2−F1, F3 ≡E3−(F1∪F2), · · · のように定義すると,相互に排他的な集合{Fn}を定義でき,そのうえ∨nPEO
n =∨nPFO
n
およびP∪O
nEn =P∪O
nFn となる.そこで,{En}が相互に排他的である場合のみを考えれ ば十分である.さて,一般に,相互に直交する射影の可算集合{An}において,
∨nAn = s- lim
N→∞
∑N n=1
An
となる(証明は,例えば [38]のp. 57のProposition 4.15を参照).{En}が相互に排他 的であるとき,「1次元の単位の分解」の定義より{PEO
n}は相互に直交する.すると,
∨nPEO
n = s- lim
N→∞
∑N n=1
PEO
n
となる.一方,上式の右辺は,やはり,「1次元の単位の分解」の定義より,
s- lim
N→∞
∑N n=1
PEO
n =P∪O
nEn
である.よって,∨nPEO
n =P∪O
nEn となる.
さて,すでに述べたように,対象とする系の密度作用素がDであるとき,P(H)上に確 率測度ρD ≡ T r(DP)が与えられるのだった.この確率測度の定義域を,自己共役作用 素Oのσ-完備ブール束B(O)に制限すると(制限したものをρD[B(O)]と表記する),これ はB(O)上の古典的な確率測度となる.そこで,(
B(O), ρD[B(O)])
は古典確率空間となる.
とりわけ,こらからみるように,次の事実が成立する.{En}は,E =∪nEnなる,相 互に排他的な可算個のボレル集合であるとする.密度作用素Dの状態にある系にたいし Oを測定したときに,観測命題|[O, E]|が真となる確率P rD(O, E) =ρD[B(O)](PEO)と,
それぞれのnについて,観測命題|[O, En]|が真となる確率P rD(O, En) =ρD[B(O)](PEO
n) との間に,可算加法性
P rD(O, E) = lim
N→∞
∑N n=1
P rD(O, En) が成立する.
まず,1次元の単位の分解の定義における条件2より,PEO =s−limN→∞∑N n=1PEO
n
である.以下,わかりやすさのために,Dが純粋状態である場合と,混合状態である場合 に分けて考えよう.混合状態である場合は,純粋状態である場合の線形結合になっている ことに注意してみてほしい.
• 純粋状態である場合(D =Pψ) そのとき,
P rD(O, E) = (ψ, PEOψ)
= (ψ, ( s- lim
N→∞
∑N n=1
PEO
n
)ψ)
= (ψ, lim
N→∞
∑N n=1
(PEO
nψ) )
= lim
N→∞
∑N n=1
(ψ, PEOnψ))
= lim
N→∞
∑N n=1
P rD(O, En)
• Dが混合状態である場合(D=∑
memPψm)
P rD(O, E) =T r(DPEO)
=∑
m
em(ψm, PEOψm)
=∑
m
em(ψm, ( s- lim
N→∞
∑N n=1
PEOn) ψm)
=∑
m
em(ψm, lim
N→∞
∑N n=1
(PEOnψm
))
= lim
N→∞
∑N n=1
∑
m
em(ψm, PEO
nψm))
= lim
N→∞
∑N n=1
T r(DPEOn)
したがって,P(H)上の確率測度を B(O)に制限して考えると,ボレル集合族において可 算加法性を満たすことがわかる.
さきに,系の状態が状態ベクトルで表される場合におけるボルンの確率規則を述べた.
密度作用素表示において,その規則は次のようになる.
ボルンの確率規則: 「物理量Oを測定したとき,ボレル集合E内に測定値を得る」確率 はT r(DPEO)である.
ここで,「物理量Oを測定したとき」ということによって,P(H)からブール的枠組み B(O)が選び出され,そのうえに古典的な確率測度が量子論的状態によって与えられるこ とになる.