前節でみたように,量子力学的相関を用いて信号を送ることはできない.したがって,
量子力学自体が非常に「露骨な」形で非局所的性質をもつ,という結論は避けられた.そ
こでこのことをもって,量子力学的相関をもつ二つの事象間に因果関係はないという自然 で望ましい結論が得られると考えるかもしれない.だが,信号伝達が不可能であることか ら,因果関係がないということがただちに帰結するわけではない.前節では,量子力学に おける遠距離相関をもつ一方の粒子(粒子2)の状態を変えることによって,もう一方の 粒子(粒子1)に関する統計的予測を変えることができるか,という問題について考えた.
そこで考察されたのは,信号の受け手が認識できる客観的な違いが存在するかという問い であった.だが,因果関係の有無は,それを認識できるかというレベルで論じられるより も,まずは自然の側にそのような関係が存在するのかというレベルで論じられるべきこと である.認識可能な違いが存在しないということと,因果関係がないということとの間に は少々距離がある.もちろん,「認識可能な違いがないときに因果関係の有無を論じる意 味はない」と考え,「信号伝達が可能であるか否かを因果関係の有無の基準として採用せ よ」と主張することはできる.だが,それとは異なる,因果関係の有無を判別するいくつ かの基準が存在する.信号伝達可能性を因果関係の有無の基準として考えるのは,それと は異なる別の基準について考えてからでも遅くないであろう.以下で,著者にとって最も 自然と思われる判別基準を定式化し,その基準について議論する*24.また,これから述 べる定式化は,量子力学に少々違和感をもつ人たちがなんとなく感じていることの厳密な 定式化になっていると思う.仮に因果の有無の判別基準として間違っていたとしても,そ の定式化自体には意味があるだろう.
R1 R2
Γ t
R12
図6
これから問題にするのは,上の図6にあるように,空間的に分離している二つの時空領 域(R1とR2)で生じる事象間に因果関係が存在するのか否かである.いかなる物理的影 響も光速を超える速さでは伝わらないと考えると,R1 の過去光円錐内で生じた出来事だ
*24以下の議論はベルの論文[7]に考え方の枠組みにおいて強い影響を受けている.
けがR1 で生じる事象に因果的影響をおよぼすと考えるのが自然である.R1 で生じる出 来事の原因はすべて,R1の過去光円錐のなかにあるということである.このことを「R1 で生じる事象について,因果的に閉じている」と呼ぼう.ただし,単に「原因は過去光円 錐内にある」といっても議論は進まない.因果的に閉じているのか否かを判別する条件が 必要である.そこで以下の議論に必要とされる限りで,「因果的に閉じているための必要 条件」,すなわち因果的に閉じているならば満たさねばならない条件を定式化しよう.
以下では,R1 の過去光円錐内において生じたすべての出来事をΓと略記する.R1 の 過去光円錐内において生じたすべての出来事の連言,すなわちそれらの出来事を「かつ
(and)」で結んだもののことである.例えば,R1 において「マッチが点火する」という事
象が生じたならば,通常の理解では,Γには,「マッチを擦る」や「マッチのそばに酸素が 存在する」ことなど,原因とされるすべてのことが(もちろんそれ以外のことも)含まれ るだろう.また,以下で任意の事象Eについて,E が生じなかったという「事象」をE⊥ と表記する.
R1 が因果的に閉じているための必要条件 次の二つの条件を満たす,R1 における事象 E1とR2 における事象E2は存在しない.
条件1 P(Γ & E2)6= 0,かつP(Γ & E2⊥)6= 0である.
条件2 P(E1|Γ & E2)6=P(E1|Γ & E2⊥)である.
それぞれの条件を設定する動機は次の通りである.条件1は条件2を有意味とするため の「ただし書き」のようなものである.これにより条件2の条件付確率は有意味となる.
いうまでもなく,重要なのは条件2である.確率論で成立する等式
P(E1|Γ) =P(E1|Γ & E2)P(E2|Γ) +P(E1|Γ & E2⊥)P(E2⊥|Γ) から容易にわかるように,この条件は
条件20 P(E1|Γ & E2)6=P(E1|Γ)
と等価である.そこで,条件2を満たす事象E1 とE2 が存在するならば,その事象は条 件20も満たすこととなる.条件2を設定する動機は,もしR2におけるある事象E2を条 件付確率の条件Γに付け加えることでR1 における事象E1 の確率が変化するならば,Γ はE1 の原因としては不十分である,というものである.もちろん,確率の値が変化する といっても,その値が大きくなる場合と小さくなる場合がある.大きくなるならば,E2 はE1 の原因の有力な一候補であろう.一方,小さくなるならば,E2 でなくむしろ E2⊥ がE1 の原因の有力な一候補であると考えられる.
この基準を用いて量子力学自体がもつ非局所性についての概念的分析を進めていくわけ だが,その前にこの基準を用いた別の分析を一つみておこう.その分析は,量子力学その ものではなく,存在可能な隠れた変数理論についてのものであるが,その分析をみること によって上述の基準が因果関係の有無を判別するうえで自然なものであることが理解でき ると思う.
事例分析1:非局所的な隠れた変数 これまでと同じように「1重項状態」にある2粒 子を準備し,粒子1にたいしてはR1 上で,粒子2にたいしてはR2上で,スピン測定が 行われるとする.R1 の過去光円錐とR2の過去光円錐との共通部分上で,すなわち52頁 の図でいうとR12 上で値が指定される隠れた変数λによって,それぞれの粒子にたいす る測定結果が一意に定まるような局所的な隠れた変数理論は存在しない.一方,局所性を 満たさない隠れた変数理論なら存在しうる.例えばR12 上で値が指定される変数λ の値 とR2におけるスピン測定装置の設定(どのスピン成分を測定するか)とによってR1 に おける測定結果が一意に決まるような,非局所的な隠れた変数理論は存在する*25.この ようなタイプの隠れた変数理論において上述の二つの条件を満たすE1とE2が存在する.
このことを以下でみていく.
具体的にE1,Γ ,E2 をそれぞれ次のような事象とすれば上述の二つの条件を満たす.
順にみていこう.
E1 について: R1,R2 上の測定装置がスピンZ 成分を測定する設定になっていること を,それぞれZ1,Z2と表記し,それらの測定結果を+1,−1,+2,−2と表す.粒 子1にたいするスピンZ 成分の測定結果,すなわち+1(あるいは−1)をE1 と して考えよう.
Γについて: すでに述べたようにΓ はR1 の過去光円錐内において生じたすべての出来 事であった.いま考えている状況は,変数λ の値は過去光円錐の共通部分R12 に おいて指定されるというものだったので,変数λの値がしかじかであることは Γ に含まれる.また,Γには,粒子源において2粒子が「1重項状態」に準備された ことも含まれる.2粒子系を「一重項状態」に準備する一連の手続きを「事象」と 考えればよい.ほかにも,Γには,粒子1が測定装置に障害なく到達することに関 わるあらゆる出来事も含まれる.さらに粒子1の測定装置の設定がスピンZ 成分 を測定するようになっていること(すなわちZ1)も,Γに含まれているとする.
*25そのような非局所的な隠れた変数理論の具体例はボームの理論である.
E2 について: 「粒子2にたいするスピン測定装置の設定がZ 成分を測定するようになっ ていること」,すなわちZ2 をE2 としてとる.
最後に,R2 における粒子2の測定装置の設定は,粒子対が粒子源を離れる段階では決 まっていないことを仮定する.粒子2にたいしどのスピン成分を測定するかは粒子 2が 粒子源を離れた後でも(粒子2がR12の外にあるときでも)変更可能なので,このように 仮定することに問題はない.
以上で述べたようにE1 とE2 をとると上述の二つの条件は満たされる.まず,条件1 について考えよう.繰り返しになるが,粒子2にたいしどのスピン成分を測定するかは,
粒子2がR12 を離れた後でも変更可能である.したがって R12 上でなにごとが生じるか だけでは,さらにはR1の過去光円錐においてなにごとが生じるかを特定するだけでは,粒 子2にたいしどのスピン成分を測定するのかは決まらない.それゆえP(Γ & E2)6= 0, かつP(Γ & E2⊥)6= 0であり,条件1を満たす.
次に,条件2(条件20)について考えよう.考察している非局所的隠れた変数理論では,
R12 で指定される変数λの値とR2 におけるスピン測定装置の設定(どのスピン成分を 測定するか)とによって,R1 におけるスピン測定の結果が決まった.したがって,確率 P(+1|Γ & Z2)は1である.一方,P(+1|Γ)の値は1ではない(より正確には,つねに 1とは限らない).もし後者の確率もつねに1であるならば,R1 におけるスピン測定の結 果がR2 におけるスピン測定装置の設定には依存しないことになるが,いま考えている非 局所的隠れた変数理論はそのようなものではなかった(そのような隠れた変数理論は存在 しないというのが1.2節の結論であったことを思い出そう).したがって,上述のように E1 とE2をとるとそれらは条件2を満たすのである.
よって上述の判別基準にしたがうとここで議論した非局所的隠れた変数理論は因果的に 閉じておらず,過去光円錐のなかにすべての原因を含まない事象が存在することとなる.
もちろん,この結論が得られたこと自体は驚くべきことではない.ある粒子にたいする測 定結果が,当の粒子と相互作用しない遠く離れた測定装置の設定に依存するような理論が
「因果的に閉じている」とは考えられない.むしろここで大事なのは,そのような自然な 結論を上述の判別基準がもたらしたということである.この意味で,その判別基準は健全 なのである.
次に,「R1が因果的に閉じているための必要条件」を量子力学そのものに適用する.結 論を先にいうと,この判別基準にしたがうと量子力学は「因果的に閉じていない」という ことになる.再び,「1重項状態」にある2粒子系を具体例に考えよう.