用 (512)
じ 去るべきものではない︒こうした想定も参照 しっ つ ︑ 両 書の流伝を跡づけることも︑種々な間 題を解決していく 手 4
ぬ これを復活せしめ︑本来の機能を発揮し︑ こ の国にまのあたり仏国土を成就せしめるための 旗手を自任することとな 畦 ったであろうことは︑想像に難くない︒ こ︐ つ した最澄の前に︑この女装の上表文と︑﹁不空 表制集 L とが置かれたのの
である︒仁和気風等の推挙によって︑桓武天皇とのつ 数 ながりを っ かんだ最澄が︑しばしば以上にみて きたどとき使命感を担っ 6 いわぬる大乗経典中に列ねられる︑菩薩たちの 求 法 修行の姿からみれば︑最澄のこうした志向と 行動は︑至極当然
なことではあるけれども︑現実社会の︑しかも 厳然たる 僧 制の下にあって出家した一小僧が ︑経 典に 出る菩薩たちの
どとくにふるまうことは︑至難のことであった にちがいない︒しかし︑その最澄の烈々たる求道 の志 と使命感とは︑
︑あまりにかけななれた︑この時代の仏教教団 と 僧侶の現状をみたとき ︵ 4 4 ︶ 求めて︑ 天 ムロ法文を捗 脱 し︑さらに足を唐土に 延ばして︑万全たらしめよ う とこころみたのであ つ ‑@ ヰん ︒ 発願したことにはじまり︑やがて田仮して群生 を 済度しょうと志す︑理想的な第一歩を踏み出し たのであった︒そし
て ︑ 彪 大な一切経を ︑ 縁をたより︑知己をたずね て 合力を請い︑比叡山上に書写し完備し︑おも からにその読破をは
たして︑そのうちから︑一乗法華の法門に避 遁 して︑ここに仏意の極致を見出し︑ひたすら法華 一乗の教旨の深奥を 最澄はかつて︑これまでの令制にしたがって 得 度し︑受戒し︑仏道にその歩を踏み出したのであ るが︑比叡山入山
ということを行った真意は︑入山直後に書かれ たという﹁願文 ︵ 鵠 ヒ ︶によるかぎり︑いわゆる菩薩 と しての自覚に立って 澄の仏教の構想との深いつながりをみるのであ る ︒さきに︑最澄の一生における︑エポック メイ キングな事績を列ね
たところで︑その事績の展開の必然睦を生みだす 基盤として︑﹁機能する仏教﹂ということばを 置いてみた︒これを もっとも具体的にいうならば︑﹁不空 表制集ヒを 用いて 司 顕戒論 ヒ のなかにしばしば主張された ︑またい わ める山家 学生武二 式 において高く掲げられた︑鎮護国家 ということに帰するであろう︒
る ︒
︵ 00 4 ︶ そしてこの傾向は ︑ 前に徴した㍉顕戒論 L の第五 十二の明 拠 に主張する︑天台一宗は僧籍を立て ず ︑僧綱の統 摂に
あずからずとの︑新しい教団の体制確立にまで 進むべきものであろう︒この場合天台法華宗には ︑塞内より別当を選 ︵ 9‑ 4 び︑官 より俗別当を配置せしめて︑検校を完 ぅ しようというもので︑朝廷 と 一宗との間に ︑ 全く 僧綱のごとき介在者 体して︑最澄が天台法華宗を加えることとあわ せて︑諸宗間の均衡をはかったものであるとの︑ うがった解釈も行わ ︵ 抑 ︶ れるが︑それならば一層︑最澄は天皇との関係 を ︑非常に親近なものとしていっていたことがう かがわれるのであ て ︑自己の意見を上表することになったのは︑ か くして自然ななりゆきであったといえる︒そし てこのような最澄に
とって︑ 玄奨と 不空という二人の唐土の人 師が︑ いかに皇帝と親しい関係をたもち︑いかに自己 の 構想を具申し︑ そ
して彼の地の教界をリードしていく・たか︒ 玄芙 の上表文と﹁不空 表制集 L は︑それを語ってあま りある︑恰好な書物
であったことであろう︒
最澄が︑朝廷とのつががりかたについて︑この 一 一人の三蔵の姿勢をつねに念頭から離さなかった ことは︑ 上 未見 来
った玄 芙の上表文と﹁不空 表制集 しを用いての 最 澄の行業が︑よく物語っている︒ただひとり︑ おのれが求道と解脱
とを求めるのみならば︑天皇に近づき︑意見を 上申し︑僧綱に諮り︑さらには新帰朝の空海と 談 合するなどをして︑
事 に処していく必要はない︒最澄の引く 比 蒜山
利他主事︑恭謹大鵬﹂︶
と 称した空海のごとくに処していくことが︑ 最 澄の周囲には︑かくもさまざまな僧のありかたの 範 があったにちがい
ない︒しかし 鼓澄は︑唐 より帰ってただちに 諾 め ホに加えて 天 ムロ法華宗の年分度者を奏請し︑華厳 律 ・三論・法相等
の 諸宗の度者や学業にまで心をくばり︑親しくそ の 構想を天皇に上申するという︑天皇との直接 の 関係の設定に関心
をはらったごと︽である︒この 天 ムロ法華宗開創 ‑ 別後の事情については︑たとえば 教界 刷新を志し た 桓武天皇の内意を
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伝教大師最澄と「唐制」
渉を開く方式であり︑延暦二十五年一月二十六 日付の天台宗公認の官符にいう︑学業として認め られた︑止観・遮那 画業学生に︑﹁不空 表制集ヒ のいう︑大唐金閣 寺の護国の転経︑ 念諦に 準じ︑護国の使命を付与 するなど︑解釈の拡 大と ︑唯一の機能する完固としての存在意義を 確立しようとしていたのである︒
すなね ち︑こうした天皇・朝廷との関係に立っ て ののちのちまで﹁先帝御願人ムコ法華宗﹂を称し て ︑独自の運営を していこ う という発想は︑女装や不空の事績に 負うところとみることができる︒そして︑それが ︑天 ムロ法華宗を ︑ ね める国家仏教たらしめた要因であり︑中央集 権 ︑全体主義的な平安時代の政治体勢に具合した ︑最澄と天台法華宗
の ︑教義と機能上の立場を裏づけるところのもの となったのである︒
主 j ︵ 1 ︶口伝教大師研究 b 宗祖大師千百五十年遠忌事務 局利 一六一四頁︑昭和四十八年六月刊
︵ 2 ︶㍉顕戒論ヒ巻 中 開示 見 貫一隅 知 天下上座 明拠 十八伝教大師全集 一|一 0 六頁
︵ 3 ︶大正新脩大蔵経五二 | 八二六 C 以下
︵ 4 ︶ 伝 全一 |二 二頁
︵ 5 ︶塩入 良 道教授﹁伝教大師の内省と名聞利養﹂ 櫛 田 博士 頚寿 記念日高僧伝の研究 目 所収 注 ︵ 皿 ︶参照
︵ 6 ︶末永三郎博士﹁末法灯明記を中心とする諸問題 ﹂コ上代仏教思想史研究 L 所収︑新版 二 0 六頁︒竹田 暢 共助教授﹁初期日 本天台宗の国家仏教的性格﹂天台学報第八号昭和四 十二年一月︒ 同 ﹁平安仏教と不空 表制集 ﹂大正大学研 究 紀要第五十 セ 揖 昭和四十 セ 年三月︑ 等 参照 ︵ 7 ︶拙稿﹁伝教大師と不空 表 前集﹂印度 学 仏教学研 究 一五 | 一昭和四十一年十一月︒ 同 ﹁伝教大師の密 教栢承 と不空三蔵﹂⑤
印仏研一七 | 一昭和四十三年十二月 ︵ 8 ︶ 伝 全一 |一 0 二 ! 一 0 六頁 ︵ ハ 5 v ︶ た ︒いわぬる山家学生式温式 も ︑それに付帯 す る詣 菩薩出家表も︑ 諦 五大乗戒 表も ︑僧綱を飛び こして朝廷と直接交 を 排して︒ 玄 芙や不空の場合のように︑朝廷 と の 親密な関係のもとに︑教団の運営をはかろうと する計画なのであっ
︵ 9 ︶ 伝 全一 | 一六頁以下 ︵ 印 ︶大正五二 | 八三七 a ︵ n ︶ 伝 全一 | 一嵩 0 頁 う ︶大正五二 | 八三五 b ︑八四五 b ︵ 穏 ︶ 伝 全一 | 一五一頁
︵Ⅱ︶ 伝 全一 |一セ 三頁
ハ的︶大正五二 i 八三五 b
︵㎎︶大正五二 | 八三一 a ︑八三五 c ︑八三六 a ︑ 八 ︵ け ︶ 伝 全一 | 一七九頁 ︵ 毬 ︶ 伝 全一 | 二三七 | 二四四頁 ︵ 穏 ︶大正五二 | 八 @Oa
︵㈲︶拙稿﹁伝教大師の胎金両部相承 は ついて﹂印仏
︵答︶伝令正1府三八頁
︵㏄︶ 注 ︵ 2 ︶参照 ︵ 為 ︶大正五五 |一 0 五九 b 宛 ︶大正五二 | 八五六 c ︵ 篆 ︶大正正 0 | 八一 ‑ ハ c ︵ 然 ︶長部和雄教授一︐ 代 来朝 贈 司空大弁正応答三蔵相
︵四︶ 伝 全一 | 五頁天台法華宗年分縁起所収
︵答︶伝令 五| 四五三頁 ︵ 杓 ︶ 注 ︵ 4 ︶参照
︵㏄︶大正正 0 | 三三 Oc 以下コ上表記 L ㍉ 表啓 L 等
刃文化学院 刊 昭和七年がある︒ ︵ 甜 ︶刊本に 卍 大日本統蔵経 二篇乙| 二三 倉 ︑ 玄 英二 一 上表制集解題﹂国訳一切経 和
・と対校した︑高麗版一切経木
蔵 輌資伝 叢書所収 木 があろ︒ 洩選 述部 護 教部五所収
を底本とする自大唐大慈恩寺三蔵法師
知恩院 蔵 写本は︑天平神護元年寄の 華 二一 ‑ ハ c
研一三 | 一昭和四十年一月
広口 東
族人 会
(5 Ⅰ 6 Ⅰ 68
剛 日章を紙背に存して︑ 所 写の年代を推定する手がか りとなる 色
︵㏄︶刊本に大正五二 | 八一八 a 以下がある︒
︵㏄︶コ上表記 目 大正五二 | 八二五 c
︵ 出 ︶石田茂 作 博士㍉写経より見たる奈良朝仏教の研 究 L 所収︑奈良朝現在一切経所目録参照
︵㏄︶大正五一一 | ‑ 八一八︒
︵㏄︶伝令正1階一一 ! 一二頁
︵ 甜 ︶大正五二 | 八一九 b
︵㏄︶伝令正 @ 約二 0 頁
︵㏄︶大正正 0 | 二五四 a!b 茄 ︶大正五二 | 八二 Oc
︵Ⅱ︶伝令正 |附 一四頁 あ ︶大正五二 | 八二 Ob
︵㎎︶ 伝 全一 | 一頁
︵ 材 ︶㍉叡山大師伝 L による っ 伝令正1冊一頁以下
︵ 蝸 ︶ コ 顕戒論 L 第十八明典︑注︵ 2 ︶参照
︵㏄︶﹁高野雑筆 集 L 下 弘法大師全集第三 宿|五 九二頁
︵ W ︶塩入京恵博士口伝教大師 L 二二 0 頁
| 一昭和四十三年参照 r と ︵㏄︶保全一 | 二四八頁
澄 最 師 大 教 伝
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一 ﹁グノーシスコ 一 ・グノーシス主義﹂の定義をめぐっ て
三密儀宗教とグノーシス主義との原理的関係
三 祭儀とグノーシス主義との歴史的関係
四祭儀とグノーシス主義キリスト論の成立
祭儀と認識︑とりわけ密儀宗教とグノーシス 主 義は ︑古代末期における代表的な宗教形態ないし は 宗教運動とみな
されている︒しかし︑両者の関係は︑これらが 従 来しばしば同一視されているだけに︑今日に至 るまで十分に解明さ
れていない︒このことは︑一方において一般的 に 承認されたグノーシス像が存在してなかったこ と ︑他方において 密
儀の本質にも定説がなかったことと関連してい るものと思われる︒私は以下において︑この問題 をめぐる学説 史 を批
判 的に要約しながら︑まず密儀宗教とグノーシ ス 主義との関係を確定する︒次に私は ︑ 未だ 未解 決 のままに残されて いる部分の多いグノーシス主義とキリスト教との 関連に祭儀の局面から光を当ててみたい︒その 際に私は︑洗礼や塗
油などの入信儀礼がグノーシス主義における キ リスト論の成立に一つの動機を与えたという テ| ゼを 提出する︒これ
禰 によって私は︑一九六六年メッシーナにおい て 開かれたグノーシス主義をめぐる国際会議で 採択された﹁諸提案﹂の
鮭毛に︑
私なりの応答を試みることにする︒の ︶研究はグノーシス 主
窪不 義の祭儀的局面と社会的局面に関する認識を深 化すべきこと 六 傍点筆者︶︒
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