皇から寺号を﹁延暦寺﹂とする太政官牒が発せ
︐ られ︑長年にわたって用いられてきた地名寺号で
ある﹁比叡 寺 ﹂ ま ︵領り︶ は ﹁比叡山寺﹂の称号は︑ここから新しい法名 寺号である﹁延暦寺﹂に改まることとなった︒﹂と 記してあり︑初め 比叡山延暦寺も比叡 寺 または比叡山寺と称した もののようで︑総名にも変遷のあったことが知ら れる︒
東北の一山寺院においても︑一山の総名として 楽峯山 菩提院 勝 大寺︑関山中尊寺 弘 ムロ 寿院 ︑医 玉山毛越寺金剛
院 ︑奥州宮城郡 仙 ムロ金光明四天王護国 山 医王院 木ノ 下国分寺︑無実山鹿 峯寺 常住専 院 ︑輪宝山並 じ恩 寺などのように
王 は た
堂を建立して︑これを比叡山寺と名づけた︒︵後 二十六日︑﹁嵯峨 天 六 ︑一山寺院の構成
一山寺院の構成を︑総名︑社堂伽藍および寺院 坊 などに分けて考察して見たい︒
㈱総名
高野山の金剛峯寺の項に ︑ ﹁この 手 名は伽藍を 中心とした高野全体を総称した手者であ ているこの寺は︑明治初年までは 青 蕨手という 手 で︑豊臣秀吉が建立したものである︒ こ の中心寺院となっていた︒そのために明治初年に この寺に一山を総称する音名がつけられ 峯手 という呼称は一山の総名であったことがわ かる︒
また比叡山寺の項に︑﹁後世の叡山開創に関す る 文献をみると︑最澄は登山ののちまも
一 倒木を切って︑みずから薬師如来像一体をき ざ み︑胎内にはかねて念持の仏舎利をおさ った ︒いま金剛峯寺といっ
の寺は創立以来︑高野一山 ︵ 3 ︶ 憶 ︒﹂とあり︑高野山金剛
ないころ︑山上虚空 蔵尾の
め ︑この仏像を安置する 小
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一山寺院の総名には︑寺号︐院号などの上に山号 が 付されているが︑奈良時代以前に建立された 寺号には︑山号が見
られない︒
㈲社堂伽藍
仏教辞典のセ室伽藍の項に︑﹁七堂を具備する 伽藍の意︒即ち 一 僧伽藍として具備すべき セ 種の 堂宇を云 ふ ︒蓋し ‑ く れ U 3 ︶ 七堂の名称及び配置等は︑時代に依り︑又は宗 派 によりて異同あり︒︵後略︶﹂とあるように︑ 一 山寺院にも山内に多 くの 堂社 仏閣が建ちならび︑ セ堂 伽藍を兼ね備 ‑ え た所も多いが︑ セ 堂の名称および配置などは︑ 時代︑地域︑宗派︑
その他の事情などにより相違が見られる︒しか し ︑密教寺院とくに一山寺院の場合は︑本地 車述 | 神仏留人ローの思想 に 基づき︑山内に一山鎮守をはじめとする多くの 堂社 仏閣が建立され︑十八伽藍とか 摂 末社とし て合 祖 されている が ︑一山が仏堂を中心とするか︑あるいは神社 を中心とするかによって二つに分けられる︒すな ね ち︑前者の場合は 仏閣が中心となり護法神を一山鎮守として勧請 したもので︑延暦寺・金剛峯寺・中尊寺︐毛越寺 ︑慈恩寺などがその 側 であり︑これに対して後考は ︑ 神を権現とか 大菩薩として勧請したもので︑社殿が一山の中心 となっていて︑山内 に 特に一山鎮守という社がなく︑熊野︑白山︑八 幡などの官社がこれに相当し︑社僧が奉仕する のもこの場合である
と 考えられる︒
そしてこれらの セ堂 伽藍・ 堂社 仏閣には︑諸神 諸仏が 祖 られ︑礼拝の対象として崇拝されてきた もので︑佐和睦 研
究氏も
︑密教美術の特徴の 一 っとして︑多数の ほとけ 力 ︒ 卜 出現したことを指摘してしる Ⅱ︒︵ 3 7 ︶ 研た 建造物が見られ︑それらが一山 惣 衆の住居に
倦 7)
一 れるので︑それらについて述べて見よう︒
この 坊号 についても︑それぞれの一山によって 相 違 があり︑規定をすることが困難となるが︑ 毛 越 幸一山において は ︑得度後安 衆セケ 年にて入講︑ 公 名を改め 房 号を称すとあることによ︵ 1 4 ︶ って︑扇骨とは本来入講 の 儀式を終了した 衆 徒に付けられたものであったようで︑この 房号 を 有する衆徒の住む居所が 坊 だったのではないか と 推察される︒近世 になって︑衆徒や社僧が山内に定住するようにな ると︑扇骨 と坊号 が一致するようになったので はなかろうか︒ ュ
・寺号
すでに述べたように︑一山寺院の総名に寺号が ついているが︑山内にさらに寺号のついた建物が 見られる︒毛越寺 一山の円 隆寺 ・嘉祥 寺 ・経蔵寺などがその 例 とし てあげられるが︑円陣寺は金堂につけられた 名 称 であって︑毛越寺 とともに一山の総名にも使用されていたことが 記されているし︑また嘉祥寺は山内に建立された
さらに経蔵 手 は︑近世の間︑一山の支配 職 を勤
つく名の建物も ︑そ れぞれに 異 っていることが知られる︒
2.
院号
院号も時代により変遷が見られるが︑大別する と 二種に分類される︒一つは切言より上位のもの で︑他は坊 号 より 下位のものである︒前者は中尊寺の落慶供養法 会 の 行 なわれた天治三年に建立されていた十三 ケ 院 をはじめとして︑ 一山寺院の山内に建立され︑支配職や清僧衆徒 ま たは社僧などの住居でもあり︑院主が院の主 た る 僧であったと思わ れるが︑院主という支配職の存在した一山寺院
を 終えて 潅 頂の際︑ 授与されるもので︑これは近世以降のことであ ると考えられる︒
3.
坊号
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比叡山や高野山などは︑学生や学侶を育成する ことが主要な目的でもあったので︑ 法儀 が主とな︵ 2 4 ︶ っていたが︑東北 % 方の一山寺では︑加持祈祷などの行事 | 祭儀 |が 中心となっていたもののようである︒従って ︑東北における一山
前述の例大祭と異なり︑通常正月元日より八日 までの八日間となっており︑山内主要望社の修正 ︑すなわち正月の 修法であって︑多少の相違はあるにしても︑
3. その他 各 山 ほぼ同じような規式で執行されたもののように 思われる︒
なわれていた仏名会のように︑︵ 3 4 ︶ 特にとり上げら れる場合もあるが︑小規 な一山寺院の場合には︑とりあげる祭祀の寺 臣模 ない場合もある︒ 何 9) ( 山
七 ︑主要年中行事影響を与えるとともに︑民間の人々からの支持 を 得て存続発展してきたもので︑両者の間には 次 に 述べる点で︑相互 ‑4 4 ︶ は 早くから密接に関係してきた︒しと述べている とうに︑一山寺院は常に地域住民と密接な関係に あり︑地域の人々に
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