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考  ‑

ドキュメント内 『宗教研究』219号(47巻4輯) (ページ 39-43)

皇から寺号を﹁延暦寺﹂とする太政官牒が発せ 

︐ られ︑長年にわたって用いられてきた地名寺号で 

ある﹁比叡 寺 ﹂ ま ︵領り︶ は ﹁比叡山寺﹂の称号は︑ここから新しい法名 寺号である﹁延暦寺﹂に改まることとなった︒﹂と 記してあり︑初め  比叡山延暦寺も比叡 寺 または比叡山寺と称した もののようで︑総名にも変遷のあったことが知ら れる︒ 

東北の一山寺院においても︑一山の総名として 楽峯山 菩提院 勝 大寺︑関山中尊寺 弘 ムロ 寿院 ︑医 玉山毛越寺金剛 

院 ︑奥州宮城郡 仙 ムロ金光明四天王護国 山 医王院 木ノ 下国分寺︑無実山鹿 峯寺 常住専 院 ︑輪宝山並 じ恩 寺などのように 

   王  は  た 

堂を建立して︑これを比叡山寺と名づけた︒︵後   二十六日︑﹁嵯峨 天  六 ︑一山寺院の構成 

一山寺院の構成を︑総名︑社堂伽藍および寺院 坊 などに分けて考察して見たい︒ 

㈱総名 

高野山の金剛峯寺の項に ︑ ﹁この 手 名は伽藍を 中心とした高野全体を総称した手者であ  ているこの寺は︑明治初年までは 青 蕨手という 手 で︑豊臣秀吉が建立したものである︒ こ  の中心寺院となっていた︒そのために明治初年に この寺に一山を総称する音名がつけられ  峯手 という呼称は一山の総名であったことがわ かる︒ 

また比叡山寺の項に︑﹁後世の叡山開創に関す る 文献をみると︑最澄は登山ののちまも 

一 倒木を切って︑みずから薬師如来像一体をき ざ み︑胎内にはかねて念持の仏舎利をおさ  った ︒いま金剛峯寺といっ 

の寺は創立以来︑高野一山 ︵ ︶ 憶 ︒﹂とあり︑高野山金剛 

ないころ︑山上虚空 蔵尾の 

め ︑この仏像を安置する 小 

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と  で  あ  る  と 

  

一山寺院の総名には︑寺号︐院号などの上に山号 が 付されているが︑奈良時代以前に建立された 寺号には︑山号が見 

られない︒ 

㈲社堂伽藍 

仏教辞典のセ室伽藍の項に︑﹁七堂を具備する 伽藍の意︒即ち 一 僧伽藍として具備すべき セ 種の 堂宇を云 ふ ︒蓋し ‑ く れ U 3 ︶ 七堂の名称及び配置等は︑時代に依り︑又は宗 派 によりて異同あり︒︵後略︶﹂とあるように︑ 一 山寺院にも山内に多  くの 堂社 仏閣が建ちならび︑ セ堂 伽藍を兼ね備 ‑ え た所も多いが︑ セ 堂の名称および配置などは︑ 時代︑地域︑宗派︑ 

その他の事情などにより相違が見られる︒しか し ︑密教寺院とくに一山寺院の場合は︑本地 車述 | 神仏留人ローの思想  に 基づき︑山内に一山鎮守をはじめとする多くの 堂社 仏閣が建立され︑十八伽藍とか 摂 末社とし て合 祖 されている  が ︑一山が仏堂を中心とするか︑あるいは神社 を中心とするかによって二つに分けられる︒すな ね ち︑前者の場合は  仏閣が中心となり護法神を一山鎮守として勧請 したもので︑延暦寺・金剛峯寺・中尊寺︐毛越寺 ︑慈恩寺などがその  側 であり︑これに対して後考は ︑ 神を権現とか 大菩薩として勧請したもので︑社殿が一山の中心 となっていて︑山内  に 特に一山鎮守という社がなく︑熊野︑白山︑八 幡などの官社がこれに相当し︑社僧が奉仕する のもこの場合である 

と 考えられる︒ 

そしてこれらの セ堂 伽藍・ 堂社 仏閣には︑諸神 諸仏が 祖 られ︑礼拝の対象として崇拝されてきた もので︑佐和睦 研 

究氏も 

︑密教美術の特徴の 一 っとして︑多数の  ほとけ 力 ︒ 卜 出現したことを指摘してしる Ⅱ︒︵ 3 7 ︶ 研 

  

た 建造物が見られ︑それらが一山 惣 衆の住居に 

   倦 7) 

一 れるので︑それらについて述べて見よう︒ 

この 坊号 についても︑それぞれの一山によって 相 違 があり︑規定をすることが困難となるが︑ 毛 越 幸一山において は ︑得度後安 衆セケ 年にて入講︑ 公 名を改め 房 号を称すとあることによ︵ 1 4  ︶ って︑扇骨とは本来入講 の 儀式を終了した 衆 徒に付けられたものであったようで︑この 房号 を 有する衆徒の住む居所が 坊 だったのではないか と 推察される︒近世 になって︑衆徒や社僧が山内に定住するようにな ると︑扇骨 と坊号 が一致するようになったので はなかろうか︒  ュ 

・寺号 

すでに述べたように︑一山寺院の総名に寺号が ついているが︑山内にさらに寺号のついた建物が 見られる︒毛越寺 一山の円 隆寺 ・嘉祥 寺 ・経蔵寺などがその 例 とし てあげられるが︑円陣寺は金堂につけられた 名 称 であって︑毛越寺 とともに一山の総名にも使用されていたことが 記されているし︑また嘉祥寺は山内に建立された 

  さらに経蔵 手 は︑近世の間︑一山の支配 職 を勤 

  

つく名の建物も ︑そ れぞれに 異 っていることが知られる︒ 

2. 

院号 

院号も時代により変遷が見られるが︑大別する と 二種に分類される︒一つは切言より上位のもの で︑他は坊 号 より 下位のものである︒前者は中尊寺の落慶供養法 会 の 行 なわれた天治三年に建立されていた十三 ケ 院 をはじめとして︑ 一山寺院の山内に建立され︑支配職や清僧衆徒 ま たは社僧などの住居でもあり︑院主が院の主 た る 僧であったと思わ れるが︑院主という支配職の存在した一山寺院 

  

を 終えて 潅 頂の際︑ 授与されるもので︑これは近世以降のことであ ると考えられる︒ 

3. 

坊号 

(4 ㏄・ )  40 

  

比叡山や高野山などは︑学生や学侶を育成する  ことが主要な目的でもあったので︑  法儀  が主とな︵ 2  4  ︶  っていたが︑東北  %  方の一山寺では︑加持祈祷などの行事  | 祭儀  |が  中心となっていたもののようである︒従って  ︑東北における一山 

    

  

前述の例大祭と異なり︑通常正月元日より八日  までの八日間となっており︑山内主要望社の修正  ︑すなわち正月の  修法であって︑多少の相違はあるにしても︑ 

3.  その他  各 山  ほぼ同じような規式で執行されたもののように  思われる︒ 

  

なわれていた仏名会のように︑︵  3 4  ︶  特にとり上げら  れる場合もあるが︑小規  な一山寺院の場合には︑とりあげる祭祀の寺 臣模  ない場合もある︒  何  9)  (  山         

七 ︑主要年中行事 

影響を与えるとともに︑民間の人々からの支持 を 得て存続発展してきたもので︑両者の間には 次 に 述べる点で︑相互  ‑4 4 ︶ は 早くから密接に関係してきた︒しと述べている とうに︑一山寺院は常に地域住民と密接な関係に あり︑地域の人々に 

(490)   42 

景山 

春  九 

樹 

博士 が  一 

、 

山 

寺院 

「(一別 

  

こ 

間 

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