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能  き

ドキュメント内 『宗教研究』219号(47巻4輯) (ページ 45-52)

ヒ  ナ こ Ⅰ 

の 

古  中  太 

で  豊 

  ヌ 5% 

毛  な 

  

院の間には関連性が見られるが︑それぞれ独立 の別上 にして殺生禁断の 

捷地 

とされ︑一山本 倶 ということが原則となっ ていた︒従って変遷にもかなりの相違があるが 

    崎 寺院の共通の変遷としては︑外的には︑室町 末期より近世初頭にかけての山内統合と︑明治 維新の神仏分離・寺領有       し 上げによる一山寺院の崩壊があげられ︑内的 には︑近世以降における山内の天台・真言南宗 を めぐっての宗派争い  わが国におけ 寺 と高野山金剛 たちが︑密教 弘  る 密教寺院の典型としての一山寺院は︑平安 初 期 に伝教︐弘法両大師によって形成された比叡山 延暦 

峯 寺とが代表的なものであり︑ともに密教修学 の中心道場にして︑これらの地で修業を積んだ 聖 職者 

通 のため各地に進出し︑東北地方においても 平 安中期頃から一山寺院が建立される︒  越 与一山において行なわれる延年について述べ ているが︑この吉美祭式の延年は︑一山総鎮守 摩 多羅神の祭礼である 

﹁常行三昧 供 秘法 御 祈祷大法ムヰ七︶の一貫として︑ 常行三昧 供 秘法︵別火精進行︶と修法の終了後 一山の衆徒が主体 

となり︑夜を徹して舞われるものである︒ 

そのほか 箆峰 幸一山鎮守白山権現の神事として 行 なわれる正月 廿 五日の御弓始の神事︑中尊寺 一 山 鎮守白山 宮 およ 

び勝 大寺の延年︑寒河江市 平 塩の熊野神社の舞 楽 ︑ 瑞 宝山慈恩寺の舞楽︑陸奥国分寺一山で行な われた舞楽︑神楽︑ 

巫女舞︑流鏑馬や南陽市宮内の﹁熊野大社の舞 楽や師子 ︐ Z  舞 ﹂など︑ ︵ 3‑5  づれもその好例であり︑ 周 辺地域の老若男女 か 

ら平塩の ﹁ドンドカッカ﹂とか慈恩寺の﹁ オヒ ヤ ラドンガ﹂などと呼ばれて親しまれてきたので あって ︑りクりヱ| 

シ︐ン 施設の少なかった地方の人々に︑慰安を与 えるとともに芸能への関心を育成してきた点で は︑ 大きな影響があ 

っ たものと言えよう︒ 

一 

Ⅰむすび 

これらの一山寺院を概観すると︑そこには共通の 特色が考えられるので︑一応の規定 | 作業仮設 的 規定1も可能と 

なる︒従って︑この規定に該当する一山寺院を ︑ 組織・構成・主要年中行事︐保護者と信者・ 民 間 信仰との関係およ 

び 民俗芸能の伝承などの観点に立って︑考察し た 結果をまとめて見たのである︒試論とも三口うべ きものであるが︑ こ 

れを基盤として︑さらに筋の通ったものに仕上 げて見たいと念願している︒ 

註 ︵ ︶校長 石慶著コ 密教の相承者 | その行動と思想 ヒ 一六頁参照 

︵ ︶ 松 最有 慶著 ㍉密教の歴史﹂一八一頁 ︵ 3 ︶豊田武 稿 ﹁東北中世の修験道とその史料﹂弓束 上文化研究室紀要 第四集所収︶八頁 

︵ ︶月光善弘 稿 ﹁中尊寺一山の組織と変遷﹁谷山形 女子短期大学紀要 第三集所収︶三七頁 

︵ ︶ ‑. 栗原郡三道小過 村楽峯山 菩提院 勝 大寺喜田﹂︵ コ 宮城県吏 お Ⅰ資料篇 3U 五九一1人 二頁参照︶ 

︵ ︶岩手県教育委員会編集﹁奥州平泉文書 五頁 

︵ ︶月光善弘 稿 ﹁毛越寺一山の組織・変遷およ ぴ平 泉地域と修験 | 密教 | との関係﹂谷山形女子短期大学 紀要 第四集所収︶ 

セ 二頁 

︵ ︶月光善弘 稿 ﹁慈恩寺開創と葉山信仰﹂ 台 東北大 学 東北文化研究室紀要 第三集所収︶ 一 四・一 五 頁 参照 

︵ ︶月光善弘 稿 ﹁密教系寺院と村落生活﹂︵和歌森 大 郎 編コ陸前北部の民俗 し 所収︶三七五頁 

︵ 騰 ︶佐藤宏一橋﹁名取市新宮寺 文珠堂 所蔵一切経に ついて﹂ 宍 歴史 口 第二十五 四一 | 四九頁︶ 

︵Ⅱ︶月光善弘積一 東北における一山寺院と高野山 組 織 との関連性﹂ 宍 宗教研究 一九 与一九二・一九三 貝 ︶・参照 

︵ は ︶﹁建武元年八月日大衆訴状﹂ 閂 奥州平泉 文 ま目﹂ 二 一八 | 四三頁︶参照 

︵は︶㍉奥州平泉文書ヒ大セ ー 六九頁 

︵Ⅱ︶月光善弘 稿 ﹁出羽三山をめぐる真言・天台南宗 の 争い﹂ 宍 宗教研究 一六六号二九・三 頁 ︶参照 

︵ 巧 ︶ 松 長石優者﹁密教の歴史 ヒ 一八九頁 

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が 指摘される︒ 46 

︵㎎︶戸川女童 稿一 ︒羽黒山の峰中における死と再生の 儀礼﹂台東北民俗 第一揖所収︶四九頁 ︵ け ︶佐和陵所 著 コ密教の美術ヒ一二三頁参照 ︵ 毬 ︶ 松 長石 慶著 コ密教の歴史 ヒ 一八三頁参照 

右 一五七頁 右刊同 ︵㎎︶ 同 ︵ 初 ︶本田安次善ロ図録日本の民俗芸能 二九頁 ︵ れ ︶岸本 英 大著㍉宗教学 一セ 頁 ︵ 羽 ︶同望月仏教大辞典 L3 二四九九頁 

︵㌍︶景山春樹 著 Ⅰ比叡山口一 三頁 

右コ 同 右し 一 五頁 ︵ 拐 ︶ 同 右ロ岡君 ロ一 四・一 五頁 参昭 ︵ 乃 ︶ 同 ︵︒ 0 ︶宮内文化研究会編 コ 宮内の文化財 し 六頁 

︵㌘︶ 司 望月仏教大辞典 ヒ 戒腹 の 項 ︵ 四 一・四 

一  一頁︶に︑﹁ 

又戒鱒に 作り︑或は腹︑法 萌 ︑真薦︑生頭 とも 称す ︒即ち具足  戒を受けたる以後の法 蔵を云ふ ︒︵後略︶︒﹂と記されて   ︵ 然 ︶和田昭夫 稿 ﹁中世高野山教団の組織と伝道﹂︵ 日 本 宗教史研究会編﹁日本宗教史研究 ヒ 組織と伝道︶ ‑ 八七頁 ︵ 四 ︶和田昭夫 稿 ﹁中世高野山の僧侶集会制度﹂台密 散文化し第四十五・四十六合併 号 所収︶四一頁参照 ︵ 総 ︶景山春樹 著 日比叡山口一六七 |一セ 二頁参照 ︵ 紬 ︶大山金 淳著 ﹁ 一 @ ロ 野山口 一 頁 参照 

︵㏄︶五来車 著 ﹁高野聖ヒ二九頁 

  

  有コ国吉 ロ 六一頁 の ︵㏄︶ 同 

  

一頁 

  

術口 第八巻︶一九・二 頁 参照 

︵㏄︶月光善弘 稿 ﹁毛越寺一山の組織・変遷 おょぴ平 泉地域と修験 | 密教との関係﹂七六 |セ 九頁参照 

47   (495) 

︵㏄︶ 同 右 ㍉国吉ヒ五六︐ 六 頁 参照     ︵ 弗 ︶月光善弘 稿 ﹁ 陸 夷国分寺一山の組織・変遷 と民 間 信仰および芸能との関係﹂谷山形女子短期大学紀要 第五集所収︶六七 

  ・六八頁参照       ︵ 何 ︶月光善弘 稿 ﹁毛越寺一山の組織・変遷および 平 泉地域と修験 | 密教 | との関係﹂︵前掲︶六三頁参照 

︵ 乾 ︶景山春樹 著 コ比叡山 八八頁に ︑ ﹁︵前略︶ 法儀 は 論議という形でおこたわれ︑それをおこな う 学生を   

  判定する学僧を探題とよぶ︒論議にすぐれた学説を出 した学生には︑将来の出世が予約され︑ ぶ じに探題の 大任をはたした 

長老には︑将来の天ムコ座主への資格が認められるので 一山一宗をあげての重要な法 儀 となっている︒﹂と 記 ‑ されている︒ 

︵ 趙 ︶月光善弘 稿 ﹁陸奥国分寺一山の組織・変遷 と民 間 信仰および芸能との関係﹂︵前掲︶一一・四・一一五頁 参照︒ 

︵ 典 ︶景山羊 樹 善司比叡山ヒ三六頁 

︵ 蝸 ︶月光善弘 稿 ﹁密教と念仏 行 ﹂ 閂 宗教研究 一九 四号一四四 | 一四六頁︶参照 

︵ ぬ ︶月光善弘 稿 ﹁東北における白山信仰について﹂ ︵﹁宗教研究 一七七号 九セ ・九八頁︶参照 

︵が︶月光善弘 稿 ﹁東北における オ シラ信仰と歓喜天 との類似性﹂ 宍 日本民俗学会報 ヒ舘 一 二| 一七頁︶ 参 照 

︵ 邱 ︶月光善弘 稿 ﹁福田について | 東北地方を中心と して | ﹂ 貧 日本民俗学会報 ㏄ 四 | 四四頁︶ 参昭 

︵㎎︶月光善弘 稿 ﹁密教系寺院と村落生活﹂︵前掲︶ 二 一セ 九頁参照 

︵㏄︶月光善弘 稿 ﹁陸奥国分寺一山の組織・変遷 と民 間 信仰および芸能との関係﹂︵前掲︶一 二 セ ー 一四 頁 参照 

︵ コ ︶月光善弘 稿 ﹁ 河 江市手塩の熊野神社﹂谷山形 女 手短期大学紀要 ヒ 第一集所収︶一五一頁参照 

︵ 駝 ︶月光善弘 稿 ﹁毛越寺一山の組織・変遷および 平 泉地域と修験 | 密教 | との関係﹂九三 |一 00 頁 参照 

︵㏄︶宮内文化史研究会編 コ 宮内町の文化財 一一 | 一七頁参照 

伝教大師最澄は ︑ 人も知る日本における天台 法 華 宗の祖である︒あたかも平安時代初期にあって ︑伝来以来︑僧尼  を 度し︑寺塔を慶し︑宗をわかち︑戒行を調え つ っも︑なお機能面において精彩を欠く傾向にあ った 仏教の︑その 存  在 意義を︑真言宗祖弘法大師空海ともども︑ 改 草 していったところに︑最澄の行業の讃えられる ところがある︒ 

最澄に関する研究は︑第一に︑最澄が以後の日 本仏教の特色となる︑大乗︑一乗の本旨を︑はじ めて宣揚したこと 

第二に︑具体的に鎌倉時代新仏教各宗祖の多く が ︑比叡山人ムロ宗教団を足がかりとして︑それぞ れ新 宗を提唱したと  いう因縁によって ︑ 広い範囲︑多彩な角度から︑ 進められてきている︒近時︑天台宗が︑宗祖 大 師 千百五十年遠忌に   離 際して編んだ論文集︑﹁伝教大師研究﹂一巻 に ︑仏教学︑東洋学︑日本史学︑国文学等の学 人 による︑ セ 十二篇にお r 

   最澄研究の水準を示すとともに︑研究者の幅の 広さをも示すものとする 

      

最澄の業績は︑機能する仏教の確立に中心伝からする最澄の仏教の基盤が︑解明されつく 麸     

  

木内 

央 

伝教大師最澄と﹁唐制﹂ 

が ︑あきらかである︒ 

さ ちに︑弘仁九年︵八一八︶五月二十一日付の ︑ 請 先帝御願人ムロ年分度者陣法華経石菩薩出家表   ︵ 5 ︶ に ﹁暦表﹂と出るが︑これはまた︑唐の玄英三 蔵の上表に対する所制にみえるところなのである    ︵つ 3 ︶ が ﹁ 代 京胡 贈 司空大弁正応答三蔵和上表制 集 ︵不空 表制集 ︶に載せる︑不空三蔵の上表にもと づく 所 制であること  一向大乗を標 傍 した最澄が ︑ 唐の新制によって 立 てるところは︑文殊上座︑止観・遮那商業設置 であり︑僧籍を立 

て ずして出家せしめる等の︑一向大乗教団の木 質 にかかわる問題であり︑ここに引くところの 唐 制を検すると︑それ 

と反論している︒︵  2 ︶ 

研究も︑なお法制史的研究もかなり詳細に進め ︐ られてきているが︑そうした各部面を綜合した︑ 最澄の構想全体を傭 

撤する視座は︑いまだ 担 えられていない︒ 

最澄一代の構想を窺うことは︑大きな問題であ り ︑浅学のよくなしうるところではないが︑その ひとつの手がかり 

を 得ようとするのが︑本稿の目的である︒ 

最澄の一生においてのエポックを画するところ は ︑比叡山入山であり︑天台宗開創であり︑いわ ゆる山家学生式 三 

式の上表と大乗戒建立の発願であり︑大乗戒 建 立 をめぐる南都諸宗との抗争とである︒とくに 最 澄の業績を特色づけ 

る 点からいえば︑山家学生式以後の︑天台宗教 団の機能発揚への構想が注目される︒ 

大乗戒建立をめざして︑南都僧綱からの批判に 駁して 著 わされた﹁顕戒論 ヒ では︑山家学生式 所 制の条々の拠りど 

ころを︑多く唐制に求めていることが目につく︒ そして︑僧綱が︑最澄は唐の辺 州 のみをみて 還 り 来り︑ひろく唐の 

全域を知らないものであるから︑その 所 舌口は信 屈 しがたいと奏したことに対して︑ 

輪目︑最澄同店︒雛本 巡 天下諸手食堂︑ 已 見一隅 ︒ 亦得 新制︒ 

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ドキュメント内 『宗教研究』219号(47巻4輯) (ページ 45-52)

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