に ﹁仲間 衆 ﹂としての平等性を一面にもつてい たのである︒ 方円 '
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Ⅱ 一︐""" ‑
矢口丹波守殿
仲間衆の内容については矢口文書のうちに次のⅠ ﹂とく記されている︒これは天保二年四月のもの で︑﹁八幡宮村 姓
名案﹂といういわ ビ 下書で︑当時の社役一覧で ある︒
別当 同
須賀河内 神徳
寺社僧
三和尚
神人 冨加津右京
同 同
三和尚 加部左門
同 同 四
和尚 桜井但馬
同 山神子役
三和尚 春山五大夫
同 同
大和尚 矢口舎人
同 同
法在
院 冨加津能登
社家 頭 ・代々 一ノ
禰宜祠官矢口丹波
同新井平吉 巳ア
禰宜 冨加津土佐
冨 加津浅古エ門 御供所神人神子 頭 ・社家 同
金井大和 武井井兵衛
社家 同
高橋摂津 清水忠
吉ェ門同
矢口兵部
右之外 八幡宮仕従神着 無 御座候以上これに ょ れば前々から既に在った社家間の座 格 を 一層明示したもので︑新たに神主号を申請し ︑ それが下付される
年 でもあり︑内容を整備して新しい運営に当 る ための意気ごみとして︑この ょう な起案が残つ ているのであろう︒
﹁神人﹂を﹁千社人﹂または﹁千社家﹂としたも のもあり﹁神子役﹂を﹁巫子﹂とする別の反故 紙 ものこっている︒
しかし社役は世襲であったから︑この形は早く から存在したものと見ていいのである︒現にこ こに出ている﹁神子
頭 ﹂の﹁金井大和﹂は︑寛永十三年﹁八幡宮 領 之帳 ﹂に出ている﹁大面﹂であり︑﹁神子別当﹂ ﹁ 三ノ市 ﹂﹁ 四ノ市 ﹂
﹁ 五ノ市 ﹂もこの神子役のことであろう︒
(32) 32
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近世の祭礼仲間 衆 のそ。
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社家 頑 として同社の中心的存在たる矢口丹波と は 如何なる人物か︑今﹁矢口家々系﹂・︵矢口文章 らにより大要を跡
づ げて見よう︒
ている︒これは年頭の御弓の神事に よ り・一年 の 天候を占い︑照り年か降り年か 周 年かを農民に つ げていた神占の実 同家系に よ れば初代は松枝︵松井田︶の浪人三 浦 平八郎 茂 尊なる者︑下根 鼻 八幡宮︵ 碓氷 八幡の 旧名︶のこの神主
の 養子となり矢口氏と称し天正八年九月 疫 とあ り ︑二代数重は矢口伊勢 守を称す ︒社頭衰微 し︑ 無官にて神役し慶長 十一年展︒三代 猶政はニノ祢宜 となり︑矢口 主 殿 と称し︑正保元年 媛 ︒四代 為 隆も主殿を称 す ︒ 幕府天海に帰依 し︑
天 ムロ 宗 ︑東叡山勢威あり︑その末寺は﹁ 請 願 叶 い︑出入訴訟 天 ムロ宗に勝つて不成﹂という時勢と なり此の前後別当の 配下に入り︑慶安元年朱印西石を配分を受け︑ 寛文八年四月 残 ︒五代貴重は丹波守 を称す ︒ 切支 丹 制禁の為隣接の大 聖 青檀家の籍に入る︒且つ神徳寺と数度の出入 をするも﹁吉田許状 テ キ ュヘ 利運ナシ﹂と︒此の 代 に吉田許状を得た が ﹁仏法二カス ノ ラレ種々横難 アり ﹂ て 元文三 年 十二月 残 ︒六代五重また丹波守を称し︑宝暦 八 年 残した︒七代地 保 は下小島村より入り 智 となり︑丹波字を 称す ︒ 文 化 五年三月残した︒八代正喜は丹波正を称し︑ 文政二年六月︑六十 さん 佑一歳にて卒去まで︑医書神書︑算法︑白書︑ 軍談︑歌書︑俳書︑俳書︑心学等雑学に 亘 つて 蔵書多く︑一孝 と 号して
% 俳譜 にも 寿 いでしはしば 句 座を開くなど︑﹁ 諸 門の弟子五十余人﹂に及んだ︒また医書に親 しみ好んで諸病を助けた ので︑その死は﹁隣郷に惜しまれ﹂たという︒ 今日矢口家に 遣 る多量の和書漢書写本の類は彼 の 蒐集のものであろ う ︒﹁読書 向テ夜ノ明 ナントス ルヲ知う ︒ ス ﹂と い う もあながち誇張ではなかつたかも知れぬ︒ 尚 ﹁浮世 ノ人 ニコ ビ不 持て 仙如シ ﹂というのはその人物の一斑であろ ラ ︒彼自身の筆になる﹁天候日記﹂も長年月に 亘 って欠かさず遺され
証を見るためのものであったと思われ︑彼の神 社 経営への真摯な努力は人間的にも高く評価され てよいであろう︒
六 ︑矢口丹波
一 み : 睡 ︵ー︶矢口文書﹁議定一札 之事 ﹂ 度々の冥加金の献上や貸付金取立帳の存在は ︑彼 の 勢威の背景の 一 をなす財力の実質を如実に物 語るものであり︑ 神 ﹁久貴 申 慈悲証文 之事 ﹂ ︵ り乙 ︶ ク このことは別当の形式的権威に対する丹波の実 質的勢威の肉迫を物語るものにほかならない︒
現 存の矢口文書中に
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主殿時代︵ 猶政 ︐ 為 隆の二代︶ 別当へ隷属 期
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