し の
て
親
い 念
︐ヰ ぬ りする︒ 今 ここで問題となる彼岸の問題も ︑そ のような﹁表象の星 気摂 ﹂︵ロロの 日ぎ 曲も隼 e ︵ 0 ㌧Ⅱ か のの コ こリ ホ 0 臣 ︶の 一 : 丘 ︐ ︐ f つた とべ ルグソン は 云ヲ ︒魂の不死をプラトンに 倣ってその単一性と不可分性から 演絆 すること は ︑勝手な定義から
奪こ 。 下せ サ キ
玉ざ甘ぺぺ ウ%
㌔曲 F 甘去
我々は最早虚偽の経験ではなくて︑真実の経験 そのものの中に身を置いているのである 0 そして 又 ︒もしその真実の 経験そのものの中にも 尚 確実性に憾みのあるも のがあるとすれば︑この真実の経験の最先端に上 ェ つて︑少しでもその 拡張と深化に努めねばならない︒或は又︑虚偽 ということに関して云えば︑我々は仮構機能の作 り 出す偽りの経験に 逆戻りすることの出来ないのは云 う までもない が ︑だからと云って知性によるアプリオリな問題 の 定立とその解決に 身を移すことも 亦 大きな虚偽に陥るであろう︒ 哲 学者は屡々 ︑無 とか全体という概念に於て ︑︐ ﹂の種の虚偽の中を空
㍗㍗
""""来 ようが︑併しそれはどこまでも一面でのこと に 過ぎない︒そこで は その生存の持続の無限性︑ 有限性についての 知
識は 南極めて不完全なものに止まる︒即ち経験 の中に一つの手掛りが得られたということの積極 面と 消極面があるだ
げである︒そこには更に上へ 伺 っての経験の深 化が必要であろう︒併しその道は︑もし上からの 経験がなければ大層︑
或は恐らく絶望的に困難なものとなるであろう︒ このようにして︑下からの経験は︑知覚や知性 0 把 ︐ える外的経験の
底を貫くことによって内的経験に深まり | 即ち ム ﹁の場ムロ 一 @ 日 まりー ︑ 更にその尖端にあって深化を 求められている︒
さて︑では反対にこれに対応する上からの経験 とは何か︒ベルグ ソン はそれを神秘的直観︵︶・ ぎ ︵︵︶︶ 曲 0 コ コ Ⅰ せの曲由佳の︶
と 呼び︑ 又 その直観を説明して神の本質の分有︵ 由コのせ簿 Ⅱ 由 ni つ い文 0 下色 の 〜 げ 紹の口のの 宙 ︶ づ ︵ コ 0 ︶とも 語っているが︵目オ
口 ・ N の㊦ ︑ 要するにそれは先に屡々問題となった 神秘 家 の問題である︒神秘 家 とは︑高次に強化さ れた直観によって ︑
我々の存在の根元にまで到達し︑そのことによ つて生命一般の原理そのものにまで達したよ う な魂のことであり ︵ ぎ宙 ・ ロ ・ め申 S ︑ 又種 に対してその物質性によ つ て 指定されている限界を飛び越えて神的活動︵ ‑ ︑ p の 曲 ︒ ぢ由 かせ〜 コ 0 ︶を 続
げ ︑それを発展させるような個性である︵ぎ田 や ののど︒もし種に対して︑その物質性によって 指定されている限界
を 飛び越えることが︑自然を裏切ることである とすれば︑知性を所有することに よ るその飛躍は 第一次の裏切りであ
る仁 対し︑今この魂の行 う それ |ェ ラン・ダム 1ル ーは 自然への二重の裏切りとして︑却って そ れによって逆に自然
をも包んで越え進むのである︒そこにはニー チ ェ とは全く異つた意味での
穿臼
三年日 e の 毛縛よ已
といつたものがある︒これらは如何なることを意味するか︒ 我 々はこの重要な問題を稿を改めて考えてみたい︒
あとがき
紙数の都合上論じっくせなかつたが︑この小論の意図 は ︑終始経験に直接したところから思索しょうとした ペルグソン が︑いわ
ば 彼の思想の総決算を︑道徳と宗教という人間精神の 最高の営みの場に於てどのようになしたかを知ること である︒その為に ︑余
りにも有名な﹁閉じたもの﹂と﹁開いたもの﹂という 二つのものと正面から取り組むことを避けて︑却って それの外から ヨ一 源泉 b
90
ペルバソン の道徳・宗教
弔客
づ旨呂刃便呂討
用 や やせ 汀汀
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円
偲 、 想に
尚 本論文仁用いた略号 の 源泉とも表 5 べ き ものにアプロ l チ 出来うるような 手懸りを求めた結果︑それを次の三点に見出した︒ そ の 一つが最初に掲げた
人間の規定である︒そこに含まれている︑人間が理性 的なるが故に不条理なものに自己の存在を懸ける︵の E
の ロめコ由
﹁の︶という︑実存
的な響ぎのする事態 は 注意されてよい︒イ ソ ポリット も 云うように べルグソン には実存哲学の先駆をなす よ う なものがある︒この ような要素を明るみに出す為に ︑ ﹁︵閉じたものを開く には ︶神秘家の指示に従いさえすればよい﹂という @ 葉 に注目した︒このよ う なことの裏にほ︑ベルグ ソン が強調する﹁呼び声﹂ の道徳︑パスカルの云 う ﹁ 賭 ﹂︑親鸞の﹁ 唯 寸借 斯 高僧 説 ﹂の句があった︒ 所 でこの﹁ 1 し さえすれば よい ﹂という表現の含む単純 性も︑ 実はその背後に大きな精神の努力を要求するも のであった︒この単純
性は殆 んど困難性 とシノヰムと 云ってよい︒
これらの諸点を総括的に考える時︑私は先の﹁不条理 なものに自己の存在を懸ける﹂とは︑﹁偉大なる神秘 家 に 自己の存在を懸 け さえすればよい﹂という所に繋がるのではないかと 考 え ︑そこより べルグソソ の解する神秘 家 ︑或は神秘主 義 について若干触れて みようとしたのである︒ かュる 意図にとって極めて 有 益 と思われたものが︑上からの経験と下からの経験と いう一種の図式であ っ た ︒それは経験の哲学者ペル グソン の端的な表明であ るが︑ここに現われている間隙の介在が ︑ 下からの 経 験の尖端に立つ者に︑
どのようなものとして意識されるかが問題になる︒ 彼 に 於てそれは︑神秘的直観の分有ということによって 解決されようとすると 云える︒彼の直観はやがて神秘的直観へと連続的に引 ぎ 伸ばされて行く︒それも﹁分有﹂という形に於てで ある︒勿論引き伸ばし 待つ︵ 0
す罎
ヨの コこ ということには︑円環の突破とい ぅ 意味がある︒スペル グソン がこの語を使うのもその上 思昧に
於てである け れ
r ︑ ども︑併し 尚 その根本に連続的という性格が含ま れている︒そのことは︑更にこの図式に ︑ 彼が云 う
﹁ 経験的オプティミズム﹂
な
刊 るものを 捧討 しつつ近づいてみる時により明かと なろ う ︒それは同時に ヨ一 源泉﹂の核心に迫る道とな る 筈である︒
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まじ めに 思想家としての内村は︑戦後にわかに脚光をあ びている︒それは︑彼に関する豊富な研究文献 ︵ 1 ︶ か らも知られよ う ︒ このことは︑彼が︑日本の滅びを予言したことや ︑日露戦争で非戦論を唱えたこと︑あるいは
傾向の助長にあずかっていると思われる︒ 割を果したことによる︵ 2 ︶っまた︑彼の門下より︑ 学 界 ︑文学界をはじめ︑日本文化への貢献者が輩 出したことも︑この 近 代 思想の先駆者的役
る る ・という意味での宗教 ︒それも︑教化的意識 柁か 用 者である︒ゆえに目的は︑人間と宗教との ︑これが課題である︒内村を︑そのひと
働 ぎをなすものである
︑それにより︑ たいと思 う ︒ 彼 ど みずから︑いかなることに苦を感︵ 5 行動したか︒この過程を 4 ︑生 ︶
樹 てゆ きた 83 範久 鈴木
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