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在  り

ドキュメント内 『宗教研究』172号(36巻1輯) (ページ 88-91)

し  の 

て 

親 

い 念 

︐ヰ  ぬ  りする︒  今  ここで問題となる彼岸の問題も  ︑そ  のような﹁表象の星  気摂  ﹂︵ロロの  日ぎ  曲も隼  e  ︵ 0  ㌧Ⅱ  か  のの  コ  こリ  ホ  0  臣  ︶の  一  : 丘 ︐ ︐ f  つた  とべ  ルグソン  は  云ヲ  ︒魂の不死をプラトンに  倣ってその単一性と不可分性から  演絆  すること  は  ︑勝手な定義から 

奪こ  。 下せ  サ  キ 

玉ざ甘ぺぺ  ウ 

㌔ 

曲     F 甘去 

我々は最早虚偽の経験ではなくて︑真実の経験 そのものの中に身を置いているのである 0 そして 又 ︒もしその真実の  経験そのものの中にも 尚 確実性に憾みのあるも のがあるとすれば︑この真実の経験の最先端に上 ェ つて︑少しでもその  拡張と深化に努めねばならない︒或は又︑虚偽 ということに関して云えば︑我々は仮構機能の作 り 出す偽りの経験に  逆戻りすることの出来ないのは云 う までもない が ︑だからと云って知性によるアプリオリな問題 の 定立とその解決に  身を移すことも 亦 大きな虚偽に陥るであろう︒ 哲 学者は屡々 ︑無 とか全体という概念に於て ︑︐ ﹂の種の虚偽の中を空 

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来 ようが︑併しそれはどこまでも一面でのこと に 過ぎない︒そこで は その生存の持続の無限性︑ 有限性についての 知 

識は 南極めて不完全なものに止まる︒即ち経験 の中に一つの手掛りが得られたということの積極 面と 消極面があるだ 

げである︒そこには更に上へ 伺 っての経験の深 化が必要であろう︒併しその道は︑もし上からの 経験がなければ大層︑ 

或は恐らく絶望的に困難なものとなるであろう︒ このようにして︑下からの経験は︑知覚や知性 0 把 ︐ える外的経験の 

底を貫くことによって内的経験に深まり | 即ち ム ﹁の場ムロ 一 @ 日 まりー ︑ 更にその尖端にあって深化を 求められている︒ 

さて︑では反対にこれに対応する上からの経験 とは何か︒ベルグ ソン はそれを神秘的直観︵︶・ ぎ ︵︵︶︶ 曲 0 コ コ Ⅰ せの曲由佳の︶ 

と 呼び︑ 又 その直観を説明して神の本質の分有︵ 由コのせ簿 Ⅱ 由 ni つ い文 0 下色 の 〜 げ 紹の口のの 宙 ︶ づ ︵ コ 0 ︶とも 語っているが︵目オ 

口 ・ N の㊦ ︑ 要するにそれは先に屡々問題となった 神秘 家 の問題である︒神秘 家 とは︑高次に強化さ れた直観によって ︑ 

我々の存在の根元にまで到達し︑そのことによ つて生命一般の原理そのものにまで達したよ う な魂のことであり ︵ ぎ宙 ・ ロ ・ め申 S ︑ 又種 に対してその物質性によ つ て 指定されている限界を飛び越えて神的活動︵ ‑ ︑ p の 曲 ︒ ぢ由 かせ〜 コ 0 ︶を 続 

げ ︑それを発展させるような個性である︵ぎ田 や ののど︒もし種に対して︑その物質性によって 指定されている限界 

を 飛び越えることが︑自然を裏切ることである とすれば︑知性を所有することに よ るその飛躍は 第一次の裏切りであ 

る仁 対し︑今この魂の行 う それ |ェ ラン・ダム 1ル ーは 自然への二重の裏切りとして︑却って そ れによって逆に自然 

をも包んで越え進むのである︒そこにはニー チ ェ とは全く異つた意味での 

穿臼 

三年日 e の 毛縛 

よ已 

といつたものが 

ある︒これらは如何なることを意味するか︒ 我 々はこの重要な問題を稿を改めて考えてみたい︒ 

あとがき 

紙数の都合上論じっくせなかつたが︑この小論の意図 は ︑終始経験に直接したところから思索しょうとした ペルグソン が︑いわ 

ば 彼の思想の総決算を︑道徳と宗教という人間精神の 最高の営みの場に於てどのようになしたかを知ること である︒その為に ︑余 

りにも有名な﹁閉じたもの﹂と﹁開いたもの﹂という 二つのものと正面から取り組むことを避けて︑却って それの外から ヨ一 源泉 b 

         90 

        

ペルバソン の道徳・宗教 

弔客 

づ旨 

呂刃便呂討 

用  や  やせ  汀汀 

  

  

Ⅱ 

  

   0 

円 

  

  

  

  

        

  

        

偲 、 想に 

尚 本論文仁用いた略号  の 源泉とも表 5 べ き ものにアプロ l チ 出来うるような 手懸りを求めた結果︑それを次の三点に見出した︒ そ の 一つが最初に掲げた 

人間の規定である︒そこに含まれている︑人間が理性 的なるが故に不条理なものに自己の存在を懸ける︵の E 

の  ロめコ由 

﹁の︶という︑実存 

的な響ぎのする事態 は 注意されてよい︒イ ソ ポリット も 云うように べルグソン には実存哲学の先駆をなす よ う なものがある︒この  ような要素を明るみに出す為に ︑ ﹁︵閉じたものを開く には ︶神秘家の指示に従いさえすればよい﹂という @ 葉 に注目した︒このよ  う なことの裏にほ︑ベルグ ソン が強調する﹁呼び声﹂ の道徳︑パスカルの云 う ﹁ 賭 ﹂︑親鸞の﹁ 唯 寸借 斯 高僧 説 ﹂の句があった︒ 所  でこの﹁ 1 し さえすれば よい ﹂という表現の含む単純 性も︑ 実はその背後に大きな精神の努力を要求するも のであった︒この単純 

性は殆 んど困難性 とシノヰムと 云ってよい︒ 

これらの諸点を総括的に考える時︑私は先の﹁不条理 なものに自己の存在を懸ける﹂とは︑﹁偉大なる神秘 家 に 自己の存在を懸 け  さえすればよい﹂という所に繋がるのではないかと 考 え ︑そこより べルグソソ の解する神秘 家 ︑或は神秘主 義 について若干触れて  みようとしたのである︒ かュる 意図にとって極めて 有 益 と思われたものが︑上からの経験と下からの経験と いう一種の図式であ っ  た ︒それは経験の哲学者ペル グソン の端的な表明であ るが︑ここに現われている間隙の介在が ︑ 下からの 経 験の尖端に立つ者に︑ 

どのようなものとして意識されるかが問題になる︒ 彼 に 於てそれは︑神秘的直観の分有ということによって 解決されようとすると  云える︒彼の直観はやがて神秘的直観へと連続的に引 ぎ 伸ばされて行く︒それも﹁分有﹂という形に於てで ある︒勿論引き伸ばし  待つ︵ 0 

す罎 

ヨの コこ ということには︑円環の突破とい ぅ 意味がある︒スペル グソン がこの語を使うのもその 

上  思昧に 

於てである け れ 

r ︑ ども︑併し 尚 その根本に連続的という性格が含ま れている︒そのことは︑更にこの図式に ︑ 彼が云 う 

﹁  経験的オプティミズム﹂ 

な 

刊 るものを 捧討 しつつ近づいてみる時により明かと なろ う ︒それは同時に ヨ一 源泉﹂の核心に迫る道とな る 筈である︒ 

  

  

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ト 

Ⅱ @L @P Ⅰ 

|駄 

    

      ユ丘              ,.'.@@@'@@PV@ Ⅰ @.,2fr@*    ,'','.'.  ‑.'  @@:.'‑'       ド @ け 且甲   Ⅲ ノ 

まじ  めに     思想家としての内村は︑戦後にわかに脚光をあ  びている︒それは︑彼に関する豊富な研究文献  ︵ 1 ︶  か  らも知られよ  う  ︒  このことは︑彼が︑日本の滅びを予言したことや  ︑日露戦争で非戦論を唱えたこと︑あるいは 

傾向の助長にあずかっていると思われる︒  割を果したことによる︵ 2  ︶っまた︑彼の門下より︑  学  界  ︑文学界をはじめ︑日本文化への貢献者が輩  出したことも︑この  近 代  思想の先駆者的役 

    

る る ・という意味での宗教  ︒それも︑教化的意識  柁か 用  者である︒ゆえに目的は︑人間と宗教との  ︑これが課題である︒内村を︑そのひと 

  

働  ぎをなすものである 

  

︑それにより︑  たいと思  う  ︒  彼  ど みずから︑いかなることに苦を感︵  5  行動したか︒この過程を  4 ︑生 ︶ 

  

  

樹  てゆ  きた  83  範久  鈴木 

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Ⅷ 

ドキュメント内 『宗教研究』172号(36巻1輯) (ページ 88-91)

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