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宗教,思想について
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ある︒これによって︑唯一の根本的な必要を除い た 他の必要が悉く否定されるのであるが︑ここに 残された唯一の必要
は 知によって充たされることは出来ない︒知は その必要を説くだげに 上 る︒而もそれは充たさる べ き ものとして残つ
ている︒それを充たすものは︑それを再び知的 反省の面に投射して云えば︑他のあらゆる必要の 排除と共にあるもの
として︑一方に否定性を含み︑他方に単純性を 性質とするものであろう︒﹁哲学的直観 b の中で 語られた直観 | そこ
︵
2︶
では直観はソクラテスのダ イ モ ノ にも比す可き 禁止の声と説かれた ︐よ ︑まさにこの ょう なもの であった︒ところで直観が単純性と共に否定性をも含むも のとされたことと一つに結びついているのは︑ べ ルグソン が直観の
努力と呼ぶところのものである︒彼は云う︒﹁
ナ ﹂
考え方を推奨する︒ ぅ して私は安易を拒否する︒私は困難な一種の 私は何よりも努力を重んずる﹂︵窪 .
づ・
鰍︶︒
ま たヨ一 源泉三一つを見ても努力ということが庄 叩
られている箇所は枚 挙 に運がない程である︒﹁︵ し さえすれば よい﹂
ということの含む単純性は︑このような安易さ の 拒否の中から︑ 厳 しい困難性をくぐり抜けたところでの単純性と一 云える︒それは単に実践の面に於ける要求に止ま るものではない︒ 凡そものを考えることそのことのあり方に大きな 努力をべ ルグソン は強いるのである︒その要求は 自己を凝視せよとい
ぅ ことにつきる︒即ち自己を取り巻く部厚く 執 鋤な 空間性を破って︑その底に時間と一つにある ような内的自己を見
ょ というのである︒それは自己が自己の内に 如 何なる仕方での対象化をも拒否する内的経験の場 を 開くということに 他ならない︒ベルグ ソン はこの内的自己を
︑
記‑
憶に 於て過去を荷い︑未来に伺って絶えず持続的 に 発展する創造的自 己として捉えた︒外から自己を把 えょ 5 とする 心理学者は勿論であるが︑自己を観念的自我とし て 措定する哲学者の自己把握も︑時間を抜ぎにして自己を断片的 諸 状態の連結と見る点では軌を一にしている︒ そ こで 抱 えられた自己
は
︑
外 化され固定化された︑いわば影のような 自己でしかない︒知性に よ る自己把握は悉くこ の 影を追 う のみであ る ︒知性が経験を説明しょうとすると︑ 避 げ離 くそれに空間的屈折が︑別言すれば類的多様性の 空間的並置が生ずるからである︒直線的な論理を駆って結論を演 絹 することは︑仮令その出来上ったものが如何に精 ほ 或は雄大な相を呈
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︵ 2 ︶併しべ ルグソン はこの禁止の声と︑知性の働 き としての否定性との関係を論じてはいない︒彼の知性 の 理解が︑直観 と一
つに成立する知に働く知性というところに 迄 十分及ん でいないからである 0 併し反面彼の知性の理解に大 き な 振幅があるこ
とには理由があるであろう︒その意味 て 先に述べた て リタンがロベルグ ソ ニズム と トミズム b の中で論して いる問題が殆ど
ベルグ ソン の知性解釈をめくるものであることも首肯 されうる︒ しょうとも︑従って 又 そこに如何に知的努力が 払われよ う とも︑ 尚 思索の無精でしかない︒それ は 自己の思索の曲線
を 去ってその切線へとそれることであり︑その @ ﹂とは当然自己自身に対する 外化 ︑即ち日常性︑ 空間性への真の自己
の 埋没を意味する︒ベルグ ソン の要求する努力 は ︑結局精神の怠惰の生んだ膠しい概念の切線を 一挙に切り捨てるこ
となのである︒既成の諸概念を以て上げる実在 の 再構成を企図すること︑ 又 それが再構成である ことについての無知
円
主知主義者の救い難いまでの思索の無精が 見 られることを べルグソン は鋭く糾弾した︒所が他 万に於て彼は絶対に触れることを認識に拒む立場の中にもそれを 見 た ︒その無精は彼の目には︑実に﹁根源 悪に 汚され たもの﹂︵ 0 巨 こりのぽか 拐
色目 ヰ 4 円 ce まぬ 〜 3% ㌧ 目 ・㌧・ ミの ︶と映じた︒ 一 刑 者は再構成の可能を信じるのに対し︑後者はそ れの不可能を信じる
に 過ぎない︒恐らく彼にとっては︑カントの 純 粋 理性の純粋さも 尚 不純なのである︒そこには 概 念を以て本質的に行
為の実利性に絡まれたものとする 彼 独得の洞察 がある︒彼がプラトンからカントに至る迄の古来 の形而上学に加えた
批判の主要な一点は︑この概念︑従って 又 知性 仁 絡む実利性についての無知であった︒彼の要求 する努力は︑認識の
百に於ける形而上学からの︑行為的関心の徹底 的な排除なのである︒先に述べた必要の否定とは ︑本質的にはこのよ
う なことを意味する︒それは概念から実在へと い う 方向の逆転である︒
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Ⅰ
以上のことは︑主としてヨ一源泉 三 に先立つ 諸 著の展開する所であったが︑ヨ一源泉 ヒは 全逓︒ へ た行為的関心の排 除から再び我々を行為の場の只中に連れ戻す︒ そ こでは存在することは行為することであると
庄 抑 られ︑ 又 完全な神秘 主義 | これこそ本書の目指す当のものである | ほ 行動であるとも云われている︵ や養 e ︒それで は 本書に於て我々は どのような努力を求められるのであるか︒これ に 対する究極の答えが即ち先述の﹁神秘家の指示 に 従 い さえすれば ょ い ﹂ということなのである︒併しこの﹁ ? しさ︐ ぇ すれば よ い﹂は飽くまでお 目宙 東港 コ された ものでなければなら ない︒即ち前述のような意味での認識の面での 努力が既になされている必要がある︒そのことに よって自己の内に内 的 経験の場の開げが︑つまりあらゆる日常の行 為 的関心を排除しづくした所からものを見ること が 可能仁なっていな ければならぬ︒所でこのような純粋な内的経験 の場の開けせ認識の面に於て持つということは︑ 同時に実践の場に 於 ても 亦 その ょう な開けを持つことと別事ではな い ︒ベルグ ソン に於て両者は一つに成立する︒ 従 つて自己の内奥に ︑
ね ︑従って表現不可能なものと合致する為に ︑ ひとがそれによって一つ 速の対象の内部に自己を移し入れるところの 止 ︵ 感 ﹂︵ 田 . ロ ・ P ㏄ ト ︶によって共感される︒この 共感が べルグソン の所謂 の 直観に他ならない︒このような直観の努力の ない所には神秘主義と呼ばれるものも 亦 存しな いであろう 0 ベルグ ソン
したことのない人間に伺っては何事も語らない ﹂と語る︵ 審オ︐づ ・ め収い ︶ ゆ
〜所以である︒ここに云われる経験の成立する 所は ︑かの共感を措いて外 に はない︒従って 又 ︑その ょう な努力のない 舘
肥 ﹃ "" " ︒
ぎない︒それは当然再度生起する筈のものであ る ︒だが最早ここでは問題は仮構ということでは すまされない︒今や禦の反作用としての︑仮構機能の鎮静作用とい ぅ ことで一応の解決を見ていた︒併しそれは飽く まで鎮静されたに 過
ヰ " ナ ﹁ @ " 一 ‑‑ 戸 Ⅰ 一 ‑. ︒ 1 '@r . 所では︑偉大な神秘家も甚だしい狂人でしかな いであろう︒彼等は﹁自然を裏切る﹂︵ キ ︒日ぼ ︵ 瓦 コリ 日 おぎ 桟 Q ︑ のの︶からである︒
﹁従 う ﹂こと自体の要求する筈の努力はどのよ
う なものであるか︒これらの点に考察を加えた
時 ︑最初から問題にし て来 た︑かの人間の規定の分析も亦最後的な解 明を受けることになるであろう︒やや先走って 云 えば︑﹁神秘 家 の 指 示 に従いさえすればよい﹂ということは︑実は ﹁神秘家の指示に自己の存在を懸げさえすれば ょ い ﹂ということと 同 義 なのである︒ このような考察を進めるに当つて︑有力な手掛 りを与えてくれるのは︑動的宗教が論じられた 終りの部分に見 ︐え る ︒下からの経験と上からの経験という二つの 経 験の区別である︵ 審ヰ ・ Q. め ㏄ い ︶︒周知のように ベルグ ソン は︑一方
このような彼の根本的思考から 来 ていること 怪 ムう までもないが︑併しここでの上下の区別は ︑ 根本的な上下の線上 での︑いわば極めて上の部 力 での区別なのであ る ︒而も大事なことは︑ベルグ ソン が 両 経験の 間 に成間隙の存在を 認め︑それらの拡張と深化とによって両者を繋 ぐことができるかどうかを問 う ていることである ︒それでは下からの 経験とは何であるか︒ 一体このような事柄が提出されたのは︑死後の生 0 間頭に関してであるが︑前に見たよ う に ︑こ の 問題は静的宗教 が 論じられた際に大きな部分を占めていた︒ そナ しではそれは︑知性による死の不可避性の表象に 対する自然の行 う防
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