• 検索結果がありません。

筈  規

ドキュメント内 『宗教研究』172号(36巻1輯) (ページ 83-88)

で  定 

     

。  ム,       

の 

     

し   

  

ン  令 て  えす さ 

と  合  目  れ 

力  を  己 ま 

ン  以  の  よ 

ト  て  立  い 

し神易 

」 

︵ ︶     は 大きな距離がある︒      

          

  

  

轍, ;,/"        ‑, 

  

     

  

               Ⅰ 百旧 

           ノン    徳 

  道 の デヰ ︒   

        

伯 ・  モ 。 ,ヮ幻廿 ド ・ p   

  

宗教,思想について 

     ・ 1‑ 日 由 , ガ Ⅰが・Ⅰ㌔円だ  イ れヰモキ二 %. ぢ柑 /   ヰ   キュ 朋 ; 庄 

  

ある︒これによって︑唯一の根本的な必要を除い た 他の必要が悉く否定されるのであるが︑ここに 残された唯一の必要 

は 知によって充たされることは出来ない︒知は その必要を説くだげに 上 る︒而もそれは充たさる べ き ものとして残つ 

ている︒それを充たすものは︑それを再び知的 反省の面に投射して云えば︑他のあらゆる必要の 排除と共にあるもの 

として︑一方に否定性を含み︑他方に単純性を 性質とするものであろう︒﹁哲学的直観 b の中で 語られた直観 | そこ 

︵ 

︶ 

では直観はソクラテスのダ イ モ ノ にも比す可き 禁止の声と説かれた ︐よ ︑まさにこの ょう なもの であった︒ 

ところで直観が単純性と共に否定性をも含むも のとされたことと一つに結びついているのは︑ べ ルグソン が直観の 

努力と呼ぶところのものである︒彼は云う︒﹁ 

ナ ﹂ 

考え方を推奨する︒ ぅ して私は安易を拒否する︒私は困難な一種の  私は何よりも努力を重んずる﹂︵ 

窪  . 

づ 

・ 

鰍 

︶︒ 

ま たヨ一 源泉三一つを見ても努力ということが 

庄  叩 

られている箇所は枚  挙 に運がない程である︒﹁︵ し さえすれば よい 

﹂ 

ということの含む単純性は︑このような安易さ の 拒否の中から︑ 厳  しい困難性をくぐり抜けたところでの単純性と一 云える︒それは単に実践の面に於ける要求に止ま るものではない︒ 凡 

そものを考えることそのことのあり方に大きな 努力をべ ルグソン は強いるのである︒その要求は 自己を凝視せよとい 

ぅ ことにつきる︒即ち自己を取り巻く部厚く 執 鋤な 空間性を破って︑その底に時間と一つにある ような内的自己を見 

ょ というのである︒それは自己が自己の内に 如 何なる仕方での対象化をも拒否する内的経験の場 を 開くということに  他ならない︒ベルグ ソン はこの内的自己を 

︑ 

記 

‑ 

憶に 於て過去を荷い︑未来に伺って絶えず持続的 に 発展する創造的自  己として捉えた︒外から自己を把 えょ 5 とする 心理学者は勿論であるが︑自己を観念的自我とし て 措定する哲学者の 

自己把握も︑時間を抜ぎにして自己を断片的 諸 状態の連結と見る点では軌を一にしている︒ そ こで 抱 えられた自己 

は 

︑ 

外 化され固定化された︑いわば影のような 自己でしかない︒知性に よ る自己把握は悉くこ の 影を追 う のみであ  る ︒知性が経験を説明しょうとすると︑ 避 げ離 くそれに空間的屈折が︑別言すれば類的多様性の 空間的並置が生ずる 

からである︒直線的な論理を駆って結論を演 絹 することは︑仮令その出来上ったものが如何に精 ほ 或は雄大な相を呈 

85   (85) 

  

  

イ 

‑‑‑‑  ニ """"""  。 一 ""       " コす ト """  "" Ⅰ """"  

  

  

  

  ""' 一 ""  ""  "'               

  

                                     

  

睡 

︵ⅠⅠ︶ ︵・Ⅰ・ ひそ ︒三 ︒ コ Ⅱか い圧 ﹁ @ いの・の アぃ宮 ︵ べ の も 

︵ ︶併しべ ルグソン はこの禁止の声と︑知性の働 き としての否定性との関係を論じてはいない︒彼の知性 の 理解が︑直観 と一 

つに成立する知に働く知性というところに 迄 十分及ん でいないからである 併し反面彼の知性の理解に大 き な 振幅があるこ 

とには理由があるであろう︒その意味 て 先に述べた て リタンがロベルグ ソ ニズム と トミズム の中で論して いる問題が殆ど 

ベルグ ソン の知性解釈をめくるものであることも首肯 されうる︒  しょうとも︑従って 又 そこに如何に知的努力が 払われよ う とも︑ 尚 思索の無精でしかない︒それ は 自己の思索の曲線 

を 去ってその切線へとそれることであり︑その @ ﹂とは当然自己自身に対する 外化 ︑即ち日常性︑ 空間性への真の自己 

の 埋没を意味する︒ベルグ ソン の要求する努力 は ︑結局精神の怠惰の生んだ膠しい概念の切線を 一挙に切り捨てるこ 

となのである︒既成の諸概念を以て上げる実在 の 再構成を企図すること︑ 又 それが再構成である ことについての無知 

円 

主知主義者の救い難いまでの思索の無精が 見 られることを べルグソン は鋭く糾弾した︒所が他 万に於て彼は絶対に 

触れることを認識に拒む立場の中にもそれを 見 た ︒その無精は彼の目には︑実に﹁根源 悪に 汚され たもの﹂︵ 0 巨 こりのぽか 拐 

色目 ヰ 4 円 ce  まぬ 〜 3%  ㌧ 目 ・㌧・ ミの ︶と映じた︒ 一 刑 者は再構成の可能を信じるのに対し︑後者はそ れの不可能を信じる 

に 過ぎない︒恐らく彼にとっては︑カントの 純 粋 理性の純粋さも 尚 不純なのである︒そこには 概 念を以て本質的に行 

為の実利性に絡まれたものとする 彼 独得の洞察 がある︒彼がプラトンからカントに至る迄の古来 の形而上学に加えた 

批判の主要な一点は︑この概念︑従って 又 知性 仁 絡む実利性についての無知であった︒彼の要求 する努力は︑認識の 

百に於ける形而上学からの︑行為的関心の徹底 的な排除なのである︒先に述べた必要の否定とは ︑本質的にはこのよ 

う なことを意味する︒それは概念から実在へと い う 方向の逆転である︒ 

(86)   86 

@. ト    

Ⅰ 

以上のことは︑主としてヨ一源泉  三  に先立つ  諸  著の展開する所であったが︑ヨ一源泉  ヒは  全逓︒  へ  た行為的関心の排  除から再び我々を行為の場の只中に連れ戻す︒  そ  こでは存在することは行為することであると 

庄 抑  られ︑  又  完全な神秘  主義  |  これこそ本書の目指す当のものである  |  ほ  行動であるとも云われている︵  や養  e  ︒それで  は  本書に於て我々は  どのような努力を求められるのであるか︒これ  に  対する究極の答えが即ち先述の﹁神秘家の指示  に  従  い  さえすれば  ょ  い  ﹂ということなのである︒併しこの﹁  ?  しさ︐  ぇ  すれば  よ  い﹂は飽くまでお  目宙  東港  コ  された  ものでなければなら  ない︒即ち前述のような意味での認識の面での  努力が既になされている必要がある︒そのことに  よって自己の内に内  的  経験の場の開げが︑つまりあらゆる日常の行  為  的関心を排除しづくした所からものを見ること  が  可能仁なっていな  ければならぬ︒所でこのような純粋な内的経験  の場の開けせ認識の面に於て持つということは︑  同時に実践の場に  於  ても  亦  その  ょう  な開けを持つことと別事ではな  い  ︒ベルグ  ソン  に於て両者は一つに成立する︒  従  つて自己の内奥に  ︑ 

  

  

  

  

ね  ︑従って表現不可能なものと合致する為に  ︑  ひとがそれによって一つ  速の対象の内部に自己を移し入れるところの  止  ︵ 感  ﹂︵  田  .  ロ ・  P ㏄  ト ︶によって共感される︒この  共感が  べルグソン  の所謂  の  直観に他ならない︒このような直観の努力の  ない所には神秘主義と呼ばれるものも  亦  存しな  いであろう  0  ベルグ  ソン       

  

したことのない人間に伺っては何事も語らない  ﹂と語る︵  審オ︐づ  ・ め収い  ︶  ゆ 

〜所以である︒ここに云われる経験の成立する  所は  ︑かの共感を措いて外  に  はない︒従って  又  ︑その  ょう  な努力のない  舘 

    

肥 ﹃   ""  "  ︒      

ぎない︒それは当然再度生起する筈のものであ る ︒だが最早ここでは問題は仮構ということでは すまされない︒今や 

  

禦の反作用としての︑仮構機能の鎮静作用とい ぅ ことで一応の解決を見ていた︒併しそれは飽く まで鎮静されたに 過 

ヰ "        ナ ﹁ @ " 一  ‑‑ 戸          Ⅰ     一 ‑. ︒ 1       '@r .           所では︑偉大な神秘家も甚だしい狂人でしかな  いであろう︒彼等は﹁自然を裏切る﹂︵  キ ︒日ぼ  ︵  瓦  コリ  日  おぎ  桟  Q  ︑ のの︶からである︒      

  

    

﹁従  う ﹂こと自体の要求する筈の努力はどのよ 

う なものであるか︒これらの点に考察を加えた 

時 ︑最初から問題にし  て来  た︑かの人間の規定の分析も亦最後的な解  明を受けることになるであろう︒やや先走って  云 えば︑﹁神秘  家  の 指  示  に従いさえすればよい﹂ということは︑実は  ﹁神秘家の指示に自己の存在を懸げさえすれば  ょ  い ﹂ということと  同  義 なのである︒  このような考察を進めるに当つて︑有力な手掛  りを与えてくれるのは︑動的宗教が論じられた  終りの部分に見  ︐え  る ︒下からの経験と上からの経験という二つの  経 験の区別である︵  審ヰ  ・ Q.  め ㏄ い  ︶︒周知のように  ベルグ  ソン  は︑一方 

このような彼の根本的思考から  来  ていること  怪  ムう  までもないが︑併しここでの上下の区別は  ︑ 根本的な上下の線上  での︑いわば極めて上の部  力  での区別なのであ  る ︒而も大事なことは︑ベルグ  ソン  が  両 経験の  間  に成間隙の存在を  認め︑それらの拡張と深化とによって両者を繋  ぐことができるかどうかを問  う  ていることである  ︒それでは下からの  経験とは何であるか︒  一体このような事柄が提出されたのは︑死後の生  0  間頭に関してであるが︑前に見たよ  う  に ︑こ  の 問題は静的宗教  が 論じられた際に大きな部分を占めていた︒  そナ  しではそれは︑知性による死の不可避性の表象に  対する自然の行  う防 

            

リ @lt ㌔ @.@.,.@@. 

ドキュメント内 『宗教研究』172号(36巻1輯) (ページ 83-88)

関連したドキュメント