第 3 章 制度化
2. 制度化
2.3. 跨ぎ越し
最後に、メルロ=ポンティが上記の制度の構造と歴史性を取り込みながら、どのようにし て社会規範に関する理論と社会変動論を統合しているのかを見ていく。手がかりとなるの は、メルロ=ポンティが「制度化する主体」とは「構成する主体(sujet constituant)」ではな く、「制度化され、制度化する主体(sujet institué et instituant)」だと述べていることである
(IP: 35)。
制度化する主体は他者と共存可能なのである。なぜなら、制度化されたものは、その主 体自身の活動の直接の反映ではなく、後になってその主体自身によってであれ他者た ちによってであれ――全面的に再生されるわけではないが――捉え直されうるのであ り、したがって、ちょうど蝶番のように他者たちと私のあいだ、私と私自身のあいだに あるのであり、われわれが同じ一つの世界に所属していることの帰結であれば保証で もあるからである。(RC: 60/44)
私と他者の間には「制度化されたもの」あるいは「間主観的あるいは象徴的領野」(IP: 35) が存在している。つまり、「サッカー」や「オフサイドトラップ」といった制度がプレイヤ ーの間にあるということである。これが「蝶番」となることで、私たちの間でのコミュニケ ーション、すなわち「サッカー」というゲームを一緒にプレイすることや、「オフサイドト ラップ」という戦術を共同で実行することが可能となっている。また、「制度化されたもの」
は主体によって構成されたものではない。制度化は、ある主体の行為の直接の結果ではない のであり、誰かによって捉え直されなければならないのである。
メルロ=ポンティは、このような制度化によって、他者と共存することや過去と未来、私 と他者の間を「跨ぎ越す(enjambe)」(IP: 37)ことが可能になっているという。この「跨ぎ 越し」を理解するためのモデルとなっているのは、『世界の散文』(1951年)の「他者の知覚 と対話」という章で述べられた「対話」の事例である。
また、「跨ぎ越し」には2つの意味がある。1つは、主体が制度へと参入することで、制 度化される場合である。このとき、私は他者との間の「蝶番」を手に入れ、私と他者の間は 跨ぎ越される。もう1つは、制度へと参入することで制度化され過去の遺産を継承した主体 が、制度化する主体として、未来へと跨ぎ越す場合である。このとき私と他者の間には新た な「蝶番」が創出される20。
20 廣瀬(2014)は「跨ぎ越し」を次のようなものとして捉えている。「それ〔跨ぎ越し〕
は過去と未来、自己と他者の裂け目を、みずからの根拠を創出しながら垂直に跨ぎ越す。
この自己と自己の間の距離をもった飛躍が成就してはじめて、他との共存の場が創出され る、というよりはむしろ、共存しうるような他たちの系列が創出される。このとき跨ぎ越 される裂け目が、自己と他者の交換のひそかな『蝶番』となるのである」(廣瀬 2014: 68,
〔 〕内引用者)。本論文の解釈にあたってもこのような「跨ぎ越し」の解釈に負うとこ ろは多いが、廣瀬(2014)は制度へと参入する側面を「跨ぎ越し」とは切り離しているの
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以下では、前者を(1)社会規範に関する理論の側面として、後者を(2)社会変動論に関 する側面として順番に見ていく。
(1)社会規範に関する理論の側面
第1章の『知覚の現象学』では、対話は社会規範に関する理論の一事例として述べられて いた。すなわち、特定の規範の下での共存を説明するための例として挙げられており、特定 の規範に合致したスタイル(身体技能)の共有がそれを可能にしていたのである。
例えば、私と他者が異なったパースペクティヴを持つにもかかわらず、同じ対象を知覚す ることができるのは、私たちが同じ世界を「知覚の匿名の主体」として、すなわち「ひと(on)」 として分与しているからだ。ここで、「匿名の主体」ということが意味しているのは、私と 他者が同じスタイルを持っているということ、言いかえれば私と他者が同じ規範に対応し たスタイル(身体的技能)を身につけているということである。同様の仕方で、対話でも私 と他者は同じ言語的世界を共有することができている。つまり、規範となる表現手段(表情 や身振り、既成の語彙や統辞法の諸体系)が共有され、相応のスタイル(身体的技能)を持 ち合わせている対話者の間にはスムーズなコミュニケーションが成り立つのである。
この点は「他者の知覚と対話」においても異ならない。メルロ=ポンティは、次のように 述べている。
われわれと他者との無言の関係に関して言うなら、その解決は、世界に対するわれわれ の感受性、世界との――つまりは、われわれの身体との――同期化といったわれわれの すべての経験によって暗黙のうちに行われている定立が、われわれの存在からかけが えのない絶対的な作用のもつような密度を奪い去り、「身体性」を転調可能(transférable)
な一つの意味に仕立て上げ、ある「共通の状況(situation commune)」を可能にし、つい にはもう一つの〈われわれ自身〉――たとえその絶対的な現実的存在においてではない にしても、少なくともわれわれにも近づきうる一般的に粗描された姿でのもう一つの
〈われわれ自身〉の知覚を可能にしてくれるのだ、ということを理解することにかかっ ている。同様に、言葉(parole)という特殊な所作に関して言うなら、その解決は、対 話の経験においては他者の言葉がわれわれのうちでわれわれの意味に触れてくるし、
われわれの言葉も、返事が証明してくれるように、他者のうちで彼の意味に触れにゆく のだということ、われわれは、いずれもが同じ文化的世界に属し、なによりもまず同じ 言語体系(langue)に所属しているかぎり、たがいに浸食(empiétons)しあうものだと いうこと、また私の表現作用と他者の表現作用が同じ制度(institution)に属しているこ とを認めることにかかっていよう。(PM: 193–194/184)
ここでも、知覚における私たちの「共通の状況」と「身体性」が結びつけられている。私と 知覚された世界の間にある「スタイル」の関係が、私と他者との「共通の状況」の共有や他 者のスタイル(身体的技能)の知覚を可能にしているのだ。対話の事例についても、この知 覚と同様の仕方で理解されている。ある言語体系(langue)、例えば日本語とは語彙や統辞法
に対して、本論文では制度への参入も「跨ぎ越し」の一側面として捉えている。
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の諸体系といった諸要素を結びつけた「スタイル」のことである。「日本語」という制度は、
この日本語のスタイルと日本語の話者のスタイル、すなわち正しい語彙や正しい文法とい った規範に応じる身体的技能(スタイル)のセットで成り立っている。日本語の話者たちは スタイル(身体的技能)を共有しているおかげで同じ「文化的世界」や「制度」に属するこ とができる。対話において、私と他者の間にスムーズな協調が成り立つのは、私たちが同じ 言語体系を共有しているからであり、それを利用するスタイル(身体的技能)を身につけて いるからなのである。
かくして、対話が可能であるためには、「日本語」という言語のスタイルに対応したスタ イル(身体的技能)を身につけなければならないということになる。そのことによって、私 たちは制度へと参入し、同じ制度に属している他者たちと対話を行うことが可能になって いるのである。
「サッカー」という制度についても同じような仕方で説明できるだろう。第1章で取り上 げたサッカーの事例では、プレイヤーがどのようにしてサッカーというゲームを共同して 行えるようになっているのかということが説明されていた。上記のように、「サッカー」と いう制度は、「サッカー」というゲームの「スタイル」(諸要素の配置を規定するもの)とプ レイヤーの「スタイル」(身体的技能)がセットになっている。このとき、同じ「スタイル」
(身体的技能)を身につけた人々の間ではサッカーというゲーム(「シンボル作用の場」)を 共有することができる。したがって、サッカーのプレイヤーや指導者になるためには、サッ カーの「スタイル」に合致した「スタイル」(身体的技能)を身につける必要があり、そう することで「サッカー」という制度へと参入するのである。
(2)社会変動論の側面
ここからは、2 つ目の「跨ぎ越し」の事例に移ろう。ここでも鍵となるのは、「他者の知 覚と対話」である。以下では、(a)上記の対話とは異なる「表現としての対話」がどのよう にして「跨ぎ越し」を実現するのかを見た後で、(b)このような跨ぎ越しが社会変動論(表 現論)の2つの条件を満たすものであることを説明する。最後に、(c)総括をする。
(a)表現としての対話
メルロ=ポンティは、『知覚の現象学』において、「語る言葉」と「語られた言葉」を区別 していた。そして、「語る言葉」とは、作家が用いる言葉であり、表現の場面で創造的な働 きをするものであった。同様の区別は、「他者の知覚と対話」においても行われている21。
21 河野(2000)によれば、ソシュールの言語学の影響を受けた中期の言語論では、「言語
体系(langue)」に関して、『知覚の現象学』と比べて変化があると考えている。つまり、
「言語体系」は、「表現の手段と道具」として捉えられているだけではなく、「ひとつの能 力」としても捉えられているというのである(河野 2000: 62)。また、Yahata(2012)は
『知覚の現象学』における対話の事例と比較した場合の『世界の散文』の「他者の知覚と 対話」の独自性について次のように述べている。「この1951年の著作〔『世界の散文』〕を 最も深く特徴づけていることは、実際には、『言葉(parole)』によって私たちの『言語体 系(langue)』が創設、、
される、、、
(s’instaurer)瞬間へと遡ることにあり、そしてまたこの言葉の
力(puissance)の上に私たちの『対話の経験』を据えることにある」(Yahata 2012: 215)。