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財政統制の漸次的拡大

ドキュメント内 予算制度成立史研究 (ページ 78-82)

) のであるが,最初には 1665 年「議定費法」 ,続いて1667 年「人頭税法」及び「査

第2節 財政統制の漸次的拡大

次に,王政復古期における財政統制について検討していきたい。

(1)歳出入,予算審議面

量出制入の観点から, まず歳出面に注目すると, 財政統制の漸次的拡大過程は,

主として,支出の諸部分が次々と庶民院の審議対象とされてくる過程である

89

) といえる。

① 1660 年,国王への毎年援助として「年間£ 1,200,000」の収入の議決

「通常の」支出に対する議会統制として, (1689 年名誉革命後のシビル・リス トの前史=出発点としていえば) , 1660 年5 月の「王政復古」後の 9月 4 日,ス チュアート Stuart朝の復古を歓迎した大衆的熱狂の影響下に

90

),仮議会は,国 王の現収入の状態を審議するために設置していた「委員会」からの報告を受け,

それにもとづいて,国王チャールズ 2 世に対して,全治世の間, 「陛下への一定 の毎年援助」constant yearly Support のため「年間£1,200,000」の収入を議決 した

91

) 。続くジェームズ 2 世に対しても, 1685 年の即位の際に, 1685 年 5 月 30 日に制定した「陛下に生涯間,故陛下に生涯間設定した収入を設定するため の法律」

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② 1665 年, 「借入及び割当条項」の導入開始

)によって,同一額が議決された。これが先例となるのである。

割当=支出統制の開始についていえば,予算審議で言及したように,第 2 次オ ランダ戦争のための「即金」の必要性により,借入等の「担保」のため,1665 年「議定費法」において, (1)賦課される金銭を「担保」として, 「貸付割符」と

「返済指図書」によって 6 %という低利子で資金を借入れ,返済順位を確定す る「借入条項」を導入した。 (2)同時に,このような借入等の「担保」のため,

そのような法で賦課する金銭を,賦課する目的に厳格に割り当てる「割当条項」

89) Cf. G.F.M.Campion,op.cit.,p.24.

90) P.Einzig, op.cit.,p.141.

91) Cobbett's Parliamentary History of England, from the Norman Conquest, in 1066, to the Year 1803, Vol.IV, pp.117‐118.

92) An Act for settling the Revenue on his Majesty for His Life, which was settled on His late Majesty for His Life(1 James II,c.1).

を初めて導入した。こうして,議会とりわけ庶民院による割当=支出統制が開始 した。

③ 1668 年, 「全院委員会」での財政負担の予備的審議の「決議」

財政統制を有効にするための庶民院の全院委員会に関する手続きとして, 庶民 院は, 「・・・1666 年の会期に譲与された議定費が浪費されていたこと」を不満と して, 「国王の財政上の必要の審議のため彼らの手続き」 を公式に宣言するべく,

特別委員会の勧告に基づいて, 1668 年 2 月 18 日に,次のように「決議」した。

すなわち, 「・・・もしも本院において公的援助金又は国民に対する負担を求める 動議がなされるならば, それについての考察と討論は直ちには始められるべきで はなく;本院が指定するのが適切と考えるような更なる日まで延期される;また その時それが全院委員会 Committee of the whole Houseに付託されるべきであ る;また彼らの意見がそれについて報告される;本院の決議又は議決がそこで下 される前に」,と

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) 。この決議は(後述するように) 1707 年に「議事規則」化さ れてくることに留意しておきたい。

(2)国庫,決算審議面

① 1665 年,「基金」設定の開始

借入,国庫面についていえば,予算審議で言及したように, 1665 年「議定費 法」における「借入及び割当条項」により,賦課される金銭が,財務府で他の金 銭とは別個に記帳=保管されることになったため, 従来のように単一資金を形成 することを止め,以後,特定の収入を特定の支出に割り当てることにより,種々 の「基金」設定が開始した。

② 1667 年 ,「大蔵委員会」の設置

支出統制のため財務部局としての保蔵室(のちの大蔵省)の発展について,そ の重要な 1 歩としての「大蔵委員会」の設置に注目したい。

まず前史として 「委員会」 化についていえば, 1612 年にまた再度 1614 年と 1618 年に,ジェームズ1世 James I [ 在位 1603 年‐ 1625 年]は, 「財務府長官」 Lord High Treasurerの地位を委員会に置いて, その職務を短期間5人ないし6人の 「委 員会」 Board に託した。また続くチャールズ1世は 1635 年に「大蔵委員会」

Treasury Commission を設置した

94

93

) G.Reid,

op.cit.,pp.47-48.

) 。

94

) Lord Bridges,

op.cit.,p.17.

なお,このように財務府長官職を一時的に委員

次の段階としての「枢密院」 Privy Council からの「大蔵委員会」 Treasury Board or Commission の分離についていえば,ジェームズ1世 及びチャールズ 1世 の下での短命な「委員会」 ,及び1660 年の「王政復古委員会」 Restoration Commission は, 「枢密院の委員会」 Committees of Privy Councilであり,これ は大法官 Lord Chancellor,2 人の主要な国務大臣 Secretary of State,大蔵 大臣 Chancellor of Exchequer及び幾つかの場合にはカンタベリー大司教を含め て,全く「枢密院顧問官」から構成されていた。また初期には,これらの「大蔵 委員会」の書記は枢密院書記だった。ところが,王政復古後の 1667 年,チャー ルズ 2 世は, (「財務府長官」の第4 代サウザンプトン Southampton 伯の死の際 に)この伝統を破り, 「大蔵大臣」を除いては主要な枢密院顧問官のいずれをも 含まず,またダウンニング Sir George Downingをその書記にした完全に新しい タイプの委員会を任命した

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このようにして「陛下の大蔵委員会」the Commissioners of his Majesty's

Treasuryが設置されたことの国制史的意義についていえば, 最後の 「財務府長官」

たるシュローズベリー Shrewsbury 伯が 1714 年に辞職して以来,財務府長官の 役所は以来ずっとこの「大蔵委員会」に存しているのであるが,まもなくしてウ ォルポール Sir R. Walpoleがその「第一大蔵卿」として最初のイギリス首相に なり, 続いて大蔵大臣がまさに財務大臣として大蔵省部局の長になる道を開始す ることである

) 。

96

) 。財政史的意義についていえば, 1667 年 6 月に, 「それぞれの

(すなわち,部局の)財務官達 treasurers はこの陛下の大蔵委員会からの指図

directionsなしにはどんな支払も控えることが命じられ」 ,こうして,金銭がす

でに議会によって議決されていたとしてさえ, すべての支出は明示的な大蔵省承 認 specific Treasury approval を受けねばならないという原則が成立してく ることである

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) 。

会に置くうえで初期スチュアート朝の動機は,過度に強力な家臣を創らないという願望と おそらく結合して, 「財務府長官」として特定個人の任命についての一種の時間かせぎに過 ぎなかったと思われる。

95

Ibid., p.18

;H.Roseveare,

The Treasury 1660-1870:The Foundations of Control

pp.17-18.

96

) Lord Bridges,

op.cit.,p.19.

97

) Cf.HM Treasury,History of the Treasury,Tudors and Stuarts,

http://www.hm-treasury.gov.uk/about_history/ (2007年10

21

日,閲覧

)。

(3)貴族院との関係:財政統制への参加からの貴族院の排除:1671 年と 1678 年「決議」

貴族院との関係についていえば, 国王への議定費譲与の権限は非常に早い時期 から 1 つの立法行為であり,貴族院の助言と同意が求められたのであるが,庶民 院が貴族院を財政統制への参加から排除するために採用した方法は, 「援助金と 議定費」法案をその他の法案から区別し,前者に関して貴族院に対する庶民院の 諸特権を主張してくることであった

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具体的にいえば,まず 1407 年,国王ヘンリー4 世は, The Indempnity of the Lords and Commonsと呼ばれる布告 ordinanceの中で,譲与金が「庶民院によっ て譲与され,そして貴族院によって同意される」こと,加えて「貴族院と庶民院 によって同意されたすべての譲与金についての報告は, これまで慣習化されたよ うな方法と形式で,すなわち,時の庶民院議長の発言によって,なされること」

を指摘していた

) 。

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しかし, 17 世紀になると庶民院はその譲与を単独で行うことを主張し始めた。

まず(1 )制定定式として, 1626 年,チャールズ1世の最初の議会で, (援助金 及び議定費法案に適用されてくる)制定する定式文句 formulaが導入された。そ れは庶民院が税を譲与したことを述べる,そして次に,その税が賦課されること が(その他の諸法のための制定の定式文句に従って) 「貴族院の助言と同意によ り」国王によって制定される等を述べるのである

) 。この段階では庶民院は譲与を貴族院の同意つきでおこなっ ていた。

100

続いて( 2)決議として,革命期における財政事項をめぐる両院間での闘争の

なかで, 庶民院が貴族院に対する庶民院の諸特権を一方的に決議=主張してくる。

) 。

まず 1671 年に,庶民院は「庶民院によって国王に与えられるすべての援助金 において,その率又は税は貴族院によって変更されるべきでないこと」を決議し た。続いて, 1678 年7月 3 日に,庶民院は, 「すべての援助金と議定費,及び議 会における陛下への援助金は庶民院の単独の贈与である;またこのような援助金 と議定費の譲与のためのすべての法案は庶民院で始まるべきであること;またこ のような法案で,このような譲与金の目的,対価,条件,制限を命じ,限定し,

指定することは庶民院の疑いのない単独の権利であり, それは貴族院によって変

98) G.F.M.Campion,op.cit.,pp.24-25.

99) Sir T.E.May,op.cit.,p.587.

100) G.F.M.Campion,op.cit.,p.25.

更されるべきでないこと」を決議した

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これらの決議によって基礎づけられた慣行によって,貴族院は,単に「国家の 支出あるいは収入を取扱う法案を先議する,あるいは修正する権能」からのみな らず, 「地方税 local and other rates の賦課により国民に対してある負担を創 出する,もしくはこの負担の管理ないし使用を取扱う[ 救貧法法案 Poor law billsのような]公法案 public billsを先議すること」からも排除され,このよ うな権能は「庶民院の特権」Commons' privilegesと見做されてくるのであ る

) 。

102

)

103

) 。

ドキュメント内 予算制度成立史研究 (ページ 78-82)