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1関

東朋之 「中世の民衆史 ―洛中洛外図屏風を手がか りに 一」歴史教育者協議会『 歴史地 理教育』No.705、

2006年

10月 pp.48‐51

2宮

原武夫 「歴史教育にお ける思考力の育成 ―模擬授業 「鎖国時代 のアイヌ」 」歴史 教育者協議会『歴史地理教育』No.552、 1996年9月 、

pp.76‑83

3東

京都教職員研修センター『 平成15年度教育研究員研究報告書』

2004年

pp.15‐

24

4同

上書p.18‐19

5同

上書 p.19‑20

6神

戸市立博物館、学芸課指導主事、山西潤氏にご教授頂いた。

7山

西潤氏に頂いた資料 より引用 したもの

8佐

藤廣『歴史教育における絵画史料の活用に関す る研究』兵庫教育大学大学院修士課程 学位論文、1994年

34

2章  

南 蛮屏 風 の意 義 と特 性

第 1節

 

南蛮屏風 の歴史的意義

南蛮屏風の研究 と絵画構成

まず、「南蛮」の概念 について明 らかにす る。「南蛮」 とい う言葉 は、中国にお ける華 夷思想 に基づいてお り、中国の支配 が及 ばない未 開な地域 における民族 は、方角 に よつ てそれぞれ東夷、西戎、南蛮 、北狭 と呼び分 け られていた。また、『 日本 大百科全 書』

では 「南蛮」 とい う言葉 は次の よ うに説 明 されている。

日本では古くは奄美大島から東南アジアにかけての地域をさしていた。史書に「南蛮」の語が 登場するのは、『 日本紀略』長徳三年

(997)10月 1日

の条が最初であるが、これは奄美人をさ している。その後、16世紀になつて、東南アジアを経てヨーロッパのカ トリック教国民が続々 渡来し、キリス ト教の布教や貿易活動を盛んに行ったので、いつ しか南 ヨーロッパのカ トリック 教国 (ポル トガル・スペイン)と、その植民地をさすようになった1。

つま り、「南蛮」 とい う概念 は時代 とともに変化 してい る と角翠釈す るこ とがで き、10 世紀 ころは奄美大島や東南アジア地域 を南蛮 と呼んでいたが、

16世

紀になってポル ト ガルやスペイ ンの人々が 日本 に訪れ るよ うになる と、ポル トガルやスペイ ンを、またそ

こに住む人々を 「南蛮」 も しくは 「南蛮人」 と呼ぶ よ うになった とい うことがわか る。

それでは一体、どの よ うなものを「南蛮屏風」 と呼ぶ のか。南蛮人が描 かれてい る史 料 には 「豊国祭礼図」や 「洛 中洛外図」な どがあるが、これ らの史料は 「南蛮屏風」に は含 まれ ない。坂本満氏 は、「南蛮屏風」 には主題 となるモチー フが存在 す るとし、そ の基本的 なモチー フにつ いて 「「南蛮」 のカ ピタン 。モールや商人、宣教 師たちの 日本 の港町での様子が描 かれ 、「南蛮寺」 と彼 らの乗 ってきた大型 の洋式帆船 も必ず描 かれ ている。」2と 述べている。坂本氏 と同様 に、塚本美加氏 も 「一般 に南蛮屏風 と呼ばれる 作 品は、 日本 を訪 れた南蛮船や南蛮人の様子、あるいは外 国の風景 を、日本人絵 師が 日 本 の画法で描いた屏風 を指す。」3と述べてお り、「南蛮屏風」 とは南蛮人 のみが描 かれ ていれば良い とい うわけではな く、南蛮船や交易の様子 、異国の商人や宣教師な どが描 かれてお り、日本 の港町 あるいは異国の様子が描かれてい るこ とが「南蛮屏風」に含ま れ る条件 と捉 えることができる。

現在 「南蛮屏風」は

90点

余 り存在す るといわれ るが、実際に調査が行 われたのは 60 数 点に留 まってい る4。その半数 以上が

17世

紀半ばの寛永期 の作例 と判断 されてお り、

それ らは町絵師によつて描 かれた と推定 されてい る。現存作例 の うち、もつ とも早期に 制 作 された とされ る 「南蛮屏風」は次 の四つであ り、

4人

の狩野派絵師に よつて描 かれ た屏風 に絞 られてい る。

早期 に制作 され た 四つの 「南蛮屏風」

i狩

野内膳筆 「南蛮屏風」0申戸市立博物館蔵

)・

・・・・

16世

紀末〜

17世

紀初頭

五 無落款 「南蛮屏風」(大阪城天守閣蔵)。 ・・・・・・ 。・

16世

紀末〜

17世

紀初頭

(様式か ら狩野光信・孝信周辺)

血 無落款 「南蛮屏風」(九州国立博物館蔵)。 ・・・・・・ 。

17世

紀前半

(様式か ら狩野孝信 とその工房)

市 無落款 「南蛮屏風断簡 」(個人蔵)・ ・・・・・・・・・・ 詳細な制作年代は不 明 鰈 式 か ら狩野永徳・宗秀周辺)

(泉

(2006)5ょ

り筆者 作成)

本 研 究 で取 り上 げ るの は、神 戸 市立博 物館 に所 蔵 され て い るiの狩野 内膳筆 の 「南蛮 屏 風 」で あ る。この史料 は 、「南蛮屏風」として多 くの教科書 に掲載 されてい る6。 ま た、

狩 野 内膳筆 の 「南蛮屏風 」 は

16世

紀末 か ら

17世

紀初 頭 に制 作 され た と推 定 され てお り、 日本 史 におい て この時期 は 「慶長期 」 にあた り「リヒ山時代 」 として扱 われ て い る。

こ こで 「南蛮屏風」 の制 作者 で あ る狩 野 内膳 について 、高見澤 忠雄 氏 の研究 7を 踏 ま えて述 べ てお く。も とも と内膳 の家柄 は画 工の筋 で はな く、摂津 の大名 で あ る荒 木 村重 とい う人物 に代 々仕 えた武 門の家 で あった。内膳 は幼名 を「久蔵 」 といい、狩野松栄 に 弟 子入 りしたの ちそ の才能 が認 め られ 、

18歳

の ときに狩 野 の姓 を許 され た。それ 以 降、

内膳重郷 と号 した こ とが 明 らか に され てお り、そ の後 、秀 吉 の御 用絵 師 と して数 々 の作 品 を生 み 出 してい る。神 戸 市 立博 物館 蔵 の 「南 蛮 屏風 」に は 内膳 の落款 がみ られ 、他 に 彼 の落款 印章 を もつ 屏風 作 品 は、南蛮屏 風

4点

の他 に 「豊 国祭礼 図屏風 」が よ く知 られ て い る8。 また 、南蛮屏風 にサイ ンを入 れ るのは 内膳 のみ で あつ たため、南蛮屏 風 は内 膳 が得 意 とす る作 品で あ つた とい われ てい る9。

「南蛮屏風」は、町絵 師 に よつて桃 山時代以 降 も江戸 時代初期 にか けて大量の模 倣作 や 変形 作 が生 み 出 され て い くが、そ の流 行 の背 景 と して成 澤勝 嗣 氏 は高見 澤氏 の研 究 を 踏 ま えて次 の よ うに述 べ て い る。

慶長期 に多彩な類型の出揃そろった南蛮屏風は、続 く元和期以降に大量の模倣作 と変形作を生 み出 してい く。流行の背景には、南蛮船イ コール財宝 を満載 した宝船、南蛮人は財福神、とい う よ うな現世利益を求める風潮のひろが りがあつたものと考えられる。高見澤忠雄氏が詳細な調査 で明 らかにされているように、南蛮屏風の発見地が堺、大阪、敦賀、金沢、高岡、山形 とい うよ

うな港町周辺の商家に多い とい う事実は、この画題が主 に海運 にたず さわる富裕 な新興市民層の 間で愛好 され るに至ったことを示唆 してい る10。

また、成澤氏 は、「南蛮屏 風」 の遺 品量 の多 さの背景 に は廻船 問屋や朱 印船貿易 業者 な どの水 運 業者層 の経済 的側 面 が反 映 してい るこ とを指 摘 してお り、時代 の変化 ととも

に「南蛮屏風」が調度品 としての役割 のみな らず 、縁起物 としての役割 も求め られ るよ うになつていた ことがわか る。

それでは、一体 「南蛮屏風」には どの よ うな ことが描 かれてい るのか。本研究で取 り 上 げる狩野内膳筆 の 「南蛮屏風」 を中心にその絵画構成 をみてい く。

「南蛮屏風」には主題 となるモチーフがあることは、坂本氏や塚本氏の先行研究 を踏 ま えて先述 した とお りである。 しか し、一 口に 「南蛮屏風」と言 つても全 く同 じ内容の 構 図が描 かれていたわけではない。成澤氏は泉万里氏の研 究 を踏 まえ、現存作例の うち、

慶長期 に制作 された初発的な絵画構成 を とる「南蛮屏風」を抽 出 し、大き く三つ に分類 しているH。

これ らは、時代 ごとではな く「画面が どこを舞台に しているか」に着 目して分類 が行 われてい る。A・

B類

は慶長期 に正統的な画家である狩野派 によつて描かれたものであ るが、

C類

は 日本 のみを舞 台 とす る構成 となってお り、この

C類

がのちに圧倒的 な量の 継承作品を生み出 した とされ てい る。本研究で読み解 く「南蛮屏風」は、

B類

の 「日本 と想像上の異国 とを組み合 わせ る図様」に含 まれ てお り、右隻 に 日本の様 子、左隻 に想 像 上の異 国の様子が描かれ てい る13。

 

それでは、両隻 にはそれ ぞれ どの よ うな ことが 描 かれてい るのか、人物 ともの (建物や交易の様子

)の

視 点か らみてい く。

)右

隻 。人物

まず は右隻 に描 かれてい る人物 に着 目す る。右隻 には、南蛮船 が入港 し異国の商人が 日本 の港町 に向か う様子 が描 かれてい る。この異 国の商人 はポル トガル人 を表現 してお り、その中で も一際 目を引 く人物がみ られ る。その人物 は、集団の先頭 を歩 き、従者 に 傘 を差 しかけ られ、上下朱色の衣服 に金糸 のデザイ ンが施 された黒色のマ ン トを身に纏 つてお り、カ ピタン

=モ

ール と称 され ている。 この人物 は南蛮船 の船長 であ り、「南蛮 屏風」には、傘 を差 しかけ られて集 団の先頭 を歩 くカ ピタ ン

=モ

ールの様子が必ず描か

初発 的な南蛮屏風 の絵画構成 とその分類

分 類

初発 的な絵画構成 の図様 とその南蛮屏風

A類

日本 と唐 とを組み合 わせ る図様

(大阪城天守 閣本 。九州 国立博物館本)

B類

日本 と想像上の異 国 とを組み合 わせ る図様

(神戸市立博物館本A(内膳本)。所在不明(笠原家 旧蔵

)本 0サ

ン トリー美術館本)

C類

日本のみ を描 く図様

(南蛮文化館本

A・

宮 内庁三の丸 尚蔵館本 。個人蔵(ギネ ッ ト家

)本

・個人蔵

(K

)本

。個人蔵

(T刻

本体口歌 山・雲蓋院 旧蔵村 )

(成澤 (2008)12ょ り筆者作成)

れてい る。ズボ ンが膝下丈であることや、マ ン トを身に着 けてい る様子、また社会 的地 位 を表す傘や天蓋 がセ ッ トで描 かれてい ることか ら、カ ピタン

=モ

ールが上位 の身分で

あつた ことがわか る14。

また、ポル トガル商人 の服装 に着 目す ると、赤や緑 とい つた鮮や かな色合いや変 わっ たデザイ ンを してい ることが読み取れ る。当時、ヨー ロ ッパで流行 していた襲衿や マン ト、上衣 な どの服飾 はスペイ ンを発祥地 とす るものであった。 それ らの服飾 の中には、

武 将や大名 な どの遺 品 として現代 にまで受 け継 がれてい るもの もあ り、考古史料や文字 史料、さらには絵画史料 な どに残 されてい る記録 か ら、日本 において も装衿やマ ン トと いった コー ロッパ風 の月艮装が流行 していた ことが明 らか となってい る15。 さらに、商 人 の中には眼鏡 をかけている人物 が描 かれている。当時の 日本 には、眼鏡 の代用 品 とな る物 はすでに存在 していた よ うだが、屏風 に描かれ てい る南蛮人 がかけてい るよ うな眼 鏡 は存在せず、「南蛮屏風」にわ ざわざ眼鏡 をかけている人物が描 かれてい ることか ら、

当時の人 々に とつて南蛮人 が 日本 に伝 えた物 の 中で も眼鏡 は特 に印象的 なもので あっ た ことが推測できる16。

商人の他 にも、黒いマ ン トに黒帽のイエズス会士や、裸 足で褐色 の衣月及や縄紐 の帯を 身 に纏 つているフランシス コ会± 17な どが描 かれ てお り、港町で商人 を出迎える様子 が描 かれ ている18。 フランシス コ会士は、文禄元年

(1592)こ

ろか ら日本布教 に参加 した とされ、彼 らの服装 は極 めて粗末 な ものであったこ とが「南蛮屏風」か らも読み取 れ る。この人物は、三つの結び 目のついた縄帯を腰 に巻いてい る。この結び 日は「清貧・

純潔・従順」のシンボル といわれ てお り、内膳 は このよ うに細かな特色 を詳細に表現 し てい る19。

「南蛮屏風」に描かれ る人物の中には、肌の色 が ヨー ロッパ人や 日本人 とは異 な り、

カ ピタン

=モ

ール に傘 を差 しか ける者や荷物 を運ぶ者 、船 の上でアクロバ ッ トに動 く様 子 が描かれ てい る者 がみ られ る。これ らの人物 は奴隷 を描 いたものである とされ 、特徴 的であるのは顔 の表現である。泉万里氏 は、この人物たちの顔 を「ジャガイモの よ うに 凹凸のある丸い顔 で、鼻筋 は短 く、小鼻が横 に大 き く張 り出 した典型 的な昴

T子

鼻である。

眉毛は薄 く、髪 の毛 と同 じ茶色 で描 かれている。眼はやや釣 りあが り気味で、中央 に単 色 の瞳が点 じられ ている。日は「へ」の字 で 白い歯 が

2本

、獣の牙 のよ うに出てい る。」

20と 表現 している。彼 らが実際にそのよ うな顔ではなかつたことは容易 に推測で きる。

しか し、「南蛮屏風」 にこのよ うに野蛮 な印象 を与 える表現 で描 かれてい ることか ら、

彼 らに対 して当時の 日本人 が畏怖 の念 の よ うな ものを抱 いていたのではないか と考 え られ る。 も し、好意的な印象 を抱 いていれ ばこの よ うな表現は しないであろ う。

次 に、右隻 に描 かれてい る 日本人 に着 目す ると、商人や 宣教師 といつた異国の人 々よ りも圧倒 的にその数 が少 ない ことが読み取れ る。港町にお ける店 の暖簾か ら顔 を出 しポ ル トガル商人の様子 を興味深 げに眺める者や、店 の前で商人一行 を眺める

6人

の 日本人

が右隻 の右端 に描 かれてお り、画面の中央部分 には

2人

の子 どもが描かれ ている。南蛮