第 5 章 地域格差に対する意識:世帯データを用いて
3. 計量分析
(1)推計式
さて、具体的に仮説を検証するためには、世帯データを用いた回帰分析が必要であ る。
格差への問題意識を計量分析した先行研究には、2002年における日本のミクロデー タを用いて、格差意識を推定した大竹(2005)が挙げられる。大竹は、事実認識と規 範的評価の対応関係をみるため、被説明変数に「所得格差の拡大は問題だ」に肯定的
なら1、そうでないなら0としたプロビット推定を行った。説明変数には、個人属性、
世帯所得の階層のほか、危険回避度、貧困者増大の認識などを加えているのが特徴で ある。分析の結果、格差の拡大に批判的なのは、女性有業者、危険回避的な人、貧困 層増大を感じている人、逆に格差拡大を容認する傾向にあるのが、高学歴者、富裕層、
大都市圏在住者であった。
トンネル効果をアイデアに用いた計量分析もみられる。例えばRavallion and Lokshin
(2000)は、上昇移動への予測というトンネル効果のアイデアを用いて、1996年のロ シアの所得分配政策を支持する人の属性を計量分析した。再分配政策によって生活水 準が向上すると予想する人、変化なしと予想する人、低下すると予想する人、これら 三つにサンプルを分けて推計式を三つたて、政府の所得再分配政策への支持を被説明 変数としてプロビット推定をした。説明変数には、個人・世帯・地域の属性のほか、
現在の厚生水準、消費の変動、政治意識を加えている。結果を簡単にまとめると、将 来所得が上昇・変化なしと期待を抱いている人が再分配政策に反対しているという。
本論文の推計式は、トンネル効果のモデルを基本とする。Hirschman and Rothschild
(1973)によれば、 期における個人 の効用 は、 を準拠集団、 を所得、 を所得 増大の期待とすると、次のように表わされる。
UA , , 5.1
, 5.2
ただし 0, 0である。所得増大の期待は と に依存する。格差が拡大した場
合、すなわち準拠集団の所得が増大したとき、
108
5.3
となり、トンネル効果が存在する場合 ⁄ 0である。 0の場合、準拠集 団の所得上昇に対する妬みが存在する。
しかし現実には、個人の効用や、格差拡大に対する意識は、個人の属性に大きく影 響される。そこで先行研究と同様に、世帯所得のほか、年齢、性別、教育水準、職業 の個人属性を加える。さらに中国農村の特殊性をコントロールするために、共産党員 ダミーと出稼ぎ経験ダミーを加える。共産党員は村の政治問題により敏感であるだろ うし、出稼ぎ経験があれば都市農村間の所得格差の大きさを実感しているからである。
また大竹(2005)では貧困層増大を感じている人は格差拡大に批判的であったため、
同様の変数を加える。ただし農民は危険回避的であると予想されるため、この説明変 数は加えない。
トンネル効果が作用する範囲に応じて、以下の推計式をたてる。
推計式(1) ∆ ∑ , 1, 2, ⋯ ,
推計式(2) ∆ ∆ ∑ , 1, 2, ⋯ ,
推計式(1)の は、都市農村間の所得格差拡大を受容することを意味する被説 明変数であり、「都市農村間の所得格差の拡大を問題視している」という質問に、「肯
定」を1、「やや肯定」を2、「どちらともいえない」を3、「やや否定」を4、「否定」
を5とした。
前述したように、都市農村間ではトンネル効果が発揮されないため、樊綱が主張し ている「所得水準が絶対的に上昇しているため、格差への不満はそれほど大きくない」
という概念を推計式とする。すなわち、自分の所得の絶対的増大の認識を意味する説 明変数∆ を加え、それは「去年との所得の変化」という質問に、「大幅減少」を 1、
「少し減少」を2、「変化なし」を3、「少し増大」を4、「大幅増大」を5としている。
∑ は個人の属性(世帯所得対数値、年齢、女性ダミー、受教育年数、無職家事ダミ ー、共産党員ダミー、出稼ぎ経験ありダミー、貧困者・失業者・失地農民の増大認識 のダミー)、収入変化の理由(旱魃、価格変化、出稼ぎ)、そして村ダミーである。
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表5.5 基本統計量
平均 中央値 最大値 最小値 標準偏差
都市農村間所得格差拡大受容ダミー 0.271 0 1 0 0.446
村内所得格差拡大受容ダミー 0.424 0 1 0 0.496
所得増大の認識ダミー 0.259 0 1 0 0.439
村内他世帯所得の上昇 -0.036 -0.038 0.414 -0.416 0.219
所得減少の不安なしダミー 0.459 0 1 0 0.500
年齢(年) 50.847 52 74 19 10.515
女性ダミー 0.365 0 1 0 0.483
教育水準(受教育年数) 4.835 5.5 13 0 3.513
無職・家事ダミー 0.071 0 1 0 0.257
共産党員ダミー 0.159 0 1 0 0.367
出稼ぎ経験ありダミー 0.265 0 1 0 0.442
現在の世帯所得(自然対数値) 9.010 9.135 11.648 3.781 1.000
貧困者等増大の認識ありダミー 0.147 0 1 0 0.355
出所)四川農村調査の資料より筆者作成。
注)対象は2006年における江油市170世帯。数値が整数の場合は小数点以下を表記していない。
(2)式は は村内世帯間所得格差拡大を受容することを意味する被説明変数で あり、トンネル効果を前提とした推定式としている。すなわち、∆ は自分の所得増 大、∆ は前年に対する準拠集団(村民)の所得の絶対的増大を意味し、回答者世帯 を除いた村平均所得の上昇率とした。そして は所得増大の期待であり、「今後 2年、
自分や家族の所得減少や失業の可能性が大きい」に「肯定」を 1、「やや肯定」を 2、
「どちらともいえない」を3、「やや否定」を 4、「否定」を5とした。
自分の所得の絶対的増大によって格差拡大を許容する(樊綱説)なら 0、 0、
0である。準拠集団の所得増大に妬みを感じ格差拡大に不満を感じるなら 0、
トンネル効果が効いているなら 0である。
用いるデータは 2006 年における江油市農村世帯、サンプルサイズは 170 である
(n=170)。順序プロビットで推定を行う。なお変数の基本統計量は表 5.5に記した。
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表5.6 推定結果(1)都市農村間所得格差を受容する
出所)筆者作成。
注)順序プロビットで推定。表中の数値は係数、かっこ内の数値はP値。それぞれ***は1%、**は5%、*は
10%の有意水準で係数が0であるという帰無仮説が棄却される。被説明変数は「都市農村間の所得格差の拡大
を問題視している」という質問に、「肯定」を1、「やや肯定」を2、「どちらともいえない」を3、「やや否定」
を4、「否定」を5とした。Cutは閾値。
(a) (b) (c) 自分の所得増の認識 -0.093 (0.248) -0.285 (0.004)*** -0.129 (0.147) 世帯所得対数値 0.054 (0.586) 0.085 (0.415) 0.074 (0.469) 年齢(年) 0.007 (0.506) 0.004 (0.687) 0.002 (0.826) 女性ダミー -0.195 (0.391) -0.332 (0.160) -0.296 (0.217) 受教育年数 -0.020 (0.547) -0.035 (0.315) -0.027 (0.435) 無職・家事ダミー 0.465 (0.160) 0.499 (0.144) 0.447 (0.192) 共産党員ダミー -0.162 (0.522) -0.335 (0.203) -0.171 (0.507) 出稼ぎ経験あり -0.364 (0.101) -0.541 (0.020)** -0.457 (0.047)**
貧困者増の認識 0.007 (0.936) -0.042 (0.618) 0.014 (0.868)
干ばつ -1.015 (0.000)***
価格 0.665 (0.020)**
出稼ぎ 0.149 (0.595)
YZ 村 -0.758 (0.044)**
ZX 村 -0.656 (0.060)*
HE 村 -0.320 (0.376)
ME 村 -0.118 (0.746)
FC 村 -0.238 (0.485)
GF 村 -0.488 (0.174)
Cut1 0.465 (0.685) -0.410 (0.734) -0.130 (0.912) Cut2 0.989 (0.389) 0.177 (0.883) 0.411 (0.726) Cut3 2.247 (0.054)* 1.597 (0.192) 1.723 (0.146) Cut4 2.752 (0.020)** 2.204 (0.075)* 2.239 (0.062)*
Pseudo R-squared 0.025 0.100 0.044 対数尤度 -186.843 -172.480 -183.172
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表5.7 推定結果(2)村内世帯間所得格差を受容する
(a) (b) (c)
自分の所得増の認識 -0.073 (0.356) -0.191 (0.040)** -0.057 (0.500) 村他世帯所得増 -0.908 (0.024)** -0.728 (0.078)*
所得減少の不安なし 0.200 (0.011)** 0.164 (0.042)** 0.177 (0.031)**
世帯所得対数値 -0.073 (0.421) -0.060 (0.516) -0.051 (0.588) 年齢(年) 0.012 (0.229) 0.009 (0.383) 0.006 (0.546) 女性ダミー -0.088 (0.688) -0.114 (0.607) -0.173 (0.447) 受教育年数 0.016 (0.590) 0.015 (0.621) 0.009 (0.785) 無職・家事ダミー 0.632 (0.050)* 0.701 (0.033)** 0.661 (0.047)**
共産党員ダミー -0.221 (0.362) -0.380 (0.127) -0.241 (0.327) 出稼ぎ経験あり 0.078 (0.708) -0.009 (0.968) 0.002 (0.994) 貧困者増の認識 0.016 (0.838) 0.002 (0.976) 0.035 (0.662)
干ばつ -0.893 (0.000)***
価格 0.018 (0.950)
出稼ぎ -0.328 (0.224)
YZ 村 -0.860 (0.015)**
ZX 村 -0.872 (0.007)***
HE 村 -0.464 (0.176)
ME 村 -0.428 (0.220)
FC 村 -0.581 (0.072)*
GF 村 -0.817 (0.017)**
Cut1 0.090 (0.933) -0.770 (0.483) -0.638 (0.568) Cut2 0.553 (0.603) -0.272 (0.804) -0.159 (0.887) Cut3 1.470 (0.170) 0.693 (0.530) 0.785 (0.484) Cut4 2.202 (0.041)** 1.454 (0.191) 1.511 (0.181) Pseudo R-squared 0.039 0.075 0.051 対数尤度 -227.432 -218.892 -224.634 出所)筆者作成。
注)表5.6を参照。
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(2)推計結果
(イ)推計式(1)「都市農村間の所得格差拡大を受容する」
推計式(1)の結果は表 5.6 にある。所得変化の理由ダミーをとった場合(b)、所
得増大の認識が負に有意に効いていることがわかる。つまり、自分の所得が上昇した 人は、格差拡大を問題視するといえよう。一見すると矛盾しているように思えるが、
旱魃ダミーが負に、価格ダミーが正に有意であること、2006年に四川省に大干ばつが あり、食料生産物価格が下落し、回答者の半数の収入が減少したこと(表 5.4)を考 慮すると、そうした中で収入を上昇させた人は、妬まれる恐れがあるため、かえって 所得格差問題を懸念していると考えられる。
続いて、所得変化の理由ダミーと、村ダミーをとった場合(c)をみると、出稼ぎ経 験者は、都市農村間の所得格差拡大に批判的であることがわかる。出稼ぎ経験者は都 市での居住・労働経験があるため、格差を実感しているためだと考えられる。
(ロ)推計式(2)「村内の所得格差拡大を受容する」
表5.7は式(2)の推計結果を表している。やはり(1)式と変わらず、旱魃ダミー が有意に効いている(b)の場合において、自分の所得増大の認識が有意である。村 民が所得を減少させている中、所得を増大させると仲間である農村住民から嫉妬され るため、格差拡大を問題視しているのである。
準拠集団の所得増大(村内の他世帯の所得増大)は負に有意に効いているので、農 民は同じ村民の経済的成功によって妬みを覚え、格差拡大を不満に感じることがわか る。ただし、村ダミーを加えた(c)の場合では、ほとんど同じ意味をもつ「村内の他 世帯の所得増大」を除外しているが、7つ中 4つの村が負に有意に効いている。これ は、村単位で格差を問題視する人の割合が極端に異なっていることを意味する。村ご とに干ばつの被害の差があるか、あるいは所得格差に大きな違いがあるか、所得分布 に構造的な問題があるのあか、標本からはわからない理由が存在している。
所得増大の期待(所得減少の不安なし)は格差拡大の受容にプラスの効果がある。
つまり将来の自分の所得増大に明るい期待を持っている人は、村内の所得格差拡大を 受容する傾向がある。所得増大の期待が何によって説明されるのか、この推計式から は不明であるが、トンネル効果が効いている可能性がある。
なお無職・家事ダミーは正に有意に効いており、労働との繋がりが希薄な人は格差 拡大を受容する傾向がある。