第二章 舞台で演奏されるベッリーニの音楽
第三節 舞台で演奏するために
第一節と第二節において、博士リサイタル本番において実際にどのような問題が起き、
またどのような判断が必要となったかを考察した。ここで、本番において実際に聴衆の前 で演奏するために歌い手がどのようなことに取り組み、準備しておくべきなのかを振り返 り、まとめておきたい。これらは実際に本番を経験することによって、実践しておくべき だったという反省点などを含め、筆者が歌い手に必要な要素であると考えた事柄である。
まず、本番までに考えられる声との向き合い方について考えていくこととする。歌い手 にとって声は消耗品なので、日頃から練習時間をどのくらい設定するのかを考えなければ ならない。結論から述べると、長時間練習をすれば良いというわけではない。一日に何時 間練習を行うのかは個人によってさまざまであるが、短い時間で実りある練習ができるな らそれに勝るものはないだろう。そのためには、実際に声を出すことによって行う実践だ けではなく、その前にテキストやドラマ、楽譜に書かれていることを隅々まで理解するた めの時間はもちろん、ブレスに対する実践的な取り組みも重要である。また、新しい曲と 向き合った場合の取り組み方も重要であり、音符の流れを身体に取り入れることとテキス トを取り入れることは同時進行であってはならないと考える。テキストを目で追いながら 書かれている音符を音にしているとき、これまで述べていたような母音の良い響きまで意 識することはできず、この作業は喉に負担のある歌唱となってしまう可能性が高い。新し い楽曲に向き合う場合にはまずハミングや母音唱などでしっかりと音符の流れを理解し、
その音符の流れから生まれる旋律の魅力を身体で理解することが大切である。その作業と は異なる作業としてテキストを読み、理解し、台詞のように滑らかにテキストを口にする ことができるまで何度も繰り返し目を通すことが大切である。そしてそのあとに、音符の 流れから生まれる旋律に、表現するブレスにまで理解の行き届いたテキストを乗せて歌唱 するという段階を踏むことが望ましいと考える。ここで取り上げておきたいことがレチタ ティーヴォについてである。レチタティーヴォは音符の流れに比較的高低差がなく、音符
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を理解する作業とテキストを理解する作業を同時に行ってしまうことが多いけれども、こ れは間違いである。レチタティーヴォでは、何よりまずテキストを理解することが大切で あり、テキストをリズム通りに読むことで、書かれている音符のリズムが生まれるのだと 指導される。レチタティーヴォはイタリア語の辞書によると、「Recitativo 朗読の、叙唱」
と書かれており、「Recitare 演じる、朗読する、叙述する」から派生している。このこと からも、「歌う」という概念より「演じる、語る」という概念が優先されるべきであること が分かる。
また、暗譜をするために繰り返し歌唱する人も多いと思うけれども、この実践には注意 が必要である。筆者も何気なく口に出して暗譜をしていたけれども、この作業は無意識に 声を消費していることが多かった。身体やポジションのバランスが保たれた状態で発声し ているわけではないので、歌唱のための練習として時間を設けている場合よりも、喉にか かる負担が増える可能性がある。暗譜のために声の疲労が進み、共演者とのリハーサルの 時間を犠牲にしなくてはならない状況は、あるべき事態ではない。筆者の経験から、暗譜 に必要な実践として考えられるのは、まずテキストの意味を理解すること、そして理解し たテキストを頭の中で何度も反復することである。実際に口に出して音にすることなく、
頭の中で繰り返すだけでも十分な効果が得られるため、声の消費を避けるためにはぜひ身 につけるべき実践方法であると考える。
次に歌い手の悩みの一つである、当日のリハーサルについて考えていきたい。コンサー トなどで一曲や二曲を演奏する際に、ピアニストと本番さながらに確認することはよくあ ることである。けれども、オペラ一作品を本番前にすべて演奏するというのは、あまりに もリスクを感じてしまうだろう。このように、本番に最も良い演奏をするためのリハーサ ルとして求められるのが、声の温存である。ピアニストと自分の中でのリハーサルである ならば、曲を途中で割愛するなどという選択肢も考えられるけれども、オペラでは指揮者、
オーケストラ、共演者、照明や舞台セット転換、字幕スタッフなど、多くの人間がそのリ ハーサルに携わっている。これらの人々が携わっている中で行われるリハーサルの中で、
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本番に向けて最も良い演奏ができるよう準備するためには、「本番さながらの表現」と「本 番へ温存する歌唱」を共存させなければならない。どの箇所をオクターヴ下げて歌うのか、
ブレスやポジションの確認ためにしっかりと歌っておく箇所はあるかなど、事前に考えて おくことは大切である。また、オクターヴ下げて歌唱することによって表現のエネルギー まで小さくなってしまった場合、もはや本番を見据えたリハーサルとは言えない。オクタ ーヴ下げて歌唱したとしても、ブレスや息づかいが本番と同じように行われている歌唱の 場合には、表現のエネルギーは維持されたままなのである。筆者は当日のリハーサルであ れば基本的にはすべて音量を抑えて歌唱する。また、五線よりも上の音(二点ト音以上の 音)はほとんどの場合オクターヴ下げて歌唱する。けれどもここで注意すべき点は、口の 中の空間や身体の支えに関しては本番同様の取り組みを行うということである。第二章第 二節においても述べたけれども、声の節約を考えたときに声帯の緊張と弛緩のバランスが 崩れてしまうことが最も起こってはならないことであり、声を節約する場合には、喉の負 担にならないようにあらゆる筋肉がより意識的に動かされるべきである。
声の節約とは違う観点で、もう一つ舞台で演奏するために取り組んでおくべきことがあ る。それは「表現者としての準備」である。とある演出家の先生が「多くの歌い手は歌う ことに関して時間をかけて勉強する。では演じること、また舞台に存在することに対して 時間をかけて勉強している歌手はどれだけいるだろうか」とおっしゃったとき、筆者は言 葉を失った。楽譜を読み、テキストを読み、音として表現することには多くの時間を費や していたけれども、その人物として立つ、歩く、座るなどといった考察にほとんど取り組 んでいなかったのである。『歌劇においては人の心を感動させて涙を誘うもの、または恐ろ しい感じを引き起こさせるもの、あるいは死の感情を誘い起こさせるものは、すべて歌で ある』37という言葉の通り、もちろんオペラは音楽あってこその舞台芸術であり、歌唱に よってあらゆる表現は伝えられなければならない。けれども、オペラが限りなく視覚的要 素を含む音楽芸術であるならば、歌唱によって伝えられる表現を妨害する視覚的要素はあ
37 オーリイ、レズリイ『ベッリーニ――生涯・ 芸術・ 作品』 146頁。
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ってはならないとも考えられる。当時の歌い手が視覚的要素や演技においてどうような評 価を受けていたかについて、レズリイは次のように述べている。38
当時のあらゆる評価から見て、これらの歌手たちは演技の点でも、その演唱技術と 同様、正に最上級のものであったらしい。 …(中略)… 少なくとも今日の通念か らすれば、彼らの持ち役を余りにも芝居気たっぷりに演じたのかも知れないが、当時 は悲劇の俳優や女優たちが、実際以上に偉大視されていた時代であった。
このように演唱技術と同様に演技の点も十分に評価されるべき点として考えられていたの である。そのような観点で考えられたとき、舞台の上で行われる動作一つ一つにおいて、
歌い手は意思をもって取り組まなければならない。座るという動作一つを取り上げても、
なぜそこに座るのか、どのようなスピードで座るのか、どの向きで座るのか、座ったとき の重心はどこにあるのかなど、考えるべきことはいくつも存在する。舞台上での動き一つ 一つにこのような考えを巡らせていると、そこにはすべてが計算された動きで埋め尽くさ れた表現が生まれてしまうだろう。けれども、舞台に上がる前にそれらの要素に向き合う ことによって、その役にはふさわしくない要素を取り除くことができるのである。歩くと きの癖、座るときの癖、手の動きの癖など、歌い手にはさまざまな癖が存在する。それら が意識されることなく散りばめられた表現は、舞台に集中する聴衆にとっての妨害になり かねない。舞台の上では、指先の動きや目線のちょっとした動きでさえも、繊細な音楽と ともに表現を伝える材料となる。しかし、それらは実際に演奏しているときに意識するに は限界のあることが多い。舞台の全体の空間におけるセット、照明、共演者との関係につ いては、舞台を客観的に眺めるしか方法がない。これらの問題に取り組む際に筆者が行う ことは、録画することである。ビデオを撮ることについては積極的な人とそうでない人が いる。というのも、映像を自分で確認することによって同じことを繰り返すだけの表現に
38 オーリイ、レズリイ『世界オペラ史』加納泰訳、東京:東京音楽社、1991年、225頁。