第二章 舞台で演奏されるベッリーニの音楽
第一節 《カプレーティ家とモンテッキ家》の音楽
聴衆を前にしてまず練習時と異なることは「身体の状態」と「無音」の感覚であった。
演奏家ではなく、スポーツ選手なども同様の感覚を体験することとは思うが、本番の舞台 には緊張という現象が起こる。この緊張によって、精神状態においても身体の状態におい ても変化が生じている。精神状態は聴衆の前で歌う経験を何度か積むことによって、良い 方向へと変化していくように感じる。「頭が真っ白になった」などという演奏はそう何度も 続くことはなく、徐々に集中力は増して日頃の練習では味わうことのない感覚を掴むこと が可能となる。けれども、精神状態の変化に伴う身体の状態の変化だけでは、歌唱にふさ わしい状態にまで緊張した身体を緩めることは困難である。まず身体の緊張によって頻繁 に起こる現象は、さまざまな筋肉が強張り横隔膜を引っ張る筋肉も柔らかく動かすことが できにくくなるため、浅いブレスとなってしまうことである。また首や胸のあたりにも力
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が入ってしまい、しっかりと支えられた発声ではなく、顎や喉をしめて高い音を出すよう になってしまう。このことはすべて声帯の疲労へとつながり、充血した声帯では低い音で 声が鳴らなくなってしまい、さらに力を加えて低い音を歌うという悪循環へとつながって いくのである。このような連鎖を防ぐためにも、まず身体の状態を日頃の歌唱時と近い状 態へ調整することを心がけるべきである。また「無音」についてだが、日頃の練習時の歌 唱に比べて、ピアノの音のない無音の時間は緊迫感が全く異なるものであり、身体での感 じ方も大きく変化していた。実際にジュリエッタのロマンツァの歌い出しの<Eccomi>に おいて変化がみられた。歌唱のための準備として横隔膜を柔らかく引っ張りブレスをとる 動作を行ったが、聴衆を意識することによってその動作にどこか力が入ったものとなって しまったのである。フェルマータが書かれているかのように歌い出しの前の休符を十分す ぎるほどに意識して、無音の緊張感を表現に取り入れたつもりだったが、本番後に聴衆と して自身の音源を確認したとき、その無音は決して長いものではなかった。舞台上で歌手 の感じる時間の流れは聴衆とは異なるものである。聴衆を前に一人で向き合う舞台の上の 歌い手にとって、最も怖いものは「無音」ではないだろうかとさえ感じる。そのような「無 音」に対する恐怖もあって、はじめに述べた身体の緊張が日頃の歌唱よりも浅いブレスを 引き起こしていた。ブレスに関して、コーネリウスは次のように述べている。25
訓練中に、例えば妨害する緊張を壊そうとする時、その目的を達成するためにしば しば極端な努力が必要とされ、息の損失は一瞬過剰であるかもしれません。
喉が締め付けられている時に長いフレーズを歌うことは、技法的にも美学的にも望 ましくありません。歌うことを学んでいる時には呼気損失はしばしば極めて高いでし ょうが、どのように歌うかを学んでしまったら、それは常に低いのです。
25 リード、コーネリウス『声楽用語辞典――コーネリウス・ リードによる解剖と分析』 41 頁。
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ここでも、緊張によってブレスが浅くなってしまうことはあり得ることであると述べられ ている。その結果、ブレスをとることなくフレーズを歌いきることが確実ではない箇所に おいては、ほとんどの場合においてカンニングブレスをとってしまった。このような経験 がある演奏家は筆者の他にも存在するかもしれないが、その場合に重要なのは二つの選択 肢から自分の歌唱を決めることである。まず一つ目は「ブレスを取ることなくフレーズの 最後まで歌い切る選択」、そしてもう一つは「フレーズを最後まで確実に歌い切ることを優 先して、カンニングブレスを取る選択」である。練習時にブレスが足りなくなる予感がし た場合に、ブレスを取らずに歌唱してみると実際にはまだ余力があり、歌い切ることがで きたという経験はある。実際にブレスが足りないと感じた箇所から、腹部を横へ張り出す ような意識で筋肉を動かすことで、ブレスを保つことができたのである。けれども、この 場合には身体が痙攣しているかのような動きとなり、視覚的に歌唱の邪魔となっている可 能性がある。また本番でこの腹部を横へ張り出すような動作を行うことによってブレスが 十分に保たれる確実性はなく、万が一ブレスが足りなくなった場合には途切れたような不 自然な歌唱となってしまう。「ブレスを取ることなく最後まで歌唱する」という選択をした 結果、ブレスが足りなくなり途切れたような歌唱になってしまった場合には「カンニング ブレスを取るべきだった」という視点になるのである。筆者は「ブレスを取ることなく最 後まで歌唱する」という選択にはリスクを感じるため、多くの場面において「フレーズを 最後まで確実に歌い切れるようカンニングブレスを取って歌唱する」という選択をしてし まう。結果的に大きな失敗とは捉えられないので、その瞬間の歌唱の質を第一に考えれば おそらく正しい選択といえるだろう。けれども、この後者の選択から前者の選択へと切り 替えることは勇気を必要とする。個人差もあるだろうが、聴衆を前にして緊張感に包まれ た中で演奏する機会は、あまり多くはないだろう。その中で前者の選択をするということ は、一つの「本番力」といえるではないだろうか。けれども、歌い手はこの選択肢に関し て、準備をすることなくその場で乗り越えるしかないわけではない。「ブレスが足りなくな るかもしれない」という可能性がわずかにでも存在するフレーズに関して、足りなくなっ
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た場合にはどの箇所でカンニンブレスをとるのか、あらかじめ考えておくべきである。ま ったく想定していなかった場合には言葉の途中でブレスをとってしまったり、不自然な箇 所でブレスをとってしまったりするけれども、事前に決めておくことによって解決できる ことである。また「カンニングブレスをいかに分からないようにとるのか」というのもあ らかじめ取り組んでおけることである。このブレスの問題は、「身体の緊張」という問題だ けではなく、「身体のコンディション」の問題に置き換えても同様のことが考えられるだろ う。歌い手は必ずしも本番に最も良いコンディションで舞台へ上がれるとは限らない。咳 が出る中で演奏しなければならない場面も存在し得るのである。そのような状態で普段通 りの演奏を試みることと、その日のコンディションに合わせた歌唱をその場で選択して演 奏することのどちらが正しい選択かは、多くの歌い手が後者だと答えるだろう。このよう な場面を考えるならば、日頃からさまざまなコンディションに合わせていくつかの歌唱を 考えておくことの必要性が明瞭になってくる。
次にブレスの長さではなく、ブレスの種類に注目する。まず提示しておくことは、歌唱 のためのブレスが聴衆へ聞かれないことは望ましいことであるという概念である。鼻で勢 いよく息を取り入れることによって雑音を発しながら歌唱することは、聴衆にとって心地 よいものではない。鼻呼吸に関してコーネリウスは次のように述べている。26
静かな呼吸の間には自然に起こっているにも拘らず、鼻呼吸は様々な理由から歌唱 において実際的ではありません:
1.息の吸い込みに過剰な努力が必要とされる。
2.それは、ある人々が信じているように、“咽頭の共鳴器群を開く”ことはない。
3.それは時間がかかり過ぎる。
4.それには雑音が入る。
5.それは胸を緊張させ、持ち上げる傾向がある。
26 同前、51頁。
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6.それは、息を吸い込む間に動かし始められた呼吸器の器官が、発声のための調節 を素早く容易に行うため、遅れずにもとの状態に戻ることを妨げる。
歌唱のためのブレスの中では嗚咽のように呼吸の音を取り入れる表現が考えられるが、こ れは鼻呼吸による雑音とは異なるものと解釈する。あくまで表現のブレスであり、それは 歌唱のための安定したブレスと共存し得るものであると考えるからである。けれども、歌 唱のための安定したブレスが聴衆へ与える印象とは「意思・理性」のある歌唱であり、あ まりにも「意思・理性」が散りばめられた歌唱に「感情」を感じることはできない。筆者 はすべての音をよい響きで歌唱することに意識が集中していたために、筆者の演奏は歌唱 のための安定したブレスだけを意識し、「感情」を押し殺した歌唱を感じさせるものとなっ てしまったのである。これらのブレスと感情との関係について、コーネリウスは以下のよ うに述べている。27
発声はしばしば自然な呼吸の通常の満ち引きを邪魔します;何故ならば、歌唱にお いては、音声の持続は長い時間の間、狭められた声門の位置が維持されていることを 必要とするからです。この狭められた位置は、情緒の関わりの程度に関係なく、一定 のままでなければなりません。結果として、抑制されることのない情緒は声帯の緊張 性を失わせ、従って適切に接近することが出来る可能性を奪い取ってしまいます。そ れゆえ、二つの極めて重大な分野において、自然発生的な情緒はしばしば歌い手の発 声上の関心に逆らって働く可能性があります:すなわち、それは落ち着いた呼吸法及 び声門の空間を閉じる調整過程の両方を乱すことがあるでしょう。 …(中略)… す べての情緒の過程は、横隔膜及び関連する呼吸に携わる筋肉群を刺激し、喉頭を動か します。横隔膜、呼吸器官、喉の器官に対する過度の刺激は、歌い手が耐えられない 身体的コントロールの崩壊(breakdown)を引き起こします。
27 同前、53頁。