第 4 章 戦後の朝鮮半島おける日本人教会
4. 結び
戦争の終結と同時に朝鮮半島は北緯38度線を中心に北にはソ連軍が占領し、南には米軍 が占領してそれぞれ軍政を実施した。在朝日本人は敗戦直後、日本への引揚げを余儀なくさ れた。朝鮮半島の北部地域の場合、一部の教会は戦争中の被害で消滅し、また、キリスト教 に敵対的だった共産主義政権の成立によってその後を把握することができない。南部の場 合、朝鮮のキリスト者たちは解放を迎えてから間をおくこともなく再建運動を興し、その際 には在朝鮮日本人キリスト者が残した礼拝堂と土地が一部の教会の開拓あるいは再建の土 台になった。特に植民地時代から日本人キリスト者と密接な関係を保っていた朝鮮人キリ スト者がそれを引き継いだ事例が多かった。そこにはキリスト教に友好的だった米軍政庁 の態度と、軍政庁で働くことができた朝鮮人キリスト者、宣教師の助力があったといえる。
植民地伝道の性格が強かった日基の朝鮮伝道だったが、その一部は韓国と日本のエキュ メニカル宣教の架け橋の役割を担うことができた。
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結論
1904年2月、釜山から日本基督教会は朝鮮伝道を開始した。植民地朝鮮という日本とは 異なる人と環境のなかで、一方では統監府そして総督府のキリスト教統制方針に適応しな がら、他方では植民地居住の日本人を相手に伝道を続けた。1915年、朝鮮中会が設立され、
独立的な組織を形成した。1919年、朝鮮民衆の独立運動の中では良心的な声明を表し、日 本帝国主義の残酷性を告発したこともあったが、全般的には朝鮮に居ながら朝鮮の民衆と 共に居ない、そして朝鮮人が極めて少ない教会だった。この矛盾を良く示したのが次の文章 であろう。長文ながら引用すると(528)、
吾々朝鮮の青年には寸時も忘られない、日本の青年に持つことの出来ない一つの問 題を持って居ます。それは国家のこと民族のことです。体験したことのない人には解ら ないこの苦しみ、この運命果たして何処迄行って落付くか解らないこの状態。私は決し て偏愛国心でかく見るのではなくて世界の一人として或る苦しみつゝあるものに対し ての正しき見方であります。神の子である基督教人には見のがすことの出来ぬ、又吾々 が責任を負へる大問題であります。
朝鮮の基督青年は基督在世当時のユダヤの青年と同じい経験をしています。彼等は 霊の基督のみでない、この苦痛より救う肉の基督を待って要るのです。「カイザルの物 はカイザルに神の物は神に」を所謂文明国人の解釈している様にはどうしても解釈出 来ませぬ。見よ何に一つカイザルの物は無い。すべてが神の物であると解します。政教 一致の神の国を待望みます。又主の再臨を吾々ほど待望むものはないでしょう。それは 神の義の地上に行はれるのをまつからです。主の祈りの一言一句はすべて吾々の眞心 からの願ひです。「御名..
の崇め..
られん...
事.
を御国の来....
らん..
こと..
を御. 意の..
地にも行....
は. れん事...
を」。
わたしは一年の六分之五は日本の兄弟と共に礼拝をしますが一番楽しいのは主の祈 りを共に致す時であります。(1924・8・14、すべてがママで、傍点は原著者)
この文章を書いたのは当時明治学院神学部生だった尹人駒だった。彼は後に、日基釜山教 会を引き継いで光復教会を設立するが、長い間釜山教会とのつながりを持って居たのが分 かる。ここで彼は植民地青年として、同信の日本人青年には解らない悩みと苦痛があると述 べている。彼には植民者と植民地住民、支配者と非支配者の関係の中でできることは何もな く、ただ真心で祈るだけだった。ここから彼のことを理解してくれる日本人キリスト者がい ないことが分かる。「日本の青年には持つことの出来ない一つの問題」。日本の優秀な教育機 関で勉強し、日本語を自由自在に扱うことができる極めて少ない、そして選ばれた朝鮮青年
(528) 「朝鮮に帰りて」『生命之水』4号、1924.9.10.
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がこのような心持ちだったら、一般の朝鮮人民衆と朝鮮人キリスト者とその心を日本人キ リスト者が理解する道はなかっただろう。
しかし、このような文章が在朝日基の雑誌に掲載されたことにも意味がある。それはキリ スト教と植民地主義の間にある矛盾を、日基が同化政策によって日本人化を強いることも なく、積極的に朝鮮人側に立つこともせずに、少なくともこの時期においてはずっと保ち続 けたとところにある。
2回にわたって神社問題に対して建議案を出したのは、朝鮮中会の牧師たちが朝鮮におけ る経験から神社神道の宗教的な矛盾をより鋭く認識できたからだと判断できる。しかし教 勢への関心と依存性は、その教勢を構成する信徒への依存性を意味し、その信徒とは主に植 民地朝鮮における政治、経済、教育、文化的支配の当事者たちそのものだった。そのような 植民地主義とキリスト教的な価値観、つまり支配、殖産、搾取と隣人愛、犠牲との間という 狭間で立たされたのが在朝日本人キリスト者だった。西洋の植民地主義とキリスト教では 文明化というイデオロギーのもとでそれが一つになり、両者を正当化することに寄与でき たが、日本による朝鮮支配は、そのキリスト教の代わりに同化政策、皇民化政策を軸とする 天皇制イデオロギーが機能した。しかも朝鮮は非文明国ではなく、かつて古代には日本に文 明を伝えた国だった。これは在朝日本人キリスト者に植民主義とキリスト教の狭間だけで なく、忠実な天皇の臣民になるか、忠実なキリスト者になるかまで選択を強いられた問題で あったといえる。
日本人は忠実な天皇の臣民でありながら、忠実なキリスト者になることができると考え たかも知れないが、植民地朝鮮人においては現人神を崇拝しながらキリスト者になること は不可能であったからである。その矛盾の認識可否は別にして、多くの在朝日基が選択可能 だったのは無関心という姿勢であった。植民地であっても、日本人同士との関係や日本人伝 道に集中することによって、その狭間を通り過ぎ、その矛盾を逃れようとした。15年戦争 の勃発前まで両者の関わりが少なかったのは、そのように説明できる。
戦時期になってから在朝日基は総督府の政策に従うことを強いられ、懐柔された朝鮮の キリスト者と共に戦争協力への道を進んだ。それは圧倒的武力による、朝鮮におけるキリス ト教の変質であり、教会の屈従であったが、在朝日基はすでに日本帝国の忠実な臣民の道を 歩み始め、そして同信の朝鮮人キリスト者にその道にしたがうように求める役割を担った。
最も大きな責任は日本帝国主義そのものにあるのだが、キリスト者として苦難より栄光の 道を選択して、十字架を背負ったキリストを過去の出来事に限定する、信仰と社会を分離し た信仰にいたった責任から日本のキリスト教は逃げられないであろう。
それにもかかわらず、敗戦後在朝日基の引揚と共に残した財産、礼拝堂は朝鮮のキリスト 者たちが混乱した社会の中で教会を再建するために重要な役割を果たした。その中では日 韓の外交関係の回復とほぼ同時に、和解と協力の関係を結ぶエキュメニカル宣教に進んだ 教会もあった。それは歴史的な過ちを否定することでもなく、美化することでもなく、きち んと事実に当事者が向き合うことによってより現れる発展的な未来を示すものである。若
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草町教会が媒介になって植民地伝道からエキュメニカル宣教の道を開いた青山教会と草洞 教会の事例が示す意味は大きい。
序論で指摘したように、本研究は在朝鮮の他の日本人教会、つまり日本メソヂスト教会、
組合教会、ホーリネス系教会などの研究を含んでいない。また同じ日基教会のなかでも満州 や中国における伝道もまだ研究課題であり続けている。同地域における教派的な相違の様 子を研究し、比較することや同一教派における地域的な展開の相違を明らかにし、比較、総 合することもとても重要な課題である。すなわち同じ日基の海外伝道活動について、台湾、
朝鮮、満州や中国などでの伝道を相互に比較することによってそれぞれの地域との関係や 宣教のありようを明らかにすることは、日本基督教会と日本のキリスト教の性格をより立 体的に表し、意義があるだろう。これらは今後の課題である。