第 1 章 日本基督教会の朝鮮伝道の開始から朝鮮中会の建設まで―1904~1915 年
4. 植民地の状況
日基の朝鮮伝道は在朝日本人を対象にした。日基が直面した課題を理解するためには、在朝日 本人がどのようなものであって、そして彼らがキリスト教をどのように認識したかを理解しなけ ればならない。
(1) 居留地の状況
朝鮮の開国以降、朝鮮における日本人の居住は日本人居留地に限られていた。1880年代、領事 の認可に基づいて、「居留地規則」が制定され、日本人居留地は自治団体の模様を形成した。その 規模の拡張に伴い、商業会議所、小学校、病院、墓地、神社、公園などが造成され、まるで日本の 町のように機能した。このような発展を背景にして在朝日本人居留民は居留地団体を法人化する ように求めて、それが 1905 年「居留民団法」の制定という結果を生んた(80)。併合後の総督府の 地方制度整理の結果、居留民団は 1914 年3月に撤廃された。この居留民団は自分たちの利益を 守るために日本政府とも軋轢を起こした。統監府の設置以来、その支配政策が朝鮮人の方に傾い ていて、「在韓日本人社会」の発展を妨げていると批判した(81)。釜山の居留民の代表たちが対ロシ ア問題で、駐韓公使林権助に出した陳情書は在朝日本人の意識を明確に示している。
(前略)夫レ明治二十七八年ノ戦役ハ実ニ韓国独立ノ紀元ヲ開キタルモノニシテ我帝国ノ 恩徳ハ代テ累ネ時ヲ更ルモ沒スヘカラサルヤ論ナキ也。当時韓ノ君臣上下ハ靡然トシテ我ニ 帰郷シ国ヲ挙テ我ニ聴カントス。此ニ於テカ我利権ノ拡張我実業ノ発達ハ長足ノ進步ヲ為シ 駿々トシテ其止マル処ヲ知ラサラントスルノ勢ヒテ現シタリ。其後三国干渉ノ事アリ北淸騒 乱ノ変アリ列强相率ヒテ衝ヲ極東ニ爭フニ至リ彼忽チ其郷背ヲ二三ニシ趦趄逡巡風雲ヲ觀望 シ遂ニ我ニ背キテ露国ニ頼リ以テ我ヲ斥ケント欲ス。此時ニ方リ彼ノ眼中恩ナク德ナク百方 奸策猾計ヲ弄シテ我利權ヲ侵害シ我事業ヲ打破シ太甚シキニ至テハ人命ヲ視ル土芥ノ如シ幾
(80) 방광석「韓国併合 前後 서울의‘在韓日本人’社会와 植民権力」『韓日相互間集団居留地의 歴史的研究』景仁文化社、2011年、343~344頁。
(81) 同書、362頁。
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多惨殺委棄ノ難ニ遭フモノヲ出シ曩ノ進步ヲシテ頓ニ挫折沮喪セシムルニ至レリ由是観之彼 ノ就ク処ハ恩ニ非ラスシテ威ニ在リ義ニ非ラスシテ利ニ在レハ智者ヲ待テ後知ラサル也是則 チ。某等カ韓国ニ臨ムニハ須ラク威厳ヲ以テスヘク恩徳ヲ以テスヘカラスト謂フ所以ナリ。
(中略)對韓経営ノ困難ナル夫レ斯ノ如シ。而シテ其成敗利鈍ハ一ニ我国威ノ消長ノ相関聯 ス。一旦我威厳ノ振ハサルコトアランカ彼等怱チ起テ日人排斥ノ氣熖ヲ鼓吹シ急遽驀進我経 営ノ前途ニ遮ク我事業ノ中路ヲ杜キ自国ニ於ケル国利民福ノ如キハ措テ顧ミス我ニ大打撃ヲ 加ヘスンハ止マサラントシ。為メニ某等屢非常ノ困難ニ遭遇シ不測ノ危険ト損害トヲ被ムリ シ事例枚挙ニ遑マアラス故ニ一定不変ノ方針ヲ立テ百年不動ノ企画ヲ為サント欲スルモ其危 險ハ砂上ニ樓閣ヲ築クヨリ太甚シ是従来其の国ニ於テ奮テ大事業ヲ企画シ大資本ヲ放下スル モノナキ所以ニシテ即チ対韓経営上片時モ速ニ排除匡正セサルヘカラサル最大禍ナリ我政府 ハ宜シク国威ヲ森厳ニシ以テ彼ヲシテ再ヒ如上ノ事実ナカラシメンコト某等切望ニ堪ヘサル ナリ(82)。(後略)
彼らが日本政府に要求する対韓政策とは「恩徳」ではなくて、「威厳」によるものだった。つま り在朝鮮日本人たちは自己の権益を最優先する、日本政府以上に積極的な植民地主義の尖兵だっ た。
1906年11月、府令を以って「宗教の宣布に関する規則」が公布された。それは、「(一)韓国 ニ布教セントスル神道、仏教、其他宗教ニ属スル教宗派ハ当該管長又ハ之ニ準スヘキ者韓国ニ於 ケル管理者ヲ選定シ布教ノ方法及布教者ノ監督方法ヲ具シテ統監ノ認可ヲ受ク可シ(二)右以外 ノ帝国臣民ニシテ宗教ノ宣布ニ従事セントスル時ハ必要ノ事項ヲ具シ理事疔経由、統監ノ認可ヲ 受クヘシ(三)寺院、会堂其他宗教ノ用ニ供スル営造物ノ設立ハ理事官ノ認可ヲ要ス」というよ うに宗教の布教を取り締まるものだった(83)。この規則はあらゆる伝道活動を統監府の政治権力の 下に置くものだった。そして在朝鮮の植民者は、異国で苦労する自分らを慰めてくれる、「植民の 先駆者としての植民の慰安者」としての宗教を期待したのだった(84)。
日基はこのような居留地の中で伝道しなければならなかった。日基の伝道が植民地の問題を指 摘したり、それを批判したりする資料が見つからないのはそのためであろう。このような態度は 在朝鮮の宣教師側もほとんど変わらなかった。宣教師たちも在朝日本人によって阿片、売春など の社会的悪が広がっていることを認識し、在朝日本人一般に対して批判的だったが、問題の原因 を韓国政府の腐敗によるものとし、日本の植民政策に協力する姿勢を明らかにした(85)。このよう に、日基の朝鮮伝道は一方では統監府と総督府のキリスト教に対する姿勢、他方では在朝日本人 のキリスト教に対する認識という 2つの側面から理解する必要がある。次にそれぞれの典型的な
(82) 「釜山港日本人居留民総代の時局問題代案陳情書」『駐韓日本公使館記録』20巻、五.雑件(22)。韓国 史データベース(db.history.go.kr)(2014年8月現在)
(83) 『韓国施政年報―明治三九年、明治四〇年』統監官房、1908年、396頁。
(84) 青柳南冥『韓国植民策-一名韓国植民案内』日韓書房、1908年、12頁。
(85) Arthur Judson Brown, “The Japanese in Korea”, Report on a Second Visit to China, Japan and Korea 1909: With a Discussion of Some Problems of Mission Work, The Board of Foreign Missions Of the Presbyterian Church in the U.S.A., pp.69~84.
31 例を挙げる。
(2) 統監府の監視
まずキリスト教を警戒する統監府の態度を確認するために、一つの事例を参照したい。統監府 の文書にはキリスト教の状況、動向などに関する文書が多数存在する(86)。それはキリスト教が日 本の朝鮮植民地支配を妨げる可能性があることを認識し、その動きを監視していたことを意味す る。
釜山理事疔理事官亀山理平太は、1909年6月11日、統監府地方部長石塚英蔵に、日基の田村 直臣が釜山居住宣教師アービン(Irvin, C. H. 1862~1933)と交わした対話を報告した。その内容 は米北長老会の医療宣教師だったアービンが排日的な行動をした嫌疑で日本の官憲の誤解を招き、
そしてまた韓国人からは親日的な行動で誤解を招いたが、アービン自身は「現在ノ韓国腐敗大官 ヲ悉ク免黜シテ日本官憲ヲ以テ迅雷風烈的ニ韓国政治ノ改革其他諸般ノ経営ヲ断行施設セシムル コトハ雙手ヲ挙ケテ同情ヲ表スル所ナリ・・・日本カ韓国ニ対シ確的ニ物質上ノ宗主権ヲ認ムル モ霊界ニハ何等宗主権ヲ認メス従テ韓民ニ対スル宗教伝道ノ上ニハ日本ノ干渉ヲ許サスト云為セ リ(87)」と述べた。排日的でとは言えなかった宣教師の行動すら統監府に注目され、そしてキリス ト教教師同士が話し合った内容まで報告された。そしてこの報告書では田村を日本メソヂスト教 会の牧師として報告していたことから、日本の教派に対する詳しい知識がないと推察できる。言 い換えれば、キリスト教会に対する批判が盲目的だったとも言える。それらの事実は、植民地の キリスト教の動きの政治的な影響に対して、どれほど敏感に反応したかを示す一つの糸口になる だろう。
(3) 在朝日本人の言論『朝鮮』の記事から
『朝鮮』は『朝鮮及満州』の前身の雑誌である。『朝鮮及満州』は、植民地朝鮮に居住する日本 人社会に「鮮満の開拓と大陸進出の急先鋒」という自己理解を形成させ、日本帝国の大陸進出を 支えた代表的な民間言論であって、在朝日本人社会の利益のためには総督府の政策すら批判する 強硬な帝国主義言論だった(88)。
『朝鮮』は朝鮮のキリスト教にも注目してあり、重要なテーマとして扱っていた。キリスト教 を捉える視座は、それが日本の朝鮮支配を妨害する恐れ、特に宣教師たちに排日主義の疑いを表 すものだった。「宣教師中には・・・日韓の新関係を軽視し加ふるに信奉する教徒中には教会を利 用して帝国の政策を妨害すべく企てるものあり(89)」とある。『朝鮮』の認識によれば、朝鮮におけ
(86) 『統監府文書』1巻、七.宣教師及基督教に関する書類(1)~(24)、『統監府文書』8巻、八.基督教状況 (1)~(53)を参照。韓国史データベース(db.history.go.kr)(2014年8月現在)
(87) 「メソヂスト教会牧師田村直臣民と米国宣教師アービンの排日的言動是非対談内容報告件」『統監府文 書』8巻、八.基督教状況(28)、韓国史データベース(db.history.go.kr)(2014年8月現在)
(88) 任城模「月間『朝鮮及満州』解題」『朝鮮及満州』(復刊版)語文学社、2005年。
(89) 「韓国と列国関係の現状に就て」『朝鮮』第1巻第2号、1908年4月1日、4頁。
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る宗教らしい宗教はキリスト教しかなかったが「朝鮮の耶蘇教と言へば、直ちに排日思想を連想 する悲しむべき状勢に陥り朝鮮に於ける重要なる」問題で、宣教師はそのような状況を利用して、
朝鮮人側に立ち、教勢の拡張を図ると批判した(90)。
それ故、『朝鮮』の企画のひとつは、宣教師あるいは朝鮮に友好的な西洋人を訪問してインタビ ューすることだった。その対象になったのがゲール(1909年4月訪問)、ハルバート(Hulbert, H. B. 1863~1949、1909年9月訪問)、スクラントン(Scranton, W. B. 1856~1922、1910年4月 訪問)などだった。『朝鮮』の発行者だった釋尾は、彼らに韓国併合のための宣教師の支持と協力、
そしてキリスト教会からも併合の正当化することを求めた(91)。在朝日本人社会はここまでキリス ト教の政治的可能性に注目していたのである。
(4) 秋元茂雄の唐突な帰国
日基最初の朝鮮伝道者だった秋元茂雄は、派遣されてから僅か 5ヶ月後、急遽帰国の途につい た。それに対しては「秋元茂雄氏朝鮮釜山に伝道され居り同氏は都合により暫らく熊本に転任さ るることとなり」とのみ記され、公式には明確な説明がなかった(92)。しかし次のような説明もあ る。秋元は近郊の鎮海という地域に伝道のため視察を行った。当時鎮海にはロシア軍艦が寄港し、
日・英・露3国の勢力争いがあった要所である。海軍は、横須賀で海軍関連の仕事をした経験が ある秋元の視察に対して不審を抱き、「露探」ではないかと疑ったため、秋元は釜山を去ることを 余儀なくされたという(93)。この説明は文献によって裏付けられてはいないが、もしそれが事実に 基づくなら、秋元だけでなく日基においても、厳重警告として受けとられたはずであろう。つま り帝国の疑いを招くだけで、伝道はいつでも中止になり得たということである。日基の朝鮮伝道 は、自らの神学や論理に専心できる余地はなく、以上で取り上げた状況や事柄からも、帝国主義 と植民地主義を超えうる余地はなかったと言えよう。