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朝鮮イエス教長老会の神社参拝問題と在朝日基教会

第 3 章 15 年戦争期における朝鮮の日本基督教会

4. 朝鮮イエス教長老会の神社参拝問題と在朝日基教会

ここで取り扱わなければならないのは、朝鮮イエス教長老会の神社参問題とそれに関わ る日本の教会の役割である。韓国の教会は、1938年9月の朝鮮イエス教長老会第 27回総 会における神社参拝決議を韓国教会歴史の恥辱として認識している(116)。総督府は朝鮮長老 教会の総会の前に代議員に事前に接触して、「一、神社参拝は罪ではないことに同意するこ と。二、神社参拝問題が上程されたら沈黙すること。三、一と二に従う意志がなければ代議 員を辞退し、総会には出席しないこと」を強要し、それに応じない代議員を拘束した。親日 的総代議員とも事前に神社参拝案を可決するために必要な手続きを担当者と役割を分担し た。総会に出席する宣教師たちにもこの問題にかかわらないよう要求した。総会当日も100 余名の警察官が会場の平壤西門外教会礼拝堂で陪席した(117)。このような雰囲気の中で平壤

(114) 『毎日新報』11083号、1938.7.8.

(115) ここで、朝鮮基督教聯合会の結成年代の問題を指摘したい。『韓国民族文化大百科事典』などの

文献では朝鮮基督教聯合会の設立を193877日とする。それによると58日の「発会 式」は「京城基督教聯合会の結成式」で、77日が朝鮮基督教聯合会の結成の日としている。し かし58日の発会式を扱う文献はいずれもそれを「京城基督教聯合会」として言及していな い。58日発表された宣言、会則にも「朝鮮基督教聯合会」として定式な名称を使っている。つ まり58日の式は、朝鮮基督教聯合会の「発会式」で、77日の式は同聯合会の「結成式」

として見るのが妥当であろう。その結成式を77日にしたのは、日中戦争開始の1周年を記念 することであった。その時点でまだ全国的な組織は進行中だった。その面からもその聯合会が御 用的な組織であったことが分かる。

(116) 『韓国基督教の歴史II』、302‐302頁、金仁洙『韓国基督教会의 歴史』長老会神学大学 出版

部、1997年、508-509頁など韓国教会史における神社参拝可決に対する評価は一貫して「恥」

である。

(117) 『韓国基督教の歴史II』、293-294頁。

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老会、平西老会、安州老会の聯合代表として平壤老会長朴応律が「神社参拝決議及び声明書 発布」の件を提案し、それが可決された。その声明書の内容が次のようなものである。

声明書(118)

我らは、神社は宗教ではなくキリスト教の教理に違反しない本意を理解し、神社参拝 が愛国的な国家儀式であることを自覚して、またこれから神社参拝を率先励行し、追に 国民精神総動員に参加して、非常時局下における銃後皇国臣民とし赤誠を尽くすこと を期する。

昭和13年9月10日

朝鮮イエス教長老会総会長 洪澤麒

その場で総会を代表して参加者たちはただちに神社参拝を実行することを決議して、12 時に停会し、近所の平壤神社に行って神社参拝を実行した(119)

このような朝鮮教会の屈従の歴史は、もちろん朝鮮総督府の皇民化政策の強要によるも のであるが日基および在朝日基教会の役割も少なくなかった。1938年6月、富田満当時日 基の大会議長は「日本基督教会と朝鮮長老会との両者側からの要求」で朝鮮を訪問すること にした。また日高善一『福音新報』主筆も秋月京城教会牧師と他の有志からの招きで、郷司 慥爾と一緒に富田に同行することになった(120)。しかし朝鮮側は富田の訪問を、「朝鮮中会の 非常時特別伝道のための訪問」として紹介している。つまりその訪問の目的には朝鮮と日本 側の食い違いがあると判断できる(121)

この3人は、同月21日釜山に着き、富田は釜山に、日高は大邱へ、郷司は木浦へ別れて それぞれの地域の教会の礼拝で説教をするか、講演会を開いた。そこで彼らを迎えたのは各 地域の日基教会の牧師であって、また彼らは日基教会だけではなく朝鮮人教会でも講演会 や説教をした。それは今までの日本からの伝道者の朝鮮訪問とは変わったところだった。富 田は、21日には日基釜山教会で、そして22日には草梁長老教会で講演をした。日高も、21 日は日基大邱教会で、22 日は朝鮮長老会の大邱第一教会で、日・朝聯合の集会を催した。

23日は富田も大邱に到着、朝鮮長老教会の南山町教会で講演をした。続いて大邱中央教会 で朝鮮の牧師・長老との懇談会があったのだが、そこには特高の警察と朝鮮人刑事も臨席し、

懇談会における発言の内容を記録した(122)。それはその懇談会が特高の監視下にあったこと

(118) 『朝鮮耶蘇教長老会総会第二十七会会議録』1938年、9頁。

(119) 金仁洙、前掲書、508頁。

(120) 「京城通信」『福音新報』2209号、1938.7.7.

(121) 「日本基督教会使節来朝」『基督教報』175号、1938.6.21.

(122) 「京城通信」前掲書。

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を意味し、その雰囲気も推測できる。日基の意図が何であったとしても、それは日帝の皇民 化政策に利用される可能性が常にあったのである。

日高が先京城に着き、続いて富田も京城に到着した。京城で彼らを迎えて案内したのは秋

月だった(123)。26日、京城でも日高は朝鮮長老教会の安洞教会の礼拝で説教した。続いて貞

洞監理教会で開かれた京城基督教連合会の集会で富田が説教した。27日の昼には、秋月と 日基若草町教会の山口牧師の案内で朝鮮長老会の教職たちが富田ら 3 人を招待し、また夕 食には日基の大会側が朝鮮長老教会側の牧師・長老32人を招待した。それだけでなく秋月 の案内で日基の3人は朝鮮のYMCA、セブランス病院および医学専門学校(124)を視察し、総 督府を訪問して高位官僚から日本の統治と宗教政策の説明を聞いた(125)。日・朝両長老教会 の関わりがより具体的になっている情況とともに、そして総督府の宗教政策における在朝 日基教会の役割を知ることができる。

いよいよ富田の一行が平壤に到着したのは同月29日だった。朝鮮のキリスト者たちは彼 らを大々的に歓迎し、彼らも平壤における朝鮮のキリスト教の規模に驚いた。当時平壤は

「東洋のイェルサレム」と呼ばれるほどキリスト教が盛んになっている地域だった。そこで 富田の一行は、多くの朝鮮人キリスト者に歓迎されたが、まもなく平壤の朝鮮の牧師たちと の間に神社参拝をめぐる激論がなされた。李承吉牧師を座長に、呉文煥が通訳に務めた。

神社参拝反対の象徴的な人物である朱基徹牧師が主任牧師である山亭峴教会で行われた 懇談会で、富田は神社が宗教でなく国家の儀礼である帝国政府の規定を繰り返した。それに 対して朝鮮人牧師は、神社を宗教として論じている日本語著作を引用して日本側を反駁し た。日高は、そのような著作は日本基督教会の神学者が断じて承認するところではないと答 えたが、日高の答えは実は嘘だった。

小野村林蔵は日基の有力な牧師であるが、1921年『福音新報』に神社参拝に対する問題 を取り扱う連載記事を投稿し、それが本としてまとめられたのが『神社に対する疑義』(1925 年、新星社)である。小野村は、神社は宗教であると規定して、神社の宗教性を否定する政 府の神社崇拝強要政策を強烈に反対した。「神社が宗教である事は、その発生の歴史に於て、

その伝統の由来に於て、その祭儀の形式に於て、その礼拝の精神に於て、宗教学上明々白々 な事実である。其處には一疑だも挟む余地はない」(126)。小野村が用いるのは井上哲次郎の 宗教学的な立場であって(127)、神社神道は日本の民族宗教であるから、他の民族にその崇拝 を強いることの不当性まで抗弁した。「朝鮮、台湾の新府の民が、日本民族の民族神を日本

(123) 同上。

(124) 現在の延世医療院および延世大学医科大学。

(125) 「平壤通信」『福音新報』2210号、1938.7.14日。

(126) 小野村林蔵『神社に対する疑義』新星社、1925年、4頁。

(127) 同上、15頁から。井上哲次郎『我が国体と国民道徳』廣文堂書店、1925年。

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民族と同様の心理を以て崇敬、信仰すべしとするなら、それは愚かなうぬぼれである。民族 神を祭神とする民族教に過ぎない神社神道が、若し日本の国体と不可分の関係にあるもの なら、日本民族は、最早や国家的発展を断念せねばならぬであろう」(128)

神社神道に対する日基のこの時期の立場は、神社を日本固有の伝統としての特徴を強調 する一方、他方では他の宗教との相違を浮き彫りにすることであった。原戍吉は、『日本人 の神』で、日本の伝統である神道とキリスト教の類似性を力説した。しかし最後に「神道と は、神ながら、神の御心のままの生活、この手本は古の神々の生活を生活する事で、その生 活を知るには『神代記を素読する外なく読書百百遍意自通す』・・・外に説明の為やうがな い。言い換えれば結局『神道』は『教』の『宗教』でないが、大和民族の祖先が天地の大生 命に随ふて生活したその生活を生活する事であると云ふのに帰着するのではないか」(129)

それは神道の宗教性を論じながら最後に宗教性を否定する矛盾に満ちた言説にすぎない。

しかも神道の極端的な大和民族中心主義をキリスト教の神の国の到来にまでつなげる事で、

キリスト教を日本帝国主義の膨張主義を正当化する理念としても用いた。

また沖野岩三郎は『神社問題』という著作で、日本の古代の宗教や言葉から神社や神の意 味を検証した。「日本の国は、一言も此の天之御中主神に就いて其の神徳を揚言しない。神 学を組織しない。信仰を強ひない。神罰を以って人を嚇しつけない。遥かに後世になって『か んながらの道』という言葉を唱道する一派が出来た。けれどもそれは宗教的な意味をもたな

かった」 (130)。日本の神は「衣服を着、御酒を召上がり、御飯を食べ、野菜魚類海草類を召

上がる神」で「吾吾と同じく生きて此の世に居給う」(131)神、つまり宗教的ではないと主張 した。沖野は仏教などによって宗教化された神社神道が、明治政府によって成功的に国家の 祭祀として戻ったと説得しようとした(132)

そもそもこのような議論には、なにより「宗教」とは何かということの説明、あるいは共 通の認識が欠如している。神道が日本伝統の生活であるという主張は、それが日本伝統の宗 教生活である事実からあえて顔をそむけている。それは戦時下日本帝国主義の内部におけ る統制政策、外部における戦争政策への宗教的迎合そのものである。

神社問題に対し、かつて日基は1917年の第31回大会において、「神社に対する決議案」

を可決した。「今日の神社の祭祀は純然たる一種の宗教的精神と儀式とを以てしつつあり、

然るに当局者が神社礼拝を奨励し励もすれば、学童に之が参拝を強ゆるが如き事実あるは

(128) 同上、27頁。

(129) 原戍吉『日本人の神』福音新報社、1934年、45頁。

(130) 田川大吉郎『日本と基督教』・沖野岩三郎『神社問題』教文館、1939年、83頁。

(131) 同上、93頁。

(132) 同上、96~109頁。