• 検索結果がありません。

米北長老会日本ミッション朝鮮ステーション

第 2 章 植民地朝鮮における日本基督教会―朝鮮中会建設から 15 年戦争の開始まで

4. 米北長老会日本ミッション朝鮮ステーション

(1) カー夫妻の派遣

ウイリアム・カー(William Campbell Kerr)宣教師は、1883年ウイスコンシン州で生 まれ、プリンストン大学を卒業(B.A., M.A)、オーバーン神学校(Auburn Theological Seminary in New York)で勉強してから直ちに米北長老派教会朝鮮ミッションに配属され た(90)。1908年9月韓国に到着して、朝鮮語を学び、黄海道載寧で活動を開始した。1912年 グレース・キールボーレン(Grace A. Kilborne)と結婚した。1918年朝鮮ミッションを辞 任して、アメリカに戻ったが、日本宣教師として呉で日本語を学び1920年から同長老教日 本ミッションに所属し、再び朝鮮に戻った。主に日基と協力しながら在朝日本人の伝道に尽 力した(91)

妻のグレース・カー宣教師は、1887年ニュージャージー州で生まれ、名門ウェルズリー 大学を卒業してから、YWCAで看護師の教育を受けた。1911年11月朝鮮ミッションに任 命され、1912年5月カーと結婚した(92)。二人共1976年アメリカで永眠した。

カーが朝鮮ミッションから脱退することに対して、今までは主に「朝鮮基督教会」を設立 した金庄鍋との関連から説明されてきた。金庄鍋は、黄海道出身で1905年北長老派宣教師 クーンズ(Koons, W)から受洗し、1909年平壤長老会神学校に入学、黄海老会で牧師按手 を受けた。同老会の鳳山教会、新院教会で牧会に携わったが、同老会では彼の聖書解釈に関 して問題を指摘して、警告した。金庄鍋は1917 年黄海老会長金益斗牧師、1918 年平壤長 老会神学校長モフェットとの面談の末、1918年7月に6ヶ月の休職の処分を受けた。金庄 鍋がこれに従わない姿勢が明らかになると、同年12月には解職の処分が下られた(93)。彼が このような処分を受けたのは、教会政治における既存の教会政体を否定し平民的民主政体 を提唱したことと、当時朝鮮教会では受け入れられない自由主義的聖書解釈を主張したか らだった。特にこの自由主義的聖書解釈がカーの影響だったことが明らかになって、黄海老 会の要望によって追放されたとされる(94)

(90) 一部の韓国教会史では、カーがニューヨークで神学を勉強したので、進歩的なユニオン神学校

(Union Theological Seminary in New York)出身として理解しているが、それは誤りで、オー バーン神学校は、ユニオンとは別の神学校で、長老主義系の神学校である。

朴용규『韓国基督教会史』生命의말씀사、2004年、496頁。

(91) Biographical record of Kerr, William Campbell (1883-1976) produced by Presbyterian Historical Society at Oct 2, 2014 on request.

(92) Biographical record of Kerr, Grace Allerton Kilborne (1887-1976) produced by Presbyterian Historical Society at Oct 2, 2014 on request.

(93) 韓国基督教史学研究会編『韓国基督教思想』延世大学校出版部、1997年、163~164頁。

(94) 閔庚培『韓国基督教会史』(新改訂版)延世大学校出版部、1996年、405頁。黄海老会の処分に

64

カーは朝鮮語の修得後、巡回伝道と「助師」とよばれた各教会の教師を教える仕事をして いた。彼は助師教育のカリキュラムが聖書の内容だけを教えるという慣例を改善する必要 生を感じ、自ら教会運営方法、今日の言葉で言うとリーダシップ開発、使徒信条、パウロ概 論などを教え、またその方法論においても心理学を用いることを試みた。その中でも教育が 伝道者に信仰的な面にも力をつけるのを忘れていなかった(95)。それにとどまらずカーは、

より高い水準の神学教育のため、朝鮮人神学生がアメリカで 1 年間研修を受けるように宣 教本部に提案した。もちろん、宣教本部は、「アメリカ人キリスト者はたくさんの教育機関 をアジアで運営しています。経験的にアジアの若者はその教育機関で教育を受けた方が、こ の国で受けるより、彼らの必要を満たしてくれます。(中略)朝鮮の学生が来るならば、授 業が可能な英語力と1年間の滞在に必要な経費を持たなければなりません」と返事した(96)。 カーのこのような働きは既存の神学教育を否定あるいは、低く評価するように見える可能 性がある。

カーは朝鮮ミッションの宣教地の現場で権限が拡大することにも反対した。

わたしは朝鮮ミッションが宣教地を統制するのにより強い影響力を求める事案に対 する手紙を興味深く読みました。

わたしはそのような動きが無用なことだと直ちに感じました。ミッションは総会の 下部委員会で、老会ではありません。それは臨時的で、恒久的な機関ではありません。

ミッションに老会の権限が与えられると同じ地域に二つの老会が別の機能をしながら 存在する異常な状況が展開されるでしょう。ミッションの働きは何十年間続けるかも 知れませんが、それでも一時的です(97)

朝鮮伝道におけるミッションの権限を拡張しようとする試みに、まだ若いカーがブレー キをかけたのである。それも、朝鮮ミッションがカーに対して否定的な感情をもたらす契機 として作用する可能性がある。

反発した金庄鍋は19187月、朝鮮基督教会を創設したが、彼は次のように創設の目的を宣言し た。

一、朝鮮百姓の霊魂の救済事業は当事の朝鮮百姓の能力と責任のもとで、朝鮮の主権と利益を外国 の主権と利益より大切にしながら運営するため

二、各国各派の宣教師が入って、各々の自分の教派の勢力を増える内に紛争が起こり、民族を分 裂、離間する。この弊害を防ぎ、民族同士の教派を設立して、民族精神を統一するために 三、科学は進歩し、知識は広がる。科学が証する宗教と、科学を裏付ける宗教を持つために

(95) Annual Report presented by Wm. C. Kerr, 1914.May PCUSABFM-KM

(96) From Mission Board to Wm. C. Kerr, 1916.10.30., PCUSABFM-KM

(97) From Wm. C. Kerr to Dr. Brown, 1918.1.31. PCUSABFM-KM、From Dr. Brown to the Chosen Mission, 1918.12.3. PCUSABFM-KM

65

同年の朝鮮ミッションの実行委員会はカーを日本ミッションに転勤させるように決定し た。しかもそれはカー夫妻が安息年(furlough)に決議された。この決定に対してカーはこ のように訴えた(98)

(朝鮮ミッションの)実行委員会はすでにわたしの日本ミッションへの転勤を投票し て決定し、ただ両ミッションの承認だけ待っていました。わたしはしばらく、わたしが 朝鮮に滞在し、朝鮮人と接することに反対するものが居るのか恐れていました。そして 辛いことに反対が実際にあったと聞きました。この問題を誰かが朝鮮ミッションで取 り上げ投票しない限り、(わたしを転勤させれ)機会はなかったでしょう。朝鮮ミッシ ョンの会議で、わたしたちの問題は討議されず、すでに完結されていました。彼らはわ たしに望むことがあるのかと聞くだけで、手放してしまいました。ある人々はわたした ちが以前の仕事に戻られないことを悲しんでいたが、わたしたちとひどい関係にあっ たものは、このような展開でほっとしました。

このようにしてカーは、日本ミッションに転勤することになった。ある意味で、カーは同 僚に捨てられたといえる。彼は朝鮮に戻って在朝日本人伝道に従事するが、その朝鮮は、以 前とは違う朝鮮だったはずだ。自分の意志に反して追い出され、改めて派遣された朝鮮だっ たので、様々な理由で「外地」朝鮮で生活している在朝日本人の心と立場をそれなりに理解 できたのではないかと考えられる。

(2) 伝道活動

日本ミッションに受け入れられたカー夫妻は、カーティスからアドバイスを受け京城で 朝 鮮 ス テ ー シ ョ ン を 開 設 し た( 99 )。 そ こ で 彼 が 注 目 し た の は 新 聞 伝 道 (Newspaper Evangelistic Work)だった。当時の在朝日本人人口と比べて朝鮮はそんなに狭くはなかっ た。巡回伝道には限界があったのである。月に2回、有力な朝鮮の新聞に記事を掲載した。

それを読んだ人々は朝鮮のどこからでも問い合わせができる。カーはそのつながりを「新生 会」と名づけた。1922年の時点で90名が加入していて、毎月所定の代金を払えば、キリス ト教書物が会員に届く。また手紙を通して宗教的な対話を交わすこともできた。正式な会員 でなくても、その時点で70名が巡回図書館から本を借りていた。通信課程として聖書の勉 強も行った。カーの願いの一つは近くに教会がなくて、礼拝や信仰生活ができないキリスト 者を支援することだった(100)

(98) From Wm. C. Kerr to Dr. Brown, 1919.8.29. PCUSABFM-KM

(99) From Wm. C. Kerr to Dr. Brown, 1919.10.15. PCUSABFM-KM

(100) Report of Chosen Mission by Rev. W. C. Kerr, 1922 April, PCUSABFM-KM

66

『日本基督教年鑑』(1927年版)は新生会の活動を具体的に紹介している。引用すると、

京城新生会

所在地:京城府弼雲洞参貮番地

主任者氏名:ウヰリアム、シー、ケール(ママ)

同住所:京城府弼雲洞三二番地(現今帰米中、来年四月帰任ノ預定)

補助者姓名:石野縫

同住所:京城府弼雲洞五五番地

伝道文を掲載せる新聞及雑誌名並に掲載回数 大阪毎日新聞西部毎日

京城日報 朝鮮新聞 毎月各二回宛

回答数:(一ヶ月平均)四拾五通 受洗者数:十三名

図書総数:六八〇冊

パンフレット名及著者名:殆ンド現在発行(日本基督教興文教会発行ノモノ全部ヲ使用 機関誌名及其発行部数:「新生」壱ヶ月発行部数六百部

経費総額:年約壱千五百円也 経費の出所:米国伝道局

カーはこの新生会の活動以外にも、在朝日基教会との協力のもとで活動した。牧師不在の 期間が長かった龍山教会で説教を担当し(101)、龍山教会が京城教会と併合してからも続けら れた龍山会堂集会の礼拝を主に担当した(102)。京城教会でも聖書講義会を開設し(103)、朝鮮 中会とともに地方伝道集会を導いたこともあって(104)、30年代初には光州教会の牧師だった 田中義一と共に湖南地域の巡回伝道を活発に行なった(105)。このようにカーは朝鮮中会にお いて欠かせない存在として活躍したものの、しかい在朝日本人伝道に従事して以来、長い間 朝鮮中会の正式な会員ではなく員外議員であり、ようやく第24回朝鮮中会において、もと

(101) 「教勢」『福音新報』1335号、1921.1.27.、

(102) 「朝鮮京城龍山教会堂の集会」『福音新報』1868号、1931.7.2.

(103) 「教勢」『福音新報』1445号、1923.3.8.

(104) 「朝鮮中会」『福音新報』1496号、1924.5.8.、「教勢」『福音新報』1705号、1928.4.26.

(105) 「南鮮伝道旅行記」『福音新報』1806号、1930.4.17.、「朝鮮全羅南北道巡廻伝道記」1903号、

1931.3.17.、

67

の所属のニューヨーク老会の推薦によって朝鮮中会の正会員になった(106)。そのようになっ たのは、1932年10月富士見町教会において開かれた日基の第46回大会で、「ミッション との協調に関する日本基督教会の基本方針」が承認されたためであり(107)、その内容に「第 三条 本委員会に属して伝道に従事する者は日本基督教会の教師、もしくは教師試補たる こと」のような規定があったからだである(108)

5. 結び

植民地朝鮮における日基は、大正期を経過しながら植民地支配の確立と共に成長した。し かし、植民地主義と、隣人愛というキリスト教理念との狭間で置かれている現実には変わり がなかった。時には朝鮮人側に立ち、彼らのため声をあげたこともあったが、教会の構成員 が、そして教会の生存と関わる伝道の対象が、支配者そのものであることによる限界は明ら かだった。その矛盾のまま、生きる方法の一つは、同じキリスト教会でありながら、朝鮮の キリスト教会との関わりをもたないこと、交流をしないことであった(109)。朝鮮の教会との 消極的な関係は彼らが取る一つの選択肢だったであろう。無関心、無関係の方が親しい関係 よりは、矛盾を抱えてまま生きる上で容易であっただろう。急増する在朝日本人、そして常 に不足していた伝道者は、彼らが日本人伝道に集中する根拠として十分だった。在朝日基に 協力したカーの存在は、双方がお互いを警戒する象徴的な人物であり出来事だと考えられ る。逆にカーがアジア太平洋戦争の勃発までそこに留まったということは、朝鮮と日本のキ リスト者と教会が、違う所がたくさんあるにも関わらず、共に居る現実を象徴するのではな かっただろうか。

(106) 「日本基督教会第二四回朝鮮中会」『福音新報』2195号、1938.3.31.

(107) 『第四十六回日本基督教会大会記録』日本基督教会事務局、1932年、66-67頁。

(108) 「第四十六回日本基督教会大会」『福音新報』1933号、1932.10.13.

(109) 日基を含め他の日本の諸キリスト教会が朝鮮の教会と正式な連合体を構成するのは、1938年組

織された「朝鮮基督教連合会」であった。その会則二条はこうである。「本会は基督者の団結ヲ図 リ相協力シテ基督教伝道の実効ヲ挙ゲ皇国臣民トシテ報国ノ誠ヲ致スヲ以テ目的トス。」そして、

日基京城教会の牧師秋月致は副委員長を務め、委員と評議院に朝鮮人の教会指導者と在朝諸教派 日本人の教会指導者が参加した。日本と朝鮮のキリスト教との連合を生み出したのが日本の軍国 主義であり、それは次章の主題である。