第 4 章 戦後の朝鮮半島おける日本人教会
2. 在朝鮮日基教会の行方とその後
36 年に及ぶ植民地支配の末、戦時下の末期、朝鮮教会は深刻な打撃を受けていた。多く の教会が閉鎖され、存続した教会でも週一回以上の集会は許されなかった。教会の指導者た ちは迫害か日帝からの圧力で苦しんで、多くの信徒が教会から追い出された(26)。そのよう な日帝の支配から解放を迎えた朝鮮の教会は、その解放と同時に強制的な南北分断という 不幸な局面に直面した。北緯 38 度線から南は米軍が北はソ連軍が進駐することによって、
キリスト教会の運命が変わった。ここでは在朝鮮日本人教会の行方の背景になる朝鮮のキ リスト教界の変動を、長老派教会を中心に考察する。
(1) 朝鮮半島北部における教会の再建運動
15年戦争下の厳しい統制を経て朝鮮の教会は、神社参拝反対による迫害、戦時下総動員 体制の中で活動の萎縮、教勢の減少を経験した。解放直後、北朝鮮の平東老会長をつとめた
(26) From Underwood, H. H. to Dr. Hooper, 1945.11.19. PCUSABFM-KM.
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金良善は、解放直前の教勢は最盛期の半分にまで減少したと評価した(27)。ロイ・イ・シアラ ー(Roy E. Shearer)は、朝鮮半島内の長老会教会の洗礼会員の数を次のように集計した
(28)。
<表 13>長老教洗礼会員増減推移
年度 平安道 黄海道 咸鏡道 北韓(A) 南韓 全国(B) A/B
1937 54,874 13,264 7,201 75,339 43,954 119,293 63.2%
1938 57,340
(↑4.5%) 15,537
(↑17.1%) 6,107
(↓15.2%) 78,984 (↑4.8%)
46,981 (↑6.9%)
125,965
(↑5.6%) 62.7%
1939 59,168 (↑3.2%)
15,822 (↑1.8%)
7,412 (↑21.4%)
81,402 (↑3.1%)
44,768 (↓4.7%)
127,170
(↑1.0%) 64.0%
1940 55,714
(↓5.8%) 18,198 (↑15.0%)
7,838 (↑5.7%)
81,750 (↑0.4%)
37,387
(↓16.5%) 119,137
(6.3%) 68.6%
1941 54,531
(↓2.1%) 18,903 (↑3.9%)
7,579
(↓3.3%) 81,013
(↓0.9%) 40,465 (↑8.2%)
121,478
(↑2.0%) 66.7%
1942 49,465
(↓9.3%) 17,204
(↓9.0%) 7,868 (↑3.8%)
74,528
(↓8.0%) 35,474
(↓12.3%) 110,002
(↓9.4%) 67.8%
1939-
1942 ↓16.4% ↑8.7% ↑6.2% ↓8.4% ↓20.8% ↓13.5%
i. 京畿、中清地域の統計は含まれていない
ii. 出典:徐明元(Roy E. Shearer)、이승익訳『韓国教会成長史』大韓基督教書会、1966年
日中戦争と共に教勢は全般的に減っていて、特に太平洋戦争期に入るとより急速に減っ ていくとが確認できる。ところが朝鮮の教会における最優先の急務は、教勢の回復だけでな く植民地支配下神社参拝などで損なわれた教会の再建だった。そして相対的に神社参拝反 対闘争に積極的だった朝鮮の北部の場合は、反対闘争によって投獄された後、解放と同時に 釈放されたいわゆる「出獄聖徒」と、神社参拝に屈従しながら教会を指導した指導者の両グ ループによって再建運動が行われた。
出獄聖徒の側は、1945年9月20日、教会再建の原則を発表した(29)。
一、教会の指導者(牧師及び長老)は皆神社に参拝をしたので、勧懲の道を取り、懺悔、
浄化されてから伝道の道に進むこと
一、勧懲は自責、あるいは自粛の方法を取ることによって、牧師は最小2ヶ月休職し痛 悔、自服すること
一、牧師と長老の休職中には、執事か平信徒が礼拝を導くこと
(27) 金良善『韓国基督教解放十年史』大韓예수教長老会総会宗教教育部、1956年、44頁。
(28) 韓国基督教歴史研究所北韓教会史執筆委員会『北韓教会史』韓国基督教歴史研究所、1999年、
347頁。(以下、著者を北韓教会史委員会に略する)。
(29) 金良善、前掲書、45頁。
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一、教会再建の基本原則を全韓各老会、また枝教会に伝達して一切に之を実行すること 一、教役者の養成のため神学校を復旧再建すること
しかし洪澤騏を中心とする神社参拝に参加した指導者の反駁も手ごわいものだった。彼 らは「獄中で苦労した者も、教会を守るために苦労した者も、その苦労は同じだ。教会を捨 てて避難生活をした者や隠退生活をした者の苦労よりは、教会を背負って日帝の強制に屈 するのを余儀なくされた者の苦労をより高く評価すべき」と主張した(30)。そして、神社参拝 の責任の問題は本格的に問われず、当時より緊迫な問題だった共産主義勢力の拡張への取 り組みのため共同戦線を作ることになったといえる(31)。その結果登場したのが「以北五道 聯合老会(以下、聯合老会)」だった。聯合老会は1945年12月1日、平壤の章台峴教会で 解放後初めて会議を開いて、次のような内容を決議した(32)。
一、この聯合老会は暫定的に総会を代行
二、教団の規則は総会が再建されるまで存続する
三、全国教会は過去の罪を自服して、教役者は二ヶ月間謹慎する 四、神学校を聯合老会の管轄下で管理する
五、全国を通して独立記念伝道を実施する
そのような決議を以って聯合老会は、強力に伝道運動を推進する一方、他方では南の教会 との紐帯を持続するために使節団を派遣した。ソ連軍政府の監視を逃れるために「聯合国司 令官に感謝の礼を表する」という建前を掲げつつ、実際には南の教会との連絡を取り北朝鮮 の事情を報告し、李承晩と臨時政府の要人を訪問するのが本当の目的だった(33)。
教会の再建と共に北朝鮮のキリスト教指導者たちが注目したのは政治的な活動だった。
公式的には宗教の自由が認められたが、アメリカ人宣教師の影響が強かった北部地域教会 は親米・反共主義的な性格を明らかに持っていた。彼らは解放後の新しい社会状況に対応し て政治団体を結成した(34)。1945年8月17日、政治家でキリスト教会の長老だった曹晩植 は呉允先と平南建国準備委員会を組織し、それは左翼側と右翼側を統合する「平南人民政治 委員会」になった。尹河英牧師、韓景職牧師、李祐弼牧師は、新義州で「基督教社会民主党」
を設立した。曹晩植は1945年11月「朝鮮民主党」を結成し、党首になった。このように 北部地域の教会が政治活動に積極的だったのは、キリスト教に敵対的なソ連と共産主義勢
(30) 同上、46頁。
(31) 北韓教会史委員会、前掲書、356頁。
(32) 金良善、47~48頁。
(33) 同上、49頁。
(34) 『韓国基督教の歴史III』、46頁。
120 力に囲まれている中で、自ら生き残るためだった。
このような教会の再建運動にもかかわらず、強まっていく共産主義勢力と比べてキリス ト教の影響力は微々たるものだった。1946 年 2 月、北朝鮮臨時人民委員会が設置されて、
農地の無償没収、無償分配を施行した。臨時人民委員会はその後、人民委員会、北朝鮮労働 党と、次々と名称を変更して、1949年6月30日、朝鮮労働党になった。1948年8月、最 高人民会議の代議員選挙が実施されて、9月9日、社会主義憲法を採択した朝鮮民主主義人 民共和国が樹立された。このような状況の中で共産主義政権は、教会へ弾圧を加えた(35)。多 くのキリスト者は宗教、政治、経済的な理由で越南した。解放直後には、カトリックとプロ テスタントを合わせて2千以上の教会、2千名以上の教師と聖職者、30~35万の信徒があ ったが、1949年には信徒が 20万まで減少した(36)。北部地域のキリスト者は、共産主義政 権と対決するか、あるいは1946年11月28日に組織された「北朝鮮基督教徒聯盟」に加入 するかの選択肢しかなかった。この北朝鮮基督教徒聯盟の性格は、1948年8月の代議員選 挙の前に発表された決議文から明らかになる。
一、我々は金日成政府を絶対支持する。
二、我々は南韓(ママ)政権を認定しない。
三、教会は民衆の指導者になることを公約する。
四、従って、教会は選挙に率先参加する。
1950年6月25日の朝鮮戦争前まで、同連盟に加入しない教職者は投獄され、その礼拝 堂は閉鎖された(37)。解放後の北部地域教会の再建運動の終焉であった。
(2) 朝鮮半島南部地域における教会再建運動
解放直後、南部地域の状況を金良善は次のように記した。
南韓教会は倭政末(ママ)大受難期で受けた傷があまりにも大きく、孫良源牧師以外 には出獄聖者がおらず、地下で隠れていた教師の数も非常に少なかったので解放後北 韓のような迫力のある教会再建運動が起こられなかった。
しかも日本基督教朝鮮教団の指導者たちは解放直後、必ずその地位から退いて、長い 間反省の期間を持つべきだと自他が認めているところだったが、ソウルに残っている
(35) 金良善、前掲書、62~67頁。また、閔庚培『大韓예수教長老会百年史』大韓예수教長老会総会、
1984年、536~538頁を参照。
(36) 朝鮮中央通信社『朝鮮中央年鑑』朝鮮中央通信社、1950年、86~87頁。同上、45頁より再引 用。
(37) 金良善、前掲書、69~70頁。
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教役者の中では、彼らの代わりに教会を新しい方向へ指導できる人物が別にいなかっ たので、やむを得ず教会の主導権は依然として、彼らに残ることになった。(中略)教 団指導者たちは新設教団の存続を希望し、またその存続運動にも力を入れた。教団存続 のもう一つの理由は彼らの政治的欲望にあった事実も看過できない。将来建国の主導 権を握ることになる李承晩博士、金九先生、金奎植博士などは皆キリスト者だったので、
教会は彼らに建国理念を提供し、彼らを積極的に支援する義務があったと考え、その義 務を遂行するためには自教派に還元して分散するより、各教派の統合体である教団が そのまま存続して、強力な勢力を構成するのが良いと考えた(38)。
教団の指導者たちは早速「日本基督教朝鮮教団」の名称を「朝鮮基督教団」と変更し、1945 年9月8日、新門内教会堂で「南部大会」を招集した。南部地域の教会だけが集まることで
「南部大会」と名づけたのである。しかし集まったのは、長老教会と監理教会の代表だけで、
しかも監理教会の代表は、会議の開始と同時に、監理教会の再建を宣言して退場した。そし
て1945年11月27~30日、貞洞第一教会堂において実質的な南部大会が開催された。役員
を選出して、殉教者に対する追悼といくつかの決議がなされた(39)。一方、監理教会は再建の ために動き、地方の長老教会は続々と老会を再建した。1945年 12月3日、釜山を中心に 慶南老会の開会(40)、12月5日、全州西門外教会における全北老会の開会41など次々と老会 が組織・再建され、1946年初頃までには朝鮮半島南部地域における長老会教会の老会再建 は完結した。1946年4月30日~5月2日、第2次南部大会が開かれたが、参席者は「各 教派はそれぞれの性格通り活動する」ことを決議して、結果的に南部大会の解体のための会 議になってしまった(42)。日本帝国主義から独立した直後の合同教会の名称が「朝鮮基督教...
団.
」であって、またその教団の中心的な会議が「総会」ではなく、「大会」であったのは、
朝鮮基督教団が植民地時代の日本基督教朝鮮教団の残滓を克服できなかった証拠でもあろ う。
半島の南部地域における老会の再建が終わることによって、1946年6月11~13日、ソウ ルの勝洞教会で第一次「南部総会」が開かれ、次のことを決議した(43)。
(38) 同上、49~50頁。
(39) 『韓国基督教の歴史III』、16頁。
(40) 金良善、前掲書、51頁。金良善は慶南老会の再建を11月3日と記しているが、その組織は9月 18日に行われ、12月3
日老会を開会した。釜山老会編纂委員会『釜山老会史(1905-2005)』大韓예수教長老会釜山老会、2005年、423頁。
41 『全州西門教会100年史』、443頁。
(42) 李徳周「南部大会의組織과消滅」『韓国基督教史研究』30号、1990年、25頁。『韓国基督教の
歴史III』17頁から再引用。
(43) 金良善、前掲書、52頁。