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いないことを確認 して もらうことになっていま すので宜 しくお願い します」 と述べ た。

行列の二番 目の人は、当方 と同 じくらいの年 恰好の女性 であった。係員の言葉 は、確認行為 を避 けたければ後 に回ってほしい とい うニュア ンスであった。二人は異 を唱えず、係員の指示 に従 うことになった。

7時

になって扉が開 き、入室 となった。先ず 比例区の投票である。相方の女性 は、暫 く考 え 込んでいて、投票用紙への記入 に時間がかかっ た。二人 とも記入 した ところで、係員が投票箱 を鍵 で分解 してバ ラバ ラに して見せ、「何 もな い こ とを確 認 して下 さい」 と云 った。二人が

「結構 です」 と云 うと、投票箱が元 どお りに組 み立て られた。二人はそこに投票用紙 を差 し込 んだ。

次の選挙 区投票では、女性 の投票記入 には、

時間がかか らなかった。比例区の場合 と同 じく、

投票箱 の分解 、組立てが行われ、二人は中が空 っぽであることを確認 し、その旨を証言 した。

投票 と確認 とい う二つの公的義務 を果た し終 えて外 に出ると、

 7時 3分

であった。それほ ど の時間はかか らなかった。 ゴルフ場 には、余裕 をもって到着することがで きた。

ゴールデン・ラプチャー

村野

 

晃―

時計製造

昨年の暮れ、永年の念願だったボー トを持 ち ま した。全 長10メ ー トル、直列6気 筒エ ンジ ン を二基備 えた、ち ょっとしたモ ンです。

かれ これ15年 位前 か ら毎年 ボー トシ ョウに 行 って研究 をは じめ、9年前 には四級小 型船舶 操縦士免許 もとって、あ とは買 うばか りとなっ てか らが長かった。 ようや く気 に入 った ものが 見つかってついに実現 したのです。

さて命名、 これは楽 しい困惑で した。私 は子

供の頃から海の冒険にあこがれていました。少 年、海、冒険 とくればステイーヴンス ンの宝島 です。そうだジム 。ホーキンズ少年が乗って宝 探 しに出かけたあの船の名前にしよう。しかし、

その船名 ヒスパニオラというのは、カリブ海の 実在の島の名前です。せっか く夢を見るために つけるのに実在の名前はいけません。ではジム のお父 さんがやっている宿屋、最初にあの謎の 老船長がやって くる宿屋の名前「ベ ンボー提督 屋」か らア ドミラル・ベ ンボー としようか。 し か しこれも調べてみると、17世紀末のイギリス の実在の提督でした。

それでは実在 しないギリシャ神話にでも出て くる舟 は どうか。そ うだ、あのステ イクス河

(三途の川)を渡る舟ならどうか。読み返 して 見 ると、確かに沈 まない とは書いてないが、沈 む話 もない。 ところが、この舟には名前がない のです。 もしや、ダンテが「神曲」の中でこの 舟に名前を与えてはいないか。いなかった。仕 方ない、この河の渡 し守の名前でいこう。カロ ンだ。英語読みでケアロンと呼ぼう。その辺に い くらでもあ りそうな、あ りきた りの名前では ない。マリーナの陸置 き艇がず らりと船腹を見 せて並んでいる中で も、ひときわ異彩 をはなつ ことだろう。ほくそ笑んで家の者たちに話す と 一蹴。「いや よ、そんな縁起の悪いの」。一瞬 で却下されて しまった。「そんな暗いの じゃな くて、思いっきり明るいのにしましょうよ。ゴ ールデン・ラプチヤーというのはどう?」

実はこのゴールデン・ラプチヤーとは薔薇の

会社 の人達 にお披露 目

名前 なのです。関西 の女流詩人伊丹 公子 さん が、私の父村野四郎 を訪ねた ときの ことを随筆

「詩人の家」に書 いてい ます。「(略

)先

生 の部 屋か ら見 える庭 には、いつ も花が咲いていた。

ことに夏、薔薇 と紫陽花の開いた庭 は美 しかっ た。詩人はことに薔薇が好 きで、花名 をた くさ ん教 えて くださった。黄色の小ぶ りの花 び らを いっぱいつ けた薔薇 は 『黄色 の有頂天』。五月 の風 にゆ らゆ ら揺れていた。F有頂天 になって 咲いているか らね』 と詩人はいう。本当の名前 なのか、 詩 人 の命 名 なのか知 らない。(略)」

と。 これ は本 当の名前 で、 図鑑 には ゴールデ ン・ラプチ ヤー として載っています。

当家では一番学識のある人が決定権 を持つの ではな く、一番 明る く幸せ な人が持 っているの です。ボー トの名前 もそ うで した。

メデ ィアの世界の 変化

永 田

 

定期刊行物販売

国際政治の潮流変化 を反映 して、 メデ ィアの 国際 関係 に も大 きな変化 が生 じて い る。6月バ ルセ ロナで開かれた雑誌 の国際会議 に参加 して それ を痛 感 した。バ ルセ ロナの会議 はB2B、

ま り専門雑誌がテーマで、アメリカや欧州の有 力 な雑誌経営者が200人余 り参加 した。

大多数が西欧の有力 な雑誌出版社であったの は当然だが、 ウクライナやカザ フス タンなど従 来、 この種 の国際会議では見かけたことのない 旧ソ連地域か らの参加者 もあ り、いずれ も流暢 な英語で活発 に発言 していた。 ロシアか らの参 加者 も10人 いて、 ソ連崩壊 後 の世界 で は、 か つてのソ連 。東欧圏の出版社 と西側諸国の交流 が近年急速に進んでいることを示 している。

中国の参加が活発 になったことも大 きな変化 だ。バルセロナの会議 には中国期刊協会長初め

6人

が出席 して注 目を引いたばか りか、会議2

日目の朝 には中国の雑誌の対外関係 を説明する 特別の朝食会 も開かれた。それ もアメ リカのメ デ ィア・ ビジネスが会の後援者である。 この席 には欧米メディアの中国への関心の高 ま りを反 映 して、40人 あ ま りの雑誌 関係者が集 まった。

2000年 に中国のFIPP(国際雑誌連合

)加

入が 実現 して以来、中国雑誌関係者 と自由世界の交 流 が年 を追 って盛 んになってい る。95年 頃に は中国は

FIPPの

世界大会 な ど敬遠 していた こ とか ら見 ると、驚 くべ き変化である。

これまで雑誌の国際会議の際には「アジアか らは 日本が参加 していることを歓迎する」 と紹 介 されることが通例だったのに、今 回は初めて

「 アジアか らは中国、 イ ン ド、 日本が参加 して いる」 とアルファベ ッ ト順の紹介があった。バ ルセロナ会議 には 日本か らの参加が少 なかった ことも響いているが、従来の扱い と比べ ると若 干奇異な印象 を受けた ものである。

会議の発言のなかで、イ ン ドや ウクライナの ス ピーカーがぃずれ も近年の経済成長率の高 さ を強調 した こ とも注 目された。 イ ン ドが10億 人の人口を持 ち、かつ英語 を公用語 とする点で も欧米の出版 メデ ィアの関心が強 まっている。

言論 。出版の 自由はそれぞれの国の政治体制が 大 きく関係 しているので、大方の国が 自由世界 の ような状態 になることは、 もちろん当分見込 めない として も、近年の変化 は新 しい注 目すべ き潮流であろう。

一番明る く幸せ な人 と

役 に立てなかった杖

庭 山

 

慶―郎

金融業 一住宅 ローン

去 る4月16日の ことです。東京 国立博物館 で 開催 されていた弘法大師展 を見学 して帰宅の途 次、国電の上野公園回の階段 で右足 を引掛 けて 転倒 し、脳震盪 を起 し、一時意識不明にな りま した。左顔面 を地面 に強打 しましたので、鼻血 が飛 び散 り、ワイシャツが血染めにな りました。

意識は間 もな く回復 しましたが、通行の二人の 若い人に助 け られ、救急車 に乗せ られて病院に 運ばれるとい う、生れて初めての経験 をしまし た。わた しを介護 して下 さった人は、名前 も住 所 もわか りません。わた しが意識不分明な状態 で したので、尋ねる余裕がなかったのです。世 の中には本当に親切で善意の人がお られること をつ くづ く有難 く思い感謝 しています。

鼻頭か ら左顎 にかけて強い打撲 をうけました ので、唇の上部 を傷つけ、三針 ほど縫いました。

また上歯一本 を失い、 自慢の人七二人 (八十七 才で 自分の歯が二十八本 あること

)は

八七二七 にな りましたが、それ以外 には、手足 の骨折 も な くてすみ ました。

しか し衝撃 による脳の損傷が′い配 にな り、早 速友人の順天堂医院の石井前院長 に電話 を し、

脳外科 の新井教授 の担 当で、

CTと MRIの

精密 検査 を受けましたが、衝撃の部位が脳か ら遠 い 部位であった ことが幸い し、脳 の損傷 は全 くな い とい うことで した。お まけに、八十七才の脳 に しては若 く、白い斑点がほとん どない と、ほ め られました。 こんなことがわかれば、 自信家 が ます ます 自信家 になると妻が困った顔 をして います。

順天堂の院長 を長 く勤め、現在 は顧間 となっ てい る石 井 昌三 さんは、59年 前、 わた しども 夫妻が原子爆弾 に遭 って広島の郊外 に疎 開 して

いた とき、偶然に同 じ家 に避難 して きて一緒 に 暮 した人で、当時はまだ京都大学の医学部の学 生で したが、戦後間 もな く脳外科の研究のため 米国に渡 り、 シカゴ大学で研鑽 を積 んだわが国 の脳外科のパ イオニアです。

危 ない原子爆弾に遭 った ことが良い友人 をも つ ことがで きた原因になった とい うことは「人 間萬事塞翁が馬」 とい うことで しょうか。

この春、わた しはロータリーか ら米壽の杖 を いただ きました。それは本当にタイ ミングのよ いご好意で したのに、強が りを言 って当 日その 折角の杖 を使 っていなかったために、 この災難 に遭 ったのです。「ザマ見 ろ」 と叱 られそ うで す。ですか らこの話 は、 ロー タリーの方 々には

「極秘」 といた します。

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