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This year's birthday will be the first one I will spend in Tokyo, because I was always away from Japan in August since I joined Tokyo RC in Duri

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(1)

姉妹クラブ

ワシントン

RCへ

子弟

2名

送り出し

1997年

7月

21日

∼ 8月 4日

植 田晃治君 (植

田新太郎君 ご子息

)

高橋健一郎君

(倉

田卓次君お孫 さん

)

手卜子

No.205* SEPttEMBER―

―一

-1997(季

報)

(2)

オロ

`しヽ

英国パブ リック

スクールの想い出

荒川 健夫 外国先物取引所 私 は昭和 12年 (1937年

)か

ら約

2年

間父 の仕 事 の関係 で ロ ン ドンで学校生 活 を送 った。父 は, 私 を体 学 まで させ て ロ ン ドンに連 れ て行 くべ き か大分迷 っていた ようだ。 その とき

,私

が英 国 で学校生活 を送 るこ とを強 く推 して くれたの は 祖 父米 山梅 吉 で あ つた。 私 は運 良 くロ ン ドンにあ るパ ブ リック ス ク ール (名前 はパ ブ リックで あ るが英 国で は私 立 の学校 で あ る

)の

一 つ

,創

立 1590年 とい う古 い 歴 史 を持 つセ ン ト ポール ズ ス クール に入 る こ とがで`きた。 英 国 のパ ブ リック ス クール の規律 の厳 しい さは よ く知 られて い る処 で あ るが

,私

に とって は想像 以上 の もので あった。 と言 うの は

,そ

れ まで 日本 で通 って いた学校 が

,独

特 の教 育方針 の下 に極 めて 自由な雰囲気 の学校 で あったか ら で あ る。 セ ン トポール ズ ス クール の制服 は

,上

級生 は黒 の上着 に山高帽

,夏

は麦 わ ら帽子 (所言胃カ ンカ ン帽

)で

,ス

テ ツキ又 は雨傘 を持 た な けれ ば な らなか った。 今 日で も

,ロ

ン ドンの街 の 中 で

,殆

ど濡 れ る心配 のない霧 又 は小 雨の時 で も ス テ ッキ又 は細 く巻 いた雨傘 をつ いて闊歩 して い る英 国紳士 を見 か け るこ とが あ るが

,パ

ブ リ ック ス クール時代 の躾 か ら生 まれたので あろ う。 寮生 活 は更 に厳 しい もの で あ った。 どん な に 寒 い冬 の朝 で も

,毎

日起床 と同時 に水風 呂 につ か らなければな らなかった。二 人一組 でバ ス ル ーム に行 き一人 は監視役 で あ る。 また

,合

同 自 習室での 自習の時間では

,隣

の友人に話かける の も

,監

督役 として上級生の中か ら選 ばれた生 徒の許可 を得 なければな らなか った。英 国では, 冬のい くら寒 い夜で も窓は少 しあけてお く習慣 がある。す き間風が入って余 りに も寒いので窓 を少 しじめ ようとした り

,勝

手 にベ ッ ドわ きの 引 き出 しか らスウェーターを取 り出そ うとす る と,その音で同室の監督役の上級生から「誰だ!」 と一喝 され るのであった。 この ような厳 しい教育が

,パ

ブ リック スク ールで今 日もなお行なわれているか否 かは知 ら ないが

,戦

前経験 したセ ン ト ポールズ スク ールでの きび しい生活が

,私

の人間形成 に少か らずの影響 を与 えて くれたことは間違 いない。 P.ボルガス S.A.M.(医薬 品販 売)

This year's birthday

will

be the

first

one

I

will

spend

in

Tokyo,

because

I

was

always

away

from

Japan

in

August since

I

joined

Tokyo

RC

in

1994.

During the

hot

summer

season

I

always

tried to

combine my vacation

with

some business obligations in Europe and

with

visiting

my

adult children who

live

in Germany and the U. S. respectively.

It

is since

many

years

my

happy

tradition

to

take

the

opportunity

of

my

summer vacation

and

travel

to

the

Salzburg

music

and

opera

festival in Austria.

On weekends

in

Tokyo

I

try

to

get

one day

out of this very

busy

city to

enjoy a round of

golf

with

my wife.

My wife

and

myself

are

(3)

programmes

which the Tokyo concert

halls

offer. We

enjoy the Japanese orchestras and

soloists as much as guest musicians

from all

over

the

world.

The

recent concert with

Maurice Andr"(trumpet),

his

children(trumpet and

oboe)

in

the

Suntory

Hall

sponsored

by our fellow Rotarian

Chris McDonald was

a

real

highlight

for

us.

ハチ公弁護

枝元 賢造 麦芽製造 鹿児 島の生 まれ育 ちで “西郷 どん

"の

影響 で もあ る まいが

,私

は生来 の大好 きで あ る。家 に 大 が いな い風 景 な ど考 え るこ とがで きな い。 わが家 にはい ま「キチ」 と「バ ン」 のプ ー ド ル兄弟がいて家族 と一緒 に仲 良 く暮 らしている。 15年 ほ ど前

,そ

れ まで飼 っていた犬 を交通事故 で亡 くして寂 しい ときに青 山のケ ンネルハ ウス でふ と見 か けて買 って帰 った。家 内 は

,衝

動買 いだ, と言 って怒 ったが

,そ

うい う家 内 も大が 大好 きだ。 北海道 に勤務 して いた頃 は

,こ

こで大 の牧場 をつ くろ うか

,

と本気 で考 えていた。家 内 も乗 り気 だ った。広 い ところでセ ン トバ ーナー ド, グ レー トデ ン

,そ

れ に ドーベルや ブル アスな ど を飼 って

,会

社 を卒業 した らこの大 たち と遊 ん で過 ごす。 どん なに幸せ だ ろ うか

,

と想像 した もので あ る。 この夢 は遠 の きつ つ あ るけれ ど, それで もまだ諦 め きってはいない。 そん な私 に とって この間, とい って もず いぶ ん前の こ とにな るが

,あ

る夕刊紙 の記事 は不愉 快 で あ った。忠大 ハ チ公 は忠大 で はない, とい う話 で あ る。渋谷駅 の近 くに焼 鳥屋 が あって, ハ チ公 はそ この主人が くれ る焼鳥 を目当てに毎 夕通 った にす ぎない

,

とい うので あ る。大 の こ とを よほ ど知 らない記者 が書 いたのだ

,

と思 っ た。 そ もそ も日本犬 は忠 実一路 が身上 の大 である。 い ったん これが主人だ

,

と決 め た らとこ とん従 う し

,た

とえ他 の人が 自分 の もの に しようと し て どんな にお い しい餌 を与 え ようと

,決

して主 人 を変 え るこ とはない。 これが洋犬 とな る と事 情 は違 う。お い しい餌 を くれ る人 を主人 に選 ぶ, そん な合 理精神 を持 ってい る と

,あ

る本 に書 い て あった。 その本 には

,

ドッグマ ーケ ッ トに 日 本 犬 の成大 が いな くて洋犬 ばか りなの は

,こ

う した性質 の差 に よる ともあった。つ ま り

,主

人 を変 えるこ とので きない一途 な 日本大 は売 り物 にな らないわ けだ。 ハ チ公 は秋 田大 であ る。れ っ きとした 日本犬 で あ る。来 る 日も来 る 日も帰 らぬ大学教授 を駅 で待 った。 その健 気 さを賞でて焼鳥 を差 し入 れ る人 はあったか も知 れ ないが

,ハ

チ公 はそれが 目当てで はなか った。 ず いぶ ん前 の ゴシ ップ記事 を しつ こ く覚 えて いてムキ にな っているのは どうか と思 うけれ ど, この大好 きは大 の こ とにな る とつ い力が入 って しま う。ハ チ公 の名誉 の ため に弁護 を惜 しまな いので あ る。

異而協和 の実感

! 弦 間 明 化粧 品製 造 5月17日

,毎

日新 聞社 が主催 す るオペ ラ「忠 臣蔵 」 の初演 が あ る とい うので

,東

京文化 会館 に出か け ま した。 このオペ ラは

,三

枝 成彰氏 の 作 曲 に よる もので

,氏

の悲願 と して

,グ

ローバ ル に通用 す る「オペ ラ」 を と

,そ

れ こそ

,構

想 10年 とい う大作 です。忠 臣蔵 ですか ら

,討

ち入 りまでの筋立 て を縦軸 に

,彩

りと して

,義

士 た ち との悲恋物語 の組 み合せ で展 開 します。 そ こ には

,世

界公 演 を意識 させ るスケール の大 きさ が十分感 じられ ま した。 同時 に感 じたの は舞 台

(4)

の一体感 というもので

,出

演者のみな さんは, 大変熱が こもっていました。特 に

,テ

ノール, ソプ ラノ

,バ

リトン

,バ

ス とそれぞれの歌手は 精一杯表現 し

,そ

れでいてバ ラバ ラにな らない のです。 これに

,オ

ーケス トラと

,コ

ーラスが 入 り

,舞

台装置 と照明 と衣裳 とで

,総

合芸術 と なっていま した。結局

,総

合芸術 をどう一体感 として見せ るか とい うことは

,公

i寅が成功 した か どうかを決めてい く上て, ものす ご く大事な こ との ように思 いま した。や っと公,寅にこぎ着 け られた ということもあ り

,私

,作

品的 にど うだ ということではな く

,大

切 なの は

,ハ

ーモ ニーなのだ と

,そ

の 日

,聴

き入 りなが らもオペ ラその もの とは少 し違 った感慨 も一緒 に味わせ ていただ きました。ハーモニー と言 うことでは, 例 えば

,和

音がそ うです。和音 とい うのは

,例

えば,「 ド・ミ・ソ」の和音であ ります。 この「 ド ・ ミ・ ソ」の

3音

,そ

れぞれに

,

しっか り音 を出さなければ, もう和音ではな くなって しま います。しか し

,

しっか り音 を出 して

,和

音が ちゃん とハーモニー となって響 きます と

,そ

れ は,美しい響 きを奏で ます。しか もそれは,「 ド」 で も「 ミ」で も「ソ」で もない「 ド・ ミ0ソ」 の和音であ ります。それぞれのパー トが

,そ

れ ぞれの特長 と強みを発揮 し

,あ

る時 は自己主張 もし

,あ

る時は競争 もす るが

,そ

れが シナ ジー 効果 もだ してい く

,そ

ういった「音 を出す」 こ とで

,独

自の和音 を奏で る。すなわち,「異而協 和」 とい う言葉 を強 く実感 した一 日で した。 こうした姿が

,こ

れか らのグローバル化の時 代 に大 きな原動力であ り続 けるのだ と思います。

日本人の

アイデンテイテイ

林 宏 S.A.M。 (銀行 一 信 託 銀 行) 去 る6月下旬 の週末 の 2日 間

,財

界 人 と政 治 家 の有 志10名 が 「 日本 の未来 を考 え る会 」 とい う学生 たちのフ ォーラムに参加 した。私 も誘わ れて

,そ

の有志の一人 として加わ り

,色

々 と深 く考 えさせ られ る得難 い体験 となった。 梅雨明け前 とはいえ

,当

日は晴天 に恵 まれ, 会場 となった代 々木の国立オ リンピック記念青 少年セ ンターの煤 けた集会室 は大変な暑 さだっ た。椅子 を車座 に して並べ

,ま

さに膝つ き合わ せ ての設営だが

,飲

ものの缶 を各 自の足 もとの 床 に置 きなが らという気 どらない集 まりだった。 私 たち社会人の有志10名は

,土

・ 日1程両 日の 日程 を糸田分 して

,各

2時

間宛のセ ッシ ョンを 受持つ ことになった。 学生 たちが この会合 に期待 していたのは

,ア

メ リカでは副大統領 も個人 として出席 して開か れ るとい う「ナシ ョナル・ スチューデ ン ト・ リ ーダーシッフ゜0フ ォーラム」の ような会合 に し てい きたい。そ して

,社

会の各分野で リーダー の立場 にある人々 との直接のコ ミニケーシ ョン を通 じて

,ジ

ェネ レーシ ョン・ギャップ を埋め, さらには友情 と信頼 を築 いていこうということ だった。 今回

,学

生 たちが事前 に討論のテーマ として 示 して くれたのは,「若者 に何 を期待す るのか」, 「家族や世代間の コミニケーシ ョン不足 をどう 考 えるか」,「国際社会 における日本の役割 は何 か」

,ま

た「他国か ら見て魅力のあるアジヤ人 と して どう生 きるべ きか」な どである。 しか し, 実際 にはテーマには囚われず に

,出

来 るだけ 自 由に話合 いたい という注文だった。 私 はこのフォーラムの最初のセ ッシ ョンを受 持 ったが

,そ

こでは「 日本人 としてのアイデ ン テ ィテ ィは何 か」 という若者たちの熱 っぱい訴 えに直面 させ られた。彼 らは7つの大学か ら来 てこの合宿 に参加 していたが

,海

外留学経験者 や帰国子女 もお り,それだ けにこの問いかけは, 真実味 あふれ る彼 らの切 実な1当み として感 じら れた。同時 に

,わ

が国におけるこの問題の一筋 縄ではいかぬ深刻 さを痛感 した。 学生 たちの思 いには

,国

際社会の一員 として わが国が

,新

しい時代が要請す るグローバル・ スタンダー ドを受入れて行 けば行 く程

,

日本人

(5)

のアイデ ンテ ィティは次第に薄れるのではない か。 しか もわれわれ 自身が既 に日本人 らしさを 見失い

,

自国の歴史・文化・言葉な どについて の素養す らも貧 しくして了つている現実面の反 省 と憂 いを込めた ものだった。 こうした若者たちの真面 目で体験的な訴えに, 果 して私 たちの世代が これか らどう取組み

,手

応 えのある語 りかけを してやれ るのか。 こ ゝに も

,新

しい時代 におけるロータ リヤ ン のボランタ リテ ィ活動が強 く求め られているの ではなかろうか。

楊貴妃

2題

一真夏の夜の夢

度井 欽哉 S.A.M.(ホテルー リゾー ト) 昔 か ら世 界 の美女 の代表 と して 「ク レオパ ト ラか楊貴妃 か」 と云 われ て来 たが

,絵

画や物語 を通 じて両美女 共妖艶 と云 うイメー ジを抱 いて いた。 ところが丁度30年 前

,大

阪 に転勤 にな っ た時

,神

社 仏 閣 に熱′じヽな上 司 に連 れ られ京都 の お寺 を幾 つ か廻 った中 に

,四

条天皇 以来 と云 わ れ る皇 室 の菩提 寺 で あ る泉 湧寺が あった。紅葉 の名所東福 寺 の近 くにあ り天長年 間 に空海 が草 庵 を結 び 「法輪 寺」 と伝 われ たが後 に境 内 に泉 が湧 いて以来現在 の名 になった由

,仏

殿

,合

利 殿 の他 に楊貴妃観 音像 の納 め られてい る建物 が あ る。晩秋 の夕暮 にほのか に浮 び上 る像 を見 た 時 それ迄 のイメー ジ と全 く異 なった可愛 らしい, 玄宗皇 帝 もい とお し く思 ったで あろ う姿が あっ たの を記1意して い る。 この像 は唐 時代 の彫像 で 玄宗皇 帝が楊貴妃 の冥福 を祈 る為 に作 らせ た も ので700年 以上 も前 に湛海が南宗か ら持 ち帰 った と伝 われ る等 身像 だ。昭和30年 迄 は100年 に一度 しか公 開 され なか った と聞 いて い るだ けに案外 観 た人 は多 くない様 だが

,そ

の後再 訪 す る機 会 が ないだ けに是 非 もう一度拝観 したい と思 って い る。 もう一つ楊貴妃 にか ヽわ る もの と して、旅 の 思 い出に求 め た土産 の 中に楊 貴妃像 が あ る。10 年程 前北 京 を訪 れ た時 に宿泊 していた ホテル で 催 され て いた展示即売会 で買 い求 めた ものだ。 説 明書 に よれば これ は主 に中国の文芸伝 説 の主 人公や歴史上 の人物等 が生 々 と1合も生 きて い る かの様 に 自然 に表 現 され てい る「麺塑作 品」 の 一つ で

,現

在 中国で麺塑 製作 に従事 す る者 は極 め て少数 との事 だが,「麺塑」は中国の独特 な色 彩 を持 った民 間の伝統芸術 で大 変長 い歴 史 が あ り巧 妙且 つ繊 細 な造型 と美 しい色彩 が喜 ばれ て い る と伝 う。原料 も良 く判 らず値段 も安 い し台 坐 も粗末故何 れ腐敗変色 もあ るか な と思 って い たが10年 近 く経 って も変質 もな く色彩 も全 く鮮 や かで あ る。他 に歴 史上 の人物 もあったが 「ほ ろ酔 い加減 の楊貴妃」 と伝 う題 目に魅せ られ購 入 した品だ。題 目の通 り上 半身がや ヽ傾 いてい る感 じの像 で あ る。 中国の伝 統芸術 の奥深 さを 改 め て感 じて い る。「麺塑」につ いては未 だ製作 過程 が よ く判 らないが若 し亦 中国へ行 く事 が あ れ ば製 品 にお 目にかか りよ く調べ たい ものだ。

蛍イカの身投げ

今岡 ―容 公 証 人 一証 書 かつ て富 山に一年 ばか り勤務 していた ころの こ とだが

,あ

る席 で地元 の方か ら「蛍 イカの身 投 げ とい うこ とをご存 じですか」 と話 しか け ら れ た。 当時 は

,蛍

イカが生 きた まま東京 な どに 出荷 され る ようにな る少 し前 で

,海

中か ら引 き 場 げ られ る網 の 中で蛍 イカが青緑色 の幻 想的 と い うか

,神

秘 的 な感 じさえす る光 を放 つの を眺 め た り

,

と りたての蛍 イカ に舌鼓 み を打 つの は 地元 での特権 で あった。 この蛍 イカ は

,富

山湾 に多 く生 息 し

,毎

年3 月 ころか ら7月ころの漁期 には

,富

山市 か ら魚 津 あた りの沿岸近 くに定置網が仕掛 け られ るが,

(6)

この辺 りの海域 は「蛍 イカ群 遊海面」 として特 別 天然 記念 物 に指 定 され て い るこ とで も知 られ て い る。 しか し

,そ

の蛍 イカが身投 げ をす るな ど とい う話 は

,そ

の時が初耳 で あつた。私 は突然 の こ の謎 め いた話題 に興 味 を感 じた ものの, 自殺 の 意 図の点 は さてお き

,水

中か ら海面 に出た くら いで は身投 げに もな るまいにな どと想像 力 も弱 く

,見

当がつ きか ね た。 そ こで早 速

,教

え をこ うたのだが

,そ

れ はお お よそ次 の ような こ とで あ る。毎年4,5月 ころ にな る と

,産

卵 の ため に夕方 か ら夜 にか けて富 山湾 の沿 岸近 くに集 まって きた蛍 イカが波打 ち 際 まで寄 って きた り

,浜

に打 ち上 げ られ た りす るこ とが あ り

,こ

れ を地元 で は蛍 イカの身投 げ と呼 んでい るのだ とい う。 な るほ ど

,蛍

イカ は人 間の身投 げ と逆 方 向の 行動 を とるのだか ら

,擬

人化 して身投 げ ともい え るわ けで あ る。誰が言 い出 したのか

,そ

の機 知 に富 んだ発想 が面 白い と思 った し

,こ

う した 呼 び方 か ら も

,地

元 の人達 に とって蛍 イカが ど ん なに身近 な もので あ るかが うかがわれ るよう に感 じられ た。 実際

,こ

の身投 げが始 まる と

,た

くさんの人 が タモや照 明器具 な どを用意 して浜や岸壁 な ど に待 ち構 え

,打

ち上 げ られて くる蛍 イカ を競 っ て掬 い取 って

,賑

い をみせ る とい う。 それ が身投 げの救 助 なのか助勢 なのか とい っ たつ ま らぬ詮索 は ともか く

,最

,地

元 の方 か ら聞 いた話で は

,以

前 と比べ て身投 げが減 った そ うで あ る。 どうや ら原 因は環境 の変化 に よる もの ら しいが

,特

別天然 記念物 の海 域 に興 を添 え る蛍 イカ と地元 の人 々 との共演 に よる珍 しい ペ ー ジェ ン トが消 え

,蛍

イカの身投 げ とい う言 葉 が死 語 にな るこ とはないだ ろ うな と

,多

少気 が か りで あ る。

傘寿独語

井上 孝 S.A.M.(工学教育) 私 は

,こ

の夏 の誕生 日で満80歳 にな った。高 齢 が 当た り前 の 当ク ラブだ か ら

,や

っ と高齢者 の入 り口に辿 り着 いたか と考 えてい る。私 の戸 籍抄 本 には,「大 正

6年

7月30日北米 合衆 国ニ ュ ー ジャー ジー州 ウエス トフ ィール ド市ブルバ ー ド街 709番 戸ニ オイテ出生 」 と記載 されて い る。 歴 史的 な暑 さの夏 の夜 の明 け る早朝 で あった と 聞 いて い る。 掲 載 の写真 の三 階の 中央 の部屋 で私 は順 々の 声 を上 げた。爾来 80年

,此

の木 造家屋 は

,此

処 に建 ち続 けてい る。我 が国の住 宅 に比べ て

,耐

用年 数の長 い事 の身近 な例 として

,

日米住 宅の 比較 に引用 す る事 もあ る。此 の家 に住 む人 は, 大昔 に 日本人が住 んで いた こ とを よ く承知 して い る。私 の

3人

の子供 達 ばか りで な く

,勤

め先

(7)

の若 い面 々 も

,海

外 出張 の話 の種 に訪 ね る事が あ る。訪 ねれば写真 の ように喜んで くれ る。何 時 の頃か らか

,番

地 にあた る709が つ け られ た。 お陰で は じめての人で も

,す

ぐ目的 の家 を確 認 出来 るようにな った。 日本 もか くあ りたい もの で あ る。 我 が家 は私 が生 まれて半年 で

,

日本 に引 き上 げ た。商社 の社員 の娘 として

,小

4年

生 の と きか らニ ュー ヨー ク に育 ち

,私

の生 まれ たウエ ス トフ ィール ドのハ イス クール を卒業 し

,更

に 新 家庭 も此 の町 に持 った母 には

,思

い出の多 い 町 で あ ったろ う。此 の最後 の半年 に

,此

の家 は, 二 人の著 名 な 日本 人 を迎 えてい る。 それ は米 山 梅 吉先生 と野 口英 世 博 士 で あ る。米 山先生 は, 周知 の ご と く

,私

の生 まれ た年 の秋

,政

府派 遣 の特使 団の一員 と して

,ニ

ュー ヨー ク を訪 問 さ れ た。余暇 に

,三

井物産社 員 で あ った父 の家 を 見 舞 われ た。二つ年上 の姉 には

,大

きな 日本人 形 を下 され た と聞 いてい る。生 まれ て間の ない 私 の こ とは

,ご

存知無 か った と想像 す るが

,新

しい赤 ん坊 と してお 目通 りした こ とは確 かで あ ろ う。先生 は

,其

の後 グラス に赴 かれ

,三

井物 産支店 長 の福 島喜二次氏 の もとで

,正

月 を過 ご され, ロー タ リー・ ク ラブの こ とを承知 して, 帰 国 され るの で あ る。 私 の父 は

,任

地 で ゴル フに打 ち込 み

,

日本 の ゴル フ界の草分 け と言 われ るようにな り,また, 帰 国後 は

,三

井信 託 の社 員 と して

,米

山先生 の 御 薫 陶 を受 け

,当

ク ラブ会員 として も

,長

く御 厄介 をか けた。すべ て この709番 戸 か ら始 まるの で あ る。 野 口英 世博士 との関 わ り合 いは

,

もっ と簡 明 で あ る。夏 に生 まれ た 日本人の長男 に種痘 をす るため に来 宅 さたので あ る。博士 は当時 ロ ック フ ェラー研 究所 で研鑽 されていた。子供 の頃確 か にあった種痘 の痕 が

,今

は見 あた らない。 あ れ ば

,歴

史 的遺 産 と して

,国

費で保 護 され るべ き もので はないか と考 えてい る。博士 は後 にア フ リカで黄 熱病 の為 殉職 され

,マ

ンハ ッタ ンの 北 にあ るウー ドロウ ンの墓地 の

,正

門 に近 い特 別 な場所 に葬 られて い る。

園芸 もパ ソコン も

ハ ンデ ィ

24"

川 野 政 史 駅ビル経営 今年は 5月 頃か ら気候 (主に気温

)の

推移が 不順だった。初めは気温の低 い 日が続 いて雨が 多 く

,梅

雨にはいると急 に気温の高い 日が多か った。それ も35∼6度とい う,日 射 しの もの凄 く 強 い 日が。 こういうの を “不順

"と

言 っていい のか どうか気象庁的には判 らないが

,少

な くと も我が家の鉢植 えの育ち具合か らす ると

,平

年 といささか違 うと言 っていい と′思う。 特 にフウランの花が咲 くのが遅かった。園芸 フ ォーラム (東洋蘭の部屋

)の

みなさんが同 じ ような情報 を流 していたので

,私

の所だけでは ない ようだ。 で も

,そ

のフウランも時の経過 とともに

,順

調 に花 を咲かせ

,そ

して今では もうす っか り盛 りを過 ぎて しまった。 何時だ ったか大分前の本誌 に書かせ て貰 った が

,私

はフウラン

,ナ

ゴラン

,ウ

チ ョウラン等 の東洋蘭 (和蘭

)を

少 し鉢植 えで育てている。 その関係 もあって

,Nパ

ソコン通信の「園芸 フォ ーラム」 に参加 しているが

,全

国の愛好者の皆 さん と

,性

,年

,職

業 を問わず植物 に関す る情報 を交換 した り

,

自慢 の蘭 を宅急便で送 り 合 った りして交流 を深めている。 また時 には, 私 はまだ参加 したことはないが,“オフ"と称 し て一緒 に展示会 な どを見 に行 くこともあるよう だ。 そこには学校 の先輩・後輩や友達

,会

社の同 僚や部下

,等

とは全 く異なった分野の人間関係 が うまれ

,今

まで経験 したことのない友情や楽 しみがわいて くる。 このことはなに もランな ど 本直物 に限ったことではない。早 い話が

Nパ

ソコン 通信だけで も500以上のいろんなフォーラムがあ ると思 う。

(8)

中で も異色 は,「

MELLOW

フ ォー ラム」だ ろ う。 “メ ロー

",文

字 どう り “熟 した

"と

い う 意 味 で

,だ

いたい50歳 位以上 の メ ンバ ー を対象 に誰 で も参 加で きるフ ォー ラムで あ る。 フ ォー ラムの 中に20位 の部屋 が あ る。 自己紹 介 の部屋

,パ

ソコ ン初心者 の ための部屋

,コ

ー ヒーで も飲 みなが ら自由 に談論 す る部屋

,俳

句 や 文芸 の部屋

,健

康 や生死 をみつ め る部屋

,還

暦 を過 ぎた人 の部屋

,や

やパ ソ コ ン上 級者 の談 話 室等 々。 これ らの フ ォー ラム は何 の規制 もな く資格 も 要 らな いが

,只

一 つ

,当

然 の こ となが ら

,あ

る 程 度パ ソ コ ンを使 い こなす こ とが必要 だ。パ ソ コ ン と言 えば私 は現在

,パ

ソ コ ンで碁 を打 って い る。 イ ンター ネ ッ トを使 って国際的 に外 国の人 と 打 つ の と

,国

内だ けのネ ッ ト (当然 の こ とだが お相 手 は殆 ど日本人。)と二 つ の ネ ッ トワー クに 参 加 して い る。或 いは よ くご承 知 の方 も多 いか と思 うが

,前

者 は “パ ンダネ ッ ト

"と

言 い

,国

内の方 は複 数 あ って,私 はSと 言 うネ ッ トに参 加 して い る。 いずれ も会員制 で

,比

較 的安 い会 費

,通

信 費 で済 む ようにな って い る。 どち ら もパ ソコンが よ くで きて いて

,木

目の綺麗 な囲碁 に

,石

を打 つ と “カチ ッ

"と

言 う音 が して なか なか感 じが で て い る。 以 前本誌 で “ハ ンデ ィ24を 目指 してパ ソ コン を勉 強,"と 書 いたが

,実

は この フ ォー ラム に参 加 す るこ とと

,パ

ソ コ ンで碁 を打 つ こ と

,そ

れ に画像処 理 とそのプ リン トに 目的が あったので あ る。 蘭 (東洋 蘭

)も

パ ソコン もハ ンデ ィ24を 目指 してや って きたが

,最

,何

とか後 一歩 で所期 の 目的 を達成 で きるかな― とい う ところ まで来 る事 が 出来 た ような気がす る。

思ふ こ と

木 村 平 右 衛 門 S.A.M.(家庭用家具販売) 私 は田舎育ちで中学生時代 ですが

,父

母妹 と 共 に夕暮で暗い道 を散歩 して居 る時ワッショイ, ワッシ ョイ と大勢の声が して員近 に御輿が来 る のですが何 も一切見 えません。人間界の もので はないのでせ うか。 又古家 を求めて見 ると夜 になると

,わ

けのわ か らない灯が ともります。或 る時有名な高徳の 老師 に御越 を願い御回向 して頂 きました ら翌 日 か らす っか り出な くな りました。 そ して佛様 に讀経す る際に「此家先住諸生霊 位」 に回向す る様 に と教へて下 さいました。 色 々 とそんな話 は聞いてますが科学のみでは (現在 では

)わ

か らない事 も多々あることと思 はれ ます。或 る本では死んだ人が出て くる事 は 絶対 にない と云 って居 ります じ又人間の世界で わか らぬ世界が存在 して居 るのではないか と云 はれて も居 ります。 繹尊 は四苦 :「 生老病死」 として人 は死 ぬ と 云ふ事 を恐れ ますが,「従来生死相千せず生 は生 にまかせ

,生

々不生。死 は死 に任せ て死 々不死」 と名僧 より教へ られて居 ます。兎 に角佛 にお任 せす るより仕方がないのでせ う。山岡鉄舟先生 がお弟子が神社 に不敬 な事 をした時先生 は畜生 々々 と叱 られた と云ふ話 も残 って居 ります。 尊 いお話です。 先 日私 は歩 くことが出来 ないのでいつ もヘル パ ーについて居て貰ってますが我家の見へ る所 で倒 れ ました ら

,電

信柱 の上 に居 た作業 して居 る人が直 ぐ降 りて助 けて下 さいました。有難 い ことで した。ほん とうに。 又明治神宮崇敬会 と云ふ会があ ります。数 日

(9)

前大会の時耕士がお話 を始めた時老人の方で杖 を落 とされたそ うですが其時咄嵯 に立上 って杖 を老人 にお返 しされたそ うで

,そ

れ は総理で し た とか

,お

や さしい方だ とお客 に来た御婦人感 激 した様 で話 して くれて ま した。 ゑ らくなった方で も

,や

さ しい′しヽ

,衆

生 を愛 す る心 を失なはなければ世の中 も善い子 も育つ のではないでせ うか

,等

考へ ました。 私 も満九十六 にな りました。老 いの繰 り言 と して御一笑賜 らば幸甚です。

コン トラク ト

ブ リッヂの効用

木 下 正 利 化学装置製造 1954年 (昭和 29年

)4月

,同

期 入社 の 自己紹 介 の席 で,「趣 味 は トラ ンプ。」と

M君

が言 った。 「 トラ ンプ ?幼稚 園の生徒 み た いだ な あ。」誰 か が合 いの手 を入 れ る と

, 7並

べ やババ抜 きを思 い出 して皆 が どっ と笑 った。「 トラ ンプ と言 って も, コ ン トラク ト ブ リッヂ。東西南北 に四人 が座 り

,東

西・ 南北 が それ ぞれパ ー トナー にな り

,オ

ー クシ ョン (せり

)を

行 い

,一

番 高 い コ ン トラク トで落木Lし た人が親 にな り

,親

のパ ー トナ ーの手 を公 開 し

,そ

の公 開 され た手 と

,オ

ー クシ ョンを通 じて得 た情報 を基 に

,他

の 人の 手 の 内 を想像 し

,構

想 を樹 て

,親

は コ ン トラク トを達成 しよう と

,敵

方 は コ ン トラク トを失敗 させ よ とプ レー し

,そ

の結果 に よって得 た得 点 の大小 で成績 を争 う国際′性豊 かで

,非

常 に知 的 なゲ ー ムで あ る。」 と

M君

か ら解 説が あったが, 日本 コ ン トラク ト ブ リッヂ連盟 が

,高

松 宮 宣 仁殿 下 を名誉総裁 にお迎 え して,loo名 足 らずの プ レーヤーで発足 したのが,その5ケ月前の1953 年11月だ か ら

,同

期 の連 中が

,当

時 コ ン トラク ト ブ リッヂ を知 らな いの も無理 はなか った。 それ か ら43年

,現

在 日本 コ ン トラク ト ブ リ ッヂ連盟 の会員 は約6000人,クラブ数120と 成長 し

,昨

年11月

,鹿

賀丈史

,風

間杜夫

,池

文雀, 風 吹 じゅん主演 の

NHKテ

レビ番組「我 らの放課 後 」 に コ ン トラク ト ブ リッヂの場面 が 出て く る程

,

日本 で も普 及 して来 たが

,世

界 ブ リッヂ 連 合加盟 国100ケ 国

,世

界 ブ リッヂ人 口

1億

人, 1国当 り平均 プ レイ人 口100万 人か ら考 える と, 日本 でのブ リッヂの普及度 は まだで あ る。 入社

2年

,は

か らず も

,M君

の職場 に配転 にな り

,同

君 に教 わ った人達 が

,ブ

リッヂ に熱 中 して い るの を横 日で見 て い る うち に

,い

つ し かや り方 を覚 え

,段

々ブ リッヂの魅 力 に と りつ かれていった。 当時造船所 の営業 の仕事 に従 事 して いたが

,船

の検査機 関で あ る米 国船級協会 や ロイ ド船 級協会等

,外

国人 の メ ンバ ー と造船 所 の営業・技術 のメ ンバ ー とで定期 的 に対抗戦 を行 い親 善 を深 め た り

,そ

の後 の ノル ウ ェー駐 在 員時代 に も

,現

地 の人達 とのブ リッヂ を通 じ て交遊 を深 め た り

,偶

然 党 えたブ リッヂが思 わ ぬ所 で効用 を発揮 した。 アル ツハ イマ ー病 の予 防 には

,脳

と指 先 を出来 るだ け使 うのが良 い と 聞 き,今 は,機 会 を見 つ けて は コン トラク ト ブ リッヂ を楽 しみ

,そ

の効用 を実験 中で あ る。

EASTERN&ORIENTAL

EXPRESS 2日

FHlの

松 尾 昌敏 S.A.M.(家庭紙製造) シ ンガ ポール

,ケ

ペル ロー ド駅 を午後

3時

に 発車 したイース タ ン

&オ

リエ ンタル エ クスプ レ ス号 は

,私

達 が涼 しい室 内で一 虚、入 れ てい る間 に

,早

くもジ ョホール海峡 を渡 リマ レー シアの 熱風 の 中 を北へ 向 って突 き進 んでい る。 キ ャビンの ドアが ノ ック され てスチ ュワー ド が入 って来 た。捧 げ持 つ大 きなお盆 をテーブル に置 くとア フタヌー ンテ ィー と焼菓 子

,フ

ル ー ツ ジュース を並べ て

,先

づ 自己紹介 をす る。 ミ ッタ くん とい う

,少

年 の よ うな タイ国人 で

,こ

の車輌 にあ る

4室

の ス テー トキャ ビンが彼 の受

(10)

持 ち とい う。 室 内 には, ゴブ ラ ン織 りの ゆ った りとした ソ フ ァーが二列 に並 び

,夜

にはそれが ツイ ンのベ ッ ドにな る。寄せ木細工 の壁面 に囲 まれた一 隅 には

,蘭

の花や トロ ピカル フル ー ツが盛 られ た テーブル が あ って

,な

か なか豪華 な雰 囲気 だ。 入 回のす ぐ横 の ドア を開 け る と

,洗

面所

,そ

の 奥 が シャワール ーム にな ってお り

,列

車 全室 シ ャ ワー付 き とい うの は世 界 で も珍 しい とい う。 夜

6時

半 デ ィナ ーの時 間

,ダ

ー クスー ツに着 替 え レス トラ ンカーヘ移 る。まだ窓外 は明 る く, 延 々 と続 くオ イルパ ームのプ ラ ンテー シ ョンを 眺 め なが ら

,上

質 の フ ラ ンス料 理 を一流 レス ト ラ ン並 の雰 囲気 の 中で堪 能す る。 夜 11時 半 クア ラ ンプ ール着

,約

30分 間停車 す るので

,家

内 とプ ラ ッ トホーム を歩 いてみ る。 熱 帯 の夜 は さす が に風 も爽 や かだ。 翌朝

,

ミッタ くんが朝 食 を部屋 に運 んで くれ る。冷 たい搾 りたてのマ ンゴジュースが殊 の外 美 味 だ。

9時

バ ター ワース駅着

,バ

ス に乗 り替 えその ままフ ェ リーでペ ナ ン島 に渡 る。植 民地 時代 の面影 を残 す ジ ョー ジタウ ンの 中′じヽ街 をバ スで巡 り

,最

後 は トライ シ ョー

(2人

乗 り輪 タ ク

)で

見 物 す る。列 車 に戻 る と丁度昼 食 の時 間 にな っていた。

2時

す ぎ

,国

境 の駅パ ダ ンベ サ ール着

,タ

イ 入 国手続 の ため斬 く停止 してい る間 に

,ゆ

っ く リア フ タヌー ンテ ィー を楽 しむ。 夕方 デ ィナ ー の前 にサ ロ ンカーで タイダ ンス を見物

,豪

華 な 民族衣 装が 印象 的だ った。気がつ くとサ ロ ン, バ ー, レス トラ ン各車輌 にい るスチ ュワーデス の月及装が

,マ

レー シア風 か らタイ風 にいつ の間 にか着 替 え られて いて

,な

か なかの′しヽ尽 しだ。 翌朝

,

日の 出前 に列車最後 部 の展望車へ 出て み る。 ここだ けは外気 に直接 さ らされ てい るの で

,エ

ア コ ンの きいた車 内 と違 って

,朝

の空気 がすがすが しい。

7時

に朝食 を済 ませ て間 もな く

,ク

ワイ川鉄橋近 くの駅 で下車

,大

型 の ボー トで河 を下 り

,秦

縮 鉄 道 の建 設工 事 で亡 くな っ た連合 軍兵士 の墓地 に詣 で

,カ

ンチ ャナプ リ駅 で再 び列車 に戻 る。 シャワー

,昼

,荷

物 の整 理な どをす ませ

,一

息つ いた ところで

,バ

ンコ ク中央駅 に到着 した。二昼夜ゆっ くり楽 しませ て くれた列車 ともこれでお別れだ。 ミッタ くん はいつ迄 も手 を振 って くれていた。

シ ャ ンパ ンの 話

壬生 基博 ホ テ ル ー シ テ ィ 新 聞でシャンパ ンが売れているという記事 を 目に しま した。 日本のシャンパ ンの年間消費量 は10年前 にや っと50万本 を超 した ところだった のが,この

1年

間で236万本 と急速 に伸びた との こ とです。バブル経済華やかな時期で も150万本 で したので

,驚

異的な伸 び を示 しています。そ れで も世界 と比較 します と, 日本 は

7番

目の消 費国 になったばか りで

,本

場のフランスが 日本 の100倍

,2位

の英国が10倍も飲 んでいるそうで す。 いずれにせ よ

,シ

ャンパ ンの魅力は

,細

かい 気泡が醸 し出す

,え

もいわれない豊潤 な香 りと テース トにあると思 います。食前酒・食 中酒・ 食後酒 として も

,デ

ィナーの最初か ら最後 まで 通 して もよいお酒であ ります。なん とも華やか な, リッチな気分 に して くれ るお洒落なアル コ ールです。 よく乾杯 に使われ るのはそのせ いで はないで しょうか。 英国の仕事場では

,

自分 の誕生 日や子供 が生 まれた りな どの嬉 しいことがあると, 自分 か ら 葉巻 をプ レゼ ン トした り

,お

酒 な どを仲 間にオ ファーす る習慣 があ ります。その時

,一

番喜ば れ るのが シャンパ ンで した。昼休 み

,大

酒飲 み の英 国人スタ ッフのために

,重

い荷物 を抱 えて オフィスに戻 って きたの を思 い出 します。そん なシャンパ ン好 きの英 国人 に誠 に残念 な飲 み方 があることに気付 きま した。 ロン ドンのボン ド ス トリー トに

,ア

スプ レイ といわれ る皇室御用 達の高級雑貨屋があ ります。そこである時

,何

(11)

に使 うか皆 目見 当がつかない不思議 な物 を発見 しま した。小 さな棒の先 に丁度お茶の道具であ る茶究の竹が逆 に反 っている銀製品です。 これ はシャンパ ンマ ドラー というシャンパ ンの泡 を 飛 ばす道具だったのです。食事の最後の方で, 残 った炭酸 を飛ば して飲 むためだそ うです。 し か し

,気

の抜 けたシャンパ ンはどうも飲む気が しません。英国人がなぜ その ような道具 を発明 したのかは定かではあ りませんが

,泡

の立たな いビールのエールや ビターを好むか らか もしれ ません。せ っか くあの細かい細かい泡 を作 るた めに長い間寝かせて熟成 をさせている苦労が一 瞬 に して,それ こそ水の泡 になって しまうのは, 大変 もったいない話ではあ りませんか。 私 とシャンパ ンとの出会 いはかれ これ30年以 上前に湖 りますが

,不

思議 なことにシャンパ ン の価格 は昔 より安 くなっていて

,フ

ァンとして は嬉 しい限 りです。 これか らの季節

,夜

の爽やかな風 に当た りな が ら

,シ

ャンパ ングラス を傾 けるの も一興か と 思 います。

少年犯 罪 に思 う

森永喜久雄 アー ト紙製造 神 戸市 の小学 六年生

,土

師 (はせ

)淳

君 殺 害 事件 で逮捕 され た容疑 者 が

,中

3年

生 の15歳 の少年 で あった こ とに

,世

間の人 々 は一様 に驚 きと恐怖 を感 じま した。梶 山官房 長官が この事 件 を契機 に少年法 を見 直 す必要 が あ る との見 解 を出 され

,一

方 で この一事 を もって少年 を更生 させ る保護法 を変 え るの は行 き過 ぎだ との反対 意見 も報 じられ ま した。 少年逮捕 の

TV報

道 を聞 いた とき,そ ばにいた 中学

2年

生 の姪 がす か さず こ う言 い ま した。「 こ の犯 人 は頭 が いいわ。今 の 内な ら大 した罪 にな らない こ とを知 ってい るのね」 と。 この言葉 を 聞いて私 は再 び`1号然 としま した。 これ までに も

,類

似 したら巳罪は数多 くあ りま した。今流行のい じめに して も

,援

助交際や盛 り場 に屯す る少年少女の群 に して も

,こ

の まま でいい とは誰 も思 ってはいないで しょう。 しか し

,優

しく補導す るだけで本 当に事 は解決 して い くので しょうか。今回の犯罪 を犯 した少年 も

2年

後 には社会 に復帰 して くることになるわけ ですが。 今の子供達は成長が早 い し

,そ

れ以上 にマセ ています。しか し何 か大事な ものが足 りないの ではないで しょうか。断定的な表現 にな ります が

,今

の少年達 には幼い頃か ら生 きてい くため に守 るべ き躾 けの漏Jり込みが出来ていない と思 うのです。基本的なルールが教 え込 まれていな い ような気がいた します。更 に

,大

人の方 には 躾 けのために叱 ること

,罰

を与 えることが必要 だ という意識が希薄なのではないで しょうか。 自由 も人権尊重 も犯すべか らざる大切 な もの です。 しか し一国の国民 として, また夫々の属 す る社会集団の一員 として守 るべ き法やルール を守 った上での 自由であ り人権尊重であって, 決 して無条件 の ものではないはずです。そ して ルール違反 にメ寸しては厳 しい市J裁がなければな らない と思 うのです。強い罰則の持つ効果 とい うことも大切 です。家庭 も学校 も少年法 もこの 辺が非常に甘 いのが現状ではないで しょうか。 私は梶 山長官の意見 に賛成です。 少年法 にか らんで種 々申 しましたが

,今

の 日 本の大人の世界で もルール違反や法の無視や抜 け道探 しが多す ぎるように思われ ます。社会的 なルール を大切 にす るのは当然 として

,そ

れ を 強制す る強い何物か も必要 なのではないで しょ うか。

(12)

漢字文化圏で進む

横書 きの潮流

永 田 晨 S.A.M.(定期 刊 行 物 販 売) 近 隣の 中国や韓 国で は

,横

書 きの潮流 が定着 し

,そ

の傾 向が強 まってい る。7月半 ば に ソウ ル を訪 問 した際

,こ

の こ とを痛感 した。 韓 国で は1989年 に創刊 した新 聞「ハ ンギ ョレ」 紙 が横書 きを採 用 した後 ,92年 以 降有 力紙 の「中 央 日報 」 が部分 的 に横 書 きを導 入

,95年

には全 面 的 に移行 した。 その後

,同

紙 の横 書 き移行 の 成功 を見 て,「 京畿 日報 」や「毎 日経済新 聞」も 横 書 きに移 り, さ らに他 の有 力紙 に もこの傾 向 が波 及 してい く方向 にあ る とい う。 漢 字文化 圏の 出版物 が縦 書 きか,横 書 きか は, ジャーナ リズムの世 界 で働 くもの に とって

,興

味深 い問題 で あ る。 ソウル滞在 中 に韓 国の知人 Sさ ん に この傾 向 につ いて尋ね た ところ,「ソウ ル の大 きな書店 で確 かめて見 た らどうですか」 と,「 キ ョー ボ」書店 に案 内 して くれ た。 ソウル最 大 の書店 に入 って驚 いた。 ビル の地 下一 階が売 り場 だが

,東

京 で も

,ニ

ュー ヨー ク で も見 た こ とが ない ような巨大 な書店 で あ る。 売 り場面積 はワン・フロア8,900平方 メー トル(約 2,700坪)との こ とだ。店 内の雑誌

,書

,そ

れ も文学

,小

,技

術 書 な どいろ いろの コーナ ー を見せ て もらった ところ

,横

書 き一 色 で あ る。 日本 の 「徳川 家康 」や 「太 閤記」 の翻訳 も横 書 きな ら

,中

国の古典 の「論 語」も横 書 きで あ る。 雑 誌 もすべ て横 書 きで

,縦

書 きの雑誌 は

,熟

年世代 を対 称 に した 「月刊朝 鮮 」 と「新 東亜 」 の二誌 くらいに過 ぎぬ とい う。 それ とともに印 象 的 だ った こ とは

,書

籍 の文 字 は

,ほ

とん どす べ てハ ングル文字 で

,漢

字 は例 外 的 に しか使 用 されて いない。 一 方

,漢

字 の本 家 の 中国で は

,新

中国 にな っ てか ら

,教

育の普 及 の狙 い もあ って

,漢

字 の簡 略化 が推 進 され て,「 簡体 字」が導 入 され

,そ

れ とと もに横 書 きが採 用 され て

,新

聞 も雑 誌・ 書 籍 もすべ て横 書 きで印刷 されてい る。 中国の代 表 的 な新 聞 「人民 日報」 も横書 きで あ る。 昨年夏 に北京 を訪 問 した際

,聞

いた ところで は

,定

期 刊行物 で縦書 きの もの は

,対

外 的 な刊 行物 の二種 が例 外 的 にあ る くらい との こ とだ っ た。 この ように見 る と

,わ

が 国 に漢 字 を もた らし た元祖 の 中国

,そ

して韓 国 と

,つ

ま り漢 字文化 圏の国 々が横 書 き体制 に移行 して い るわ けで あ る。 これ は両 国の事情 に詳 しい人 に とって は, 旧間 に属 す る話題 か も知 れ ないが

,ワ

ープ ロ, パ ソコンの普及で横書 きの傾 向が強 まってい る わが国の材平来 に とって

,注

目すべ き潮流 といえ るの で は あ るまいか。

思 い出の昭和 12年

庭 山 慶 ―郎 S.A.M.(住宅 ロー ン) この9月 でわた しは80才 にな ったが

,昭

和12 年 を境 に して

,始

めの20年 は大 阪 で

,後

の60年 は

,奈

良 で一 年

,広

島で二 年 過 した ほか は

,す

べ て東京で暮 した。 この20と 60計 80と い う偶然 の三つの ラウ ン ドナ ンバ ー は

,わ

か りや す く計 算 しや す いので, ゴル フ場 でわた しの年 を尋 ね るキ ャデ ィに

,こ

の足 し算 を「強制」 して笑 わ せ て い る昨今 で あ る。 わ た しが大 阪か ら東京へ生活 を切 り替 えた昭 和 12年 とい う年 は

,わ

た しは勿論 の こ とこの国 に とって も大 きい意味 を もつ年 とな った。 この 年 の4月

,わ

た しが大学 に入学 し

,喜

び勇 んで 上 京 し

,本

郷 で下宿生 活 を始 め た ころ は

,

日本 経済 は大正末 か ら昭和 の始 め にか けて10年 以上 続 いた不況 か ら脱 出 し

,戦

前 と して は最 高 の繁 栄 にあ った。軍 国調 は まだ な く

,東

京 の街 か ど の カ フ ェーか らは

,東

京行進 曲

,東

京音頭 の軽

(13)

快 な リズムや 「忘れ ちゃいや よ」 とか 「あ― そ れ なの に」とい った甘 いメ ロデ ィが流 れて きた。 兵 隊 に徴 られ る心配 は学生 にはなか った。昼 は 講義 に耳 を傾 け,夜 は下宿 で友人 と青春 を語 り, 時 には喫茶 店 で コー ヒを飲 み なが ら

,ベ

ー トー ベ ンや シューベル トを楽 しんで いた。 それ は天 国だ った。 7月

,夏

休 みで父母 の待 つ大 阪 に帰 るこ とに した。 この とき東海道線 は珍 らし くないので, 先ず 中央線 で松 本 まで

,そ

こか ら私鉄 とバ ス を 乗 りつ いで上 高地 に向 い

,河

童橋 際の五 千尺 と い う名の旅館 に泊 った。 その ころ この辺 りは ま だ 電燈 が な く,ランプ の あか りで夜食 を とった。 次 の 日の朝

,熊

ざ さをか きわ けなが ら

,安

房 峠 を越 えた。五万分 の一 の地 図 を片手 に険 しい山 道 を一人 で行 くの は気味が悪 か った。や っ との 思 いで平場 に辿 りつ き

,温

泉 で

,保

養 して い る 村 の爺 さんや 婆 さん とと もに一風 呂浴 び

,鉄

道 バ スで高 山に出た。 午後

3時

,高

山駅 で下 呂行 きの列 車 を待 っ て い る と

,突

,新

聞 の号外 を くば るチ ンチ ン とい う音が きこえて きた。 それ を買 って読 む と 「直溝橋 で 日支両軍衝 突」 とあ るで はないか。 これ は大変 な こ とにな った と思 ったが

,そ

れが 日本 を後戻 りす るこ とがで きない

,収

拾 がつ か ない泥 沼 に引 きず りこむ 出発点 になろ う とは, 当時 は誰 も考 えなか った。 その 日は昭和 12年7 月 7日

,正

に運命 の 日で あったので あ る。 下 呂で は予約 して いた山田旅館 に泊 った。東 大 の学生 さん とい うこ とで

,女

中 さん た ちのサ ー ビスが大 変 よか ったので

,つ

い よい気分 にな って酔 っ払 って しまい

,東

の空の 自むの も知 ら なか った。昼 前

,旅

館 を立 ち

,岐

阜 に出て

,大

阪 に帰 つた。 60年 昔 の若 き日の忘れが たい思 い出で あ る。

カム リーバ ンク

太 田 清文 印鑑・ 花押制作 6月の グ ラス ゴー国際大会 に参 加 した折

,エ

デ ィンバ ラに立 ち寄 り

,ポ

ール・ハ リス夫 人の ゆか りの地 を訪 ねて きま した。 昨夏

,シ

カ ゴで開かれ たP・ハ リス没後50回 忌 式典 の際 に

,彼

が ジー ン夫人 と共 に晩年 を過 ご したカム リーバ ンク邸 も見学 しま して

,世

界 中 の ロータ リア ンを集 め た この美 しい館 は

,英

国 生 まれの夫 人 の故郷 にあ る街路名 に因んで名付 け られ た こ とか ら

,こ

の機 会 に本 当のカム リー バ ンクを是非

,確

かめ たか ったのです。 RIが作 成 したエデ ィンバ ラの市 内案 内パ ンフ には

,ジ

ー ン夫 人の生 家 と墓地 が地 図入 りで紹 介 され て い ます。 しか し

,こ

の生 家 はカ ンバ ー ラ ン ド街

9番

地 にあ り

,こ

れ を示 す米 セ ン トル イス

RCの

記念 プ レー トが掲示 されてあるものの, 生後 間な く移転 したため

,あ

の カム リーバ ンク とは別 の建物 で した。 ジー ン夫 人が こ よな く愛 したカム リーバ ンク は

,市

中心部裏 の生 家 か ら西 に2キロの静か な 住 宅街 にあ ります。彼女 が青春期 を送 り,P・ ハ リス死去 (1947)の

8年

後 に故郷 に戻 って82歳 で死去

(196301109)す

るまでの

8年

間 を過 ご したアパ ー トが

,今

も残 って い ま した。 市 内最大 の イ ンバ ー リース公 園近 くの緑 の濃 い丘 陵地 で

,英

国の古都 にふ さわ しい街 路 は, ジー ン夫人 の思 い入 れ を忍 ばせ て くれ ます。窓 の大 きい西 向 きの

4階

建 て に

8軒

の住 人が入居 してお り

,RIが

プ ライバ シー を配慮 して公表 を 避 けた理 由が わか りま した。 市 の南東7キロのニ ュー ウ ィン トン墓地 に も 家 内 と共 に

,墓

参 に行 って きま した。 国際大会 直前 の6月 7日に,ジア イRI会長 がRI役員 を伴 って墓参 してお り

,墓

地 入 口には真新 しいプ レ

(14)

― 卜や案 内標識 が あ り

,ジ

ー ン夫 人の眠 る墓 は 鮮 や か な花 々 に包 まれて い ま した。 墓石 には,「 ポール・ハ リスの未 亡人 ジー ン ・ トム ソン」 と刻 まれ

,実

弟 の ジェイムス・ ト ム ソ ン (1970死 去

)と

埋葬 して あ るこ とが記 さ れ て い ま した。 RIのパ ンフには

,ジ

ー ン夫 人が亡 くな る1年 前 に地元 エデ ィンバ ラ

RCの

創 立50周 年記念 パー テ ィー に訪 れ た こ と,「 私 の葬 式 は身 内だ けで」 と遺 言 して いた こ と

,彼

女 の甥(ロー タ リア ン) が この墓守 を して い るこ とな どが

,紹

介 され て い ます。 昨年 はP・ハ リスの墓参 を して

,な

ぜ夫婦 が一 緒 に埋葬 され て いな いの か

,ジ

ー ン夫 人が どう して故郷 に帰 つたのか… と

,疑

間 に思 ったので すが,夫 が 自分 の記念 碑 を好 まなか った ように, 妻 も夫 の偉 業 に振 り回 され るこ とな く

,遠

くか ら静 か にロー タ リーの発展 を見つ めて行 こ うと した気遣 いに よる ものだ ろ う と

,ス

コ ッ トラ ン ドの涼風 が吹 き抜 け るカム リーバ ンクの街 路 を 眼 に して

,初

めて納得 したのです。 グラス コー大会で,今年 も

RHHIF日

本 支部会員 と して受イ寸係 を しました。 ジー ン夫人のお墓。Rl会員が捧 げた花 で明 るい雰囲気 に 満 ちてい ました。 ジー ン夫人 の 実家 があ ったカム リーバ ンク街 の アパー ト。 シ カ ゴの カム リーバ ンク邸 と同様 に人手 に渡 り,RI案内 書 に記載 され て い ませ ん。

(15)

エ デ ィンバ ラの ジー ン夫人 の生 家。現 在 は 空 き家 で,中央 白壁 に案 内 プ レー トが あ ります。 ͡ 時

,

自分 の若 か りし頃の教 育が如何 な る もので あったか を回顧 してみて前記 の校 〕1が 青少年時 代 に心掛 け るべ き事 と して

,実

に「簡」 に して 「要」 を得 て い る事 に今更 の如 く感服せ ざるを えな い。 今考 えれ ば毎 日の 中学生活 の 中で単 に「五則 」 を言葉 の 目標 と してのみな らず毎 日の行動 に於 て も厳 し く求 め られていた事 にそれ ほ ど違和感 も抵抗感 もな く之等 を是 と して いたの は之等 が 至極 「あた りまえ」 の事 を示 され ていたか らか も しれ ない。 時代 の風 潮 の差 が あった に して もこの 「あた りまえ」の訓 えに価値観 を見 出 し

,そ

れ な りに 青春時代 を過 し得 たの は率直 に良 か りし時代 で あ った と認 め ざるを得 ない。 年 を重 ね るに従 って其 の感 を深 くしてい る次 第 で あ る。

全 体 と部 分

鈴木 和夫 S.A.M.(商業印刷) この頃の若 いお医者 さん は

,聴

診器 をあてた り

,脈

を とる よ り

,検

査 に よるデータで患者 の 病 気 を診 断 しがちだ との話 を聞 いたこ とがある。 デ ジタル技術 やバ イオ・ テクノロジーの発達 に よ り,医 学 は近年素 晴 ら しい進 歩 を遂 げて い る。 その お陰 で

,多

くの病気 が治 って

,生

命 を と り とめ る人が大 変 に多 くな った こ とは

,有

り難 い こ とだ と思、ってい る。 しか し

,私

,最

,病

人 と病気 とは一 寸違 うの で はな いか とい うこ とに気 がつ いた。 医学 の発達 に よ り医師 の専門化 が進 む につれて

,医

者 と しての守備範 囲 はその専 門部分 につ いて は 深 くな るが

,全

体 と して は狭 くな る。 その “狭 くな る

"が

,患

者 に とって は “曲者

"な

の で あ る。昔 は一人 の信 頼 す る内科 のお医者 さん に, な に もか も本目談 した。 そ して

,大

抵 の病気 の診

中学 時代 回想

佐伯 孝 S.A.M.(製粉) 「一、 体 を練 り気 を養 い

,以

て遠大 の志 を励 ます こ と。 一 、 陰 を1昔み労 に服 し

,以

て学習の務 を尽 くす こ と。 一 、 倹 を崇 (タ ッ ト

)び

約 に よ り

,以

て質 素 の風 を守 るこ と。 一 、 師 を敬 い友 に親 しみ

,以

て誠実 の意 を 厚 うす るこ と。 一 、 紀 に循 (シタガ

)い

律 に よ り

,以

て公 共 の義 を立つ るこ と。」 私 は九州 の一 中学 (当時 は五 年制

)の

出身で あ るが

,右

はその 中学 の 「校 訓五則 」 とい う も の で あ る。今 で は言葉 も文体 も些 か堅 く

,む

づ か しい感 が しな いで もないが

,当

時 の若者 の′しヽ と体 を成長 させ て行 く教 育の基礎 にな って いた 事 は間違 いない。 この程 の校則 若 し くは校 訓 は どこの 中学 に も あ って特別珍 しい ものではないのか もしれない。 しか し戦後五十年 を経 過 した現在

,兎

角教 育問 題 が重要 な課題 として採上 げ られん と して い る

(16)

断 が “病 人

"と

い う観 点 か ら全体 としての診断 が得 られ た。 お 目にかか った時 の顔色 と動作 で 病状 の見 当が付 いた と言 う。今 はそれ はあ ま り 望 め な い ように思 う。本 当に病気

,病

巣 が治 っ たか どうか は

,デ

ー タで示 され る。しか し

,そ

れだ けで は

,本

当 に病 人 で あ る 自分 が健康体 に な ったの か どうかの不安がの こ り

,何

か閉塞感 か ら抜 け られ ない。 私 が言 いたいの は

,お

医者 さんの悪 口で はな い。 これ はほんの一例 で あ る。現代社会 の あ ら ゆ る現象 の 中に

,形

はちが うが

,こ

れ に似 た こ とが大 変多 いの に気づ くので あ る。政 界

,官

界, 学 界

,教

育界

,産

業 界

,財

界 と

,官

民 を問わず, 全体 と部分

,目

的 と手段 とを確 りとわ きまえな いで

,縦

割 りの 自分 の受 け持 ち を盾 に して

,部

分 や 手段 の こ とで喧 々謂 々 と火花 を散 ら して い るこ とが如何 に多 いかで あ る。 ミクロ的分析 に 議 論 が走 ってマ ク ロ的総合 に向 か わ な い。挙 げ 句 の果 てが

,議

論 が終 わ る と

,事

はすべ て終 わ った ような気分 にな り幕 とな る。或 いは

,両

論 併 記 とい う結論 の纏 ま らな い報 告書 に終 わ る。 何 故 な らば

,議

論 の最 初 の前提 で あ る全体或 い は 目的がハ ッキ リしていないか らで あ る。 これで は

,い

くら立派 な提 言 で も

,実

行 す る のが難 しい。 それで は “病気

"は

一 時治 るか も 知 れ な いが

,閉

塞感 に満 ちた “病 人

"が

益 々増 え るので はあ るまいか。患者 を一 日見 た ときに, 健 康状 態 を見 抜 いて思 い切 ったマ ク ロの判 断 を 下せ る ような

,信

頼 で きる「名 医」,「 名 リー ダ ー」 が

,現

在 の 日本 の どの社 会 に も必要 なの で はあ るまいか。

穏や かな柔道家

(昔

) 高木 秀寛 S.A.M.(建設 設 計) 「アマ ゾ ン川 を1000哩 遡 る船 の族」 に学友稲 葉 正 凱 君 と参 加 した の は

,剣

橋 大 学 の夏体 み (1928),リ バ プ ール よ り大 西洋 を横 断,アマ ゾ ン河 回のベ レシ港 につ き一 息つ いた時,「 稲 葉, 高本君 は居 りませ んか」 と日本語 の呼 びか け, 驚 いて振 り向 くとな ごや か な笑 顔 、「船 客 リス ト に 日本姓が あったので迎 えに来 ま した

,前

田で す。今 晩家 で話 しま しょう」 と思 い もか けぬ御 招待 。学生二 人恐縮 して参上

,美

しい奥様 の ポ ル トガル料 理 を載 きなが ら

,雄

大 なアマ ゾ ン流 域 の将来性 や大 らかな人情風俗 につ き拝 聴

,講

道館 の者 と云 われ たので

,高

木 も東 京高師 附属 中学 の 出

,高

師 の猛 者連 を畏敬 して いた こ と, 卒業 式 には嘉納 治五郎 学 長 が

,両

足 を少 し聞 い て剌 話 を読 まれ た こ と,「それ こそ武道 の 自然体 最 も安定 した姿 なのです」 とに っ こ りされ たの を鮮 明 に思 い出 します。 さてそれか ら70年 の歳 月が流 れた今年の5月, 「ライオ ンの夢・前 田光世伝」発行。約 150年 前, 講道館 が海外 に派 遣 した柔 道 家 の 中の 「前 田」 が 単身

,外

国 の ボ クサ ー・ レス ラー相 手 に格 闘 術 を挑 み

,欧

,JL中

南米 を股 に推卜け

,連

戦連 勝

2千

,一

世 を風靡 した猛 者

,そ

の国際的経 験 か ら日本民族が将来発展 す る余地 の あ る土地 は広大 なアマ ゾ ン流域 と決 断,ベ レン市 に定住, 日伯 両 国の政府及 び民 間関係 の纏 め役 として此 の困難 な開拓事業 を成功 に導 いた生涯 であった。 昭和 16年11月 28日没。 享年63才 。 アマ ゾ ンの大 自然 の 中で

,コ

ンデ・ コムの精 神 は若 き入拓者 に よ り

,永

年 に引 きつ が れ て行 くこ とで あ らう。

(略

敬稗) 参 考 「 ライオ ンの夢 [前田光世伝] 著 者 神 山典 士 発行者 イヽ学館 (追信) 70年 前

,前

田家 の食 堂 で受 けた前 田師範 の穏 や か な人柄

,そ

の温 か さが未 だ強 く感 じられ ま す。奥様 の膝 の上 で は ゝえんで い たお嬢様 はお 元気 で あ らうか

,御

幸福 を祈 り上 げ ます。

(17)

『 アメ リカの鏡

0日

本』

徳増 須磨夫 S.A.M。 (火災保険) 第二 次大戦 の勝 者 が

,

日本 の戦 争責任 を裁 い た大義 は,「 文 明 に よる告発」で あった。 ところ が 当時 の

GHQス

タ ッフの 中に,こ れ に疑 間 を も つ米 国人 の女性 が いた。ヘ レン・ ミアーズ とい う中国や 日本 の研究家 で

,マ

ッカーサ ー に随行 して来 日

,占

領政 策 に携 わ ったが

,帰

国後 す ぐ に標 記 の本 『アメ リカの鏡・日本』 を書 きあげ, 自説 を展 開 した。 彼 女 は

,

日本 を裁 くの は「文 明」 で はない, 連 合 国側 にその ような資格 はない と説 く。 「―― 第二 次大戦 に突 っ走 った近代 日本 は西 洋列 強がつ くり出 した鏡 で あ る。 そ こに映 って い るの は西洋 自身の姿 なのだ一一 」 「一一 日本 の犯 罪 は

,そ

れ を裁 こ うとす る連 合 国側 の犯 罪 で あ る。強者 に よる弱者 の懲 罰 は, 自 らの支配体 制 を維持 しようとす る大 国の我欲 で しか ない―― 」 当時本書 の邦訳 出版 は

,当

然 マ ッカーサ ー に よ り「 占領 国 日本 にお け る公刊 は

,絶

対 に正 当 化 しえな い」と禁 じられ た。(日本語訳 が 日の 目 を見 たの は

,漸

く二年前 の こ とで あ る。一―伊 藤延 司訳

,ア

イネ ックス社 発行) ミアーズは しか し

,

日本 の行動 を支持 したわ けで はな い。 日本 が 「野蛮 で暴走 」 した こ とは 明 白な事 実で あ るが

,だ

か らといって

,列

強側 に免罪符 は与 え られぬ とい う。 「―一 日本 の本 当の罪 は

,西

洋 文 明の教 えを 守 らなか った こ とで はな く

,よ

く守 った こ とな のだ一一 」 つ ま り

,

日本 が西洋文 明か ら学 んだの は

,パ

ワー・ ポ リテ ィクスヘ の信奉 で あ る。 かつ てペ リー提督 が浦賀 に現 れ 「 日本 の蓋 を開 け」 て以 来,「日本 帝国 とい う魔性 」が解 き放 たれ たの は, 西洋列強が示 した近代化の手本 を

,

日本が忠実 に見習 ったか らである。 「一― アメ リカ建国以来の基本原理が

,い

つ の間にか 『自由』か ら『力』へ と変って しまっ た。 日本 は圧倒的 に強い国 との力のゲームに引 きず り込 まれていったのである一―』 真珠湾攻撃 は

,ア

メ リカが さ したる被害な し に

,

日本 に第一撃 を仕推卜けさせ るよう画策 した ものであるとか

,原

爆投下の真 の 目的 は

,ソ

連 との政治戦争のためであった等

,力

のゲームの 裏側の検証 に も筆が及んでいる。 本書 には,当時の米国政府要人の談話や書簡, 公式記録

,新

聞記事等

,多

くの史実が引用 され ている。いわば「自虐史観」 とか「敗者への憐 情」 などとい うナル シシズムではな く

,多

方面 の諸資料 をもとに

,

ミアーズ 自身の「哲学」 を 語 った異色の力作だ と思 う。

私 とスキー

柳 田 節郎 伸銅 品製造 ロー タ リー会場 の テーブル に置 いてあ る名簿 の趣 味欄 の 中には入 っていないが,冬 には私 は, ス キー をす るの を楽 しみ に してい る。 尤 も正規 にス クール等 で習 った訳 で もな く, 我流 もよい ところだが

,小

供 の頃か らス キー に な じんで い るの で

,大

分 脚 力 も落 ちて来 てい る が

,あ

ま り無理 を しないで

,何

とか続 けて い る のが現状 で あ る。 大 学 を卒業 して

,瀬

戸 内海 の 島 に赴任 した と き も

,先

輩 を くどいて

,遠

く伯 者大 山迄

,滑

り に行 った し

,次

の勤務地 は宮城県 だ ったので, そ こで装備 を更新 して

,

よ く蔵 王へ 出か けた も ので あ る。 当時 の標 準 の装備 は

,ブ

ー ツは皮製 のス キー 靴 。板 は溝 附の ヒツコ リー。 セー フテ ィヴ ィン デ ングがつ いて はいたが

,は

づ れ た時 の滑 り止

(18)

め に皮紐 で固定 していた もので あ る。 其後 関西勤務 が多 くス キー とは無縁 の時期 が 長 か ったが

,昭

和 52年 に秋 田 に転任 にな り

,又

本格 的 な雪 と出会 うこ ととな った。翌年2月末, 田沢 湖 畔の国際ス キー場へ 出か けたが

,永

年 の 空 自で

,体

が ス ピー ドにつ いて行 けない こ とを 忘 れ て いたお げで

,急

傾斜 のグ レンデ で

,ブ

ッ シ ュの こぶ に乗 り上 げて

,ま

さに空 中 を一 回転 して骨折 を して しまった。 これ に懲 りて, しば ら くは 自重 していたが, 昭和 59年 に東 京へ 帰 って来 て以来

,又

ス キーヘ の関心が深 まって きた。 昭和 も終 りにな った年 の末

,保

養 をかね て草 津へ 行 った。 丁度 雪 の盛 りで

,当

節 の若 い人達 が

,そ

れ ぞれの趣 向 を凝 ら したス キー衣 装 で, 鮮 や か に滑 って い るの を見 る と

,私

の 中のス キ ―へ の想 いが こみ あげて くるの を感 じた。 これ も御縁 で

,草

津 に リゾー トマ ンシ ョンを 購入

,草

津 白根 をス キーの基地 とす るこ とに し た。早 速 ス キー用具一式 を購 入。板 はス イスの オ ーチ ェ。靴 はイタ リアの ノル デ ィカ。 ヴ イン デ ング はオース トラ リアの チ ロ リア を選 んだ。 新 雪 のグ レンデでの快 適 な滑 り

,ゆ

れ る リフ トで ゴー グル をはず して見上 げ る紺碧 の空。体 が の って

,綺

麗 にパ ラ レルヘ体 の移動 が 出来 た 時 の快 適 さ。 私 は年 を忘 れ

,時

間一杯 すべ りま くる毎年 を エ ンジ ョイ してい る。 私 の下 手 な ゴル フ も健 康 の為 80才 位 迄 は続 け たい と思 って い るが

,ス

キー も又

,そ

れ以上 に 続 けたいのが

,現

在 の私 の願 いで あ る。 ハ

(19)

発 行 所 東京ロータリークラブ

205号

事 務 所 東京 。新丸ビル4階72区

TEL(3201)3888

平 成

9

9

24

(20)
(21)

2003年

度東京

RC

新 会 長 の横 顔

若 井

恒 雄君

No.228 *」ULY 2003(季報) 2003年 4月 ビチャイ。ラ タクルRI会長 の歓迎晩 餐会 で 子供 の頃植 物好 きの父 がハ イキ ング に出掛 け る度 に一緒 に来 い と言 われ

,植

物 の事 につ いて色 々 教 わ った こ とが あ った。 田舎道 を歩 きなが ら父 が小麦 と大麦裸麦 の違 いや

,杉

と檜

,樫

と椎 の見分 け方 な ど初 歩的 な事 を 教 えて くれ るのだ が

,友

達 と遊 び た いの に無理 に引 っ張 り出 され た私 は少 しも面 白 くない。些 かふ て くされて好 い加減 に返事 を してい る と

,暫

ら く行 って之 は どっちだ と聞かれ る。 当てず っぱ うに 答 えて 当たれ ば よいが

,当

た らな ければ大 目玉 を食 う。 そんな こ とが続 いて却 って植物 が嫌 いにな って しまった。 戦後 の昭和二十 八年

,友

人 の紹介 で田合 育 ちの妻 と結婚 し

,今

年 で丁度五十 年 にな る。最 近 で は 家事 の あい まに好 きな園芸 に精 を出す妻 の手伝 い も喜 んです る上

,偶

には植物 の名前 を よ く知 って い る と賞 め られ るか ら不思議 で あ る。 子供 の時 の こ ととはいえ

,ハ

イ キ ングの折

,不

真面 目な態度 で父 を怒 らせ た こ とを改めて 申 し訳 な く思 うと共 に

,今

こ う して妻 の手伝 いが勤 まるの も

,子

供 を植 物好 きに した い とい う父 の愛 の鞭 が あったれ ば こそ と感謝 す る昨今 で あ る。 2001年2月沖 縄 の植 物 園で珍 しい蘭 を見学

(22)

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