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役 に立てなかった杖

庭 山

 

慶―郎

金融業 一住宅 ローン

去 る4月16日の ことです。東京 国立博物館 で 開催 されていた弘法大師展 を見学 して帰宅の途 次、国電の上野公園回の階段 で右足 を引掛 けて 転倒 し、脳震盪 を起 し、一時意識不明にな りま した。左顔面 を地面 に強打 しましたので、鼻血 が飛 び散 り、ワイシャツが血染めにな りました。

意識は間 もな く回復 しましたが、通行の二人の 若い人に助 け られ、救急車 に乗せ られて病院に 運ばれるとい う、生れて初めての経験 をしまし た。わた しを介護 して下 さった人は、名前 も住 所 もわか りません。わた しが意識不分明な状態 で したので、尋ねる余裕がなかったのです。世 の中には本当に親切で善意の人がお られること をつ くづ く有難 く思い感謝 しています。

鼻頭か ら左顎 にかけて強い打撲 をうけました ので、唇の上部 を傷つけ、三針 ほど縫いました。

また上歯一本 を失い、 自慢の人七二人 (八十七 才で 自分の歯が二十八本 あること

)は

八七二七 にな りましたが、それ以外 には、手足 の骨折 も な くてすみ ました。

しか し衝撃 による脳の損傷が′い配 にな り、早 速友人の順天堂医院の石井前院長 に電話 を し、

脳外科 の新井教授 の担 当で、

CTと MRIの

精密 検査 を受けましたが、衝撃の部位が脳か ら遠 い 部位であった ことが幸い し、脳 の損傷 は全 くな い とい うことで した。お まけに、八十七才の脳 に しては若 く、白い斑点がほとん どない と、ほ め られました。 こんなことがわかれば、 自信家 が ます ます 自信家 になると妻が困った顔 をして います。

順天堂の院長 を長 く勤め、現在 は顧間 となっ てい る石 井 昌三 さんは、59年 前、 わた しども 夫妻が原子爆弾 に遭 って広島の郊外 に疎 開 して

いた とき、偶然に同 じ家 に避難 して きて一緒 に 暮 した人で、当時はまだ京都大学の医学部の学 生で したが、戦後間 もな く脳外科の研究のため 米国に渡 り、 シカゴ大学で研鑽 を積 んだわが国 の脳外科のパ イオニアです。

危 ない原子爆弾に遭 った ことが良い友人 をも つ ことがで きた原因になった とい うことは「人 間萬事塞翁が馬」 とい うことで しょうか。

この春、わた しはロータリーか ら米壽の杖 を いただ きました。それは本当にタイ ミングのよ いご好意で したのに、強が りを言 って当 日その 折角の杖 を使 っていなかったために、 この災難 に遭 ったのです。「ザマ見 ろ」 と叱 られそ うで す。ですか らこの話 は、 ロー タリーの方 々には

「極秘」 といた します。

今 はいやお うな く駅 まで歩 く。昨今乗換の駅 の間は長い し、地下鉄は益 々深 くなってい くの で、オフィスを往復するだけで

5千

歩近 く歩 く ことになる。そ うなるとこれまで遠い存在だっ た1万歩 は至近距離 にな り、何 とか これを達成 させ ようと昼 間 も用 を作 っては外へ 出て歩 く。

成人病の原因はほ とん どが脂肪が らみであ り、

それを燃焼 させ るにはウォーキ ングが最適だ と きくと、歩 くのにも励みがでる。お蔭で足が引 締 ま り、体調 もす こぶ る良い。 まさに「得脚」

であ り、「得健康」である。

フリンジベネフィッ トもある。我が家 は桜並 木の続 く桜新 町駅 に近いが、 この春 は咲 き始め か ら満開まで、毎 日の ようにお花見 をした。秋 は駒沢公園の紅葉見物だろうか。

道行 く人たちの 流行が 目に入 るの も楽 しい。

小股の切れ上がった とは和服の麗人 を形容する 表現だが、最近のパ ンツスーッの女性 に も同 じ 言葉 を進呈 したい と思 う。

電車の中では、携帯でメール操作 に余念のな い人、一生懸命 にお化粧 をす る人、本 を読む人 な ど様 々だが、皆せわ しない。欧米のゆった り した車中風景 とはずいぶん違 う。

かつ てベス トセ ラー になった春 山茂雄氏 の

「脳 内革命」 の主題 は、脳 内モル ヒネの分泌が 脳細胞 を活発化 させ、人 をいつ まで も若 く保た せ るとい うものだった。氏 によれば、歩 くと脳 内モルヒネが よ く出るし、歩 くときに瞑想 しプ ラス思考 をすれば一層モルヒネの分泌が促進 さ れるとい う。

「失脚」 の効用 は、足 の鍛錬、脂肪 の燃焼、

脳 内モル ヒネの分泌 な どと、実 に多様である。

小 さなライフス タイルの変化の御利益 を実感 じ ている今 日この頃である。

早起 き

白木

 

栄次郎

洋紙販売

自宅か ら歩 いて

5分

位 の近 くに

S農

園が あ る。毎年 6月 中旬か ら 8月 初 めにかけて、火、

木、 日曜 日の週3回、朝獲 れたての野菜 を即売 している。平 日には行けないのでこのシーズ ン、

日曜 日は決 まって朝

5時

半 には眠い 目をこす り なが ら起 きる。そ して家族 を起 こさない よう、

そ―っ と家 を抜 け出 しそこへ 向 う。その 日の分 には限 りがあるので、早 く行かない と売 り切 れ て しまうのである。

なす、 きゅう り、枝豆、小松菜等 10種 類位 のみずみず しい野菜が並べ られているが、何 と いって もお 目当ては トマ トである。大 きいのは 直径15cmも あ り、真 っ赤 なはち きれんばか り の もぎたての完熟 トマ トを5 kg分けて もらう、

我が家の

1週

間分である。 トマ トはナス科の果 菜で、原産地は南 アメ リカのア ンデス高地。古 代 インカの人達 も食べ ていたのだろうか。 日本 には今か らお よそ200年 前 に渡 って来たが、最 初 は鑑賞用であったようだ。食べ るようになっ たの は、 ほんの60年 位前 か らであ る。

 

トマ ト には β―カロチ ンが含 まれているが、特 に リコ ピンが豊富である。その リコピンには β―カロ チ ンの2倍 、 ビタ ミン

Eの

100倍 の活性酸素消 去能力があるこ とが分か り、発 ガ ン、循環器、

肝臓病、動脈硬化の予防に注 目されている。

いそいそ と家 に戻 り、「早 く冷 えて くれ !」

と冷蔵庫 に入れ、夕食 にはお皿一杯 に食卓 を飾 り家族皆で楽 しむ。昔子供の頃、夏 になると名 古屋 の 自宅 に、「 トマ トのお じさん」 と呼 んで いたお百姓 さんが持 って きて くれた トマ トの青 臭い、 ジューシーな懐 か しい味が よみが えって くる。冷た く冷 えた トマ トの味付 けはこだわ り の「沖縄の 自然の塩」、至福 の時である。

け由 わ理 の

自然 とのふれ合いの ないライフスタイル に想 う

鈴木

 

和夫

商業印刷

70年の 長 い 間住 み慣 れ た戸 建 て の 日本 家 屋 か ら、 このた び思 い切 って アパ ー ト住 まい に移 った。理 由は、毎朝、毎晩 の ガ タビシ と音 を立 て る雨戸 の開け閉て に大変苦労 し、夏 はい くら 冷房 をか けて も、冬 はい くら暖房 を して も、 ど こか らかそのエ ネルギー は逃 げてい って、夏 の 暑 さ と、冬 の寒 さに、そ の上 高齢化 が重 なって、

耐 え られ な くなったか らで あ る。

引 越 し とい っ て も遠 くに転 居 した の で は な く、 日黒 区 と渋 谷 区 との違 い は あ るが 、 国道 246号を挟 ん で徒 歩 で15分ほ どの 近 い距 離 で、

通勤 や買 い物 な どの 日常生活 の環境 は殆 ど変 わ らないのが、狙 いの一つで もあ った。 お蔭様 で 今 年 の記 録 的 な39.5度 とい う猛 暑 も何 とか凌 ぐ こ とが 出来 て転居 した こ とは良か った と喜 んで い る。

しか し、人間は勝手なもので、勝手 とい うか 我侭 なのか も知れないが、今 までの青葉台の家 には、最近その種類 と数 は激減 した とはいえ、

猫の額 の ような小 さな庭 にも、色 々な野鳥が訪 れて くれ、春 にはホーホケキ ョの鳴 き声 も聞 く ことが出来た し、秋雨の降る中、軒下で鶴鵠が 速拍子で尾 を上下 に振 っている姿 も見 ることが 出来た。 また春夏秋冬の木々の変化 を楽 しむこ とも出来たが、松涛のアパー トには、雀す ら寄 りつかない。餌 になる虫 もいない し、木の実 も まった くないか らであろう。 自然 とのふれ合 い を断たれたのが これほ ど寂 しい ものかを知 らさ れた。他人様 は近 くに鍋島松涛公園があるでは ないか と、おっ しゃるがアパー ト群 に囲まれた 公園は、そろそろ現状維持がむずか しくなって いるのではないだろうか。

家内は毎朝、毎晩、暇 さえあればお勝手やお

風 呂場その他の部屋 にある新式の

IT設

備 のマ ニ ュアル と首 っ引 きである。老夫婦 が新 しい

「鍵の生活ス タイル」 に慣 れるのは何時だろ う か と、食事 を摂 りなが ら語 り合 う毎 日である。

最近 は IT、 BT、 ナノ技術 とデジタル技術 は花盛 りである。デジタルが本格的にアナログ 技術 に とって代 わったのは、1980年 代 の10年 間であ る と思 う。 わずか に20年 ほ ど前 の こと であ る。18世 紀 の後半か ら19世 紀 そ して20世 紀の前半の世界 を支配 した産業革命 に始 まる工 業化社会 に育 ったわれわれ世代の人たちは、日 には出さないけれ ども、 日常生活 はもちろん仕 事の上で もデジタルの横行 には戸惑いを感 じて 悩んでいるのである。

一方、デジタル技術が、本当にこれか らの人 間社会 に真の幸福 を齋す ことが出来るのか心配 である。それはス ピー ド、便利 さの面では、到 底、 アナログの世界 に勝 ち 目はな く、比較する ことさえ問題外であるが、人間社会 は人間が働 くことで、人間 らしさを享受 していたのであっ て、機械や システムに振 り回される人間社会 を、

これか らどの ようにしてエ ンジ ョイ して行 こう としているのか、心 はどこに行 って しまうのか。

これ も、年寄 りの冷や水か も知れない。

それで も、私 ども老夫婦 にとっては、部屋の 隅か らで もコン トロール出来 る、冬 の床暖房 に 寄せ る期待 はす ご く大 きいのである。

ピエール・ボナール

高垣

 

銀行 ―普通銀行

実際には会 ったこともないのに、 目を閉 じる と、その人のイメージが くっ きりと浮かぶ人が い る。 ピエ ール・ボナール (1867〜1947年)

のモデルであ り、妻であったマルテが私 にとっ ては、その ような一人である。ボナールの一枚 の絵 に30年 前位 に、 ニュー ヨー クの近代 美術

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