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第 17 章

ドキュメント内 ディック『暗闇のスキャナー』 (ページ 187-197)

その年の八月末、ニュー・パスに入って二ヶ月後、ナパ・ヴァレーの農場施設に移され た。カリフォルニア州北部の内陸だ。ワイン産地で、カリフォルニアの見事なブドウ園が たくさんある。

ニュー・パス財団理事のドナルド・エイブラムスが移送命令書にサインした。これは、

ブルースの対応に非常な関心を抱いている、マイケル・ウェスタウェイという職員の提案 によるものだった。特に、ゲームをもってしてもブルースの状態が改善しなかったのが大 きい。それどころか、かえって悪くなったほどなのだ。

「お前の名前はブルースか」と農場の責任者が言った。ブルースは、スーツケースを抱 えて、ぶきっちょに車から降りたところだった。

「ぼくの名前はブルースだよ」

「しばらく農作業をやってみてもらうよ、ブルース」

「OK」

「ここの方が気に入ると思うよ、ブルース」

「ここの方が、気に入ると思う」

農場主任はブルースをじろじろながめわたした。「最近髪を切られたのか」

「うん髪を切られた」ブルースは手をあげて、剃られた頭にさわった。

「なんで?」

「髪を切られたのは、女性居住区にいたのを見つかったから」

「髪切りはこれが初めて?」

「髪切りはこれが二度目」ためらってから、「前に、暴れたの」ブルースは、まだスーツ ケースを持ったまま立っていた。主任は、スーツケースを置くように合図した。「暴力規 則を破った」

「何をやった?」

「枕を投げた」

「OK、ブルース。ついてこい。寝るところを教えてやる。ここじゃ中央居住棟はない。

六人ごとに小さな小屋がある。そこで寝て、食事をつくって働いてないときはそこで過ご す。ゲームはない。仕事だけ。もうお前はゲームなしだよ」

ブルースは嬉しそうだった。顔に微笑が浮かんだ。

「山は好きか?」と農場主任は右手を指さした。「上をごらん。山だ。雪はないけど、山 だ。サンタ・ローザは左の方になる。あの山の斜面では、ホントにすごいブドウをつくっ てるんだよ。ここではブドウはつくってない。いろんな作物を育ててるけど、ブドウは ない」

「山は好きだ」とブルース。

「あいつらをごらん」主任はまた指さした。ブルースは見ようとしなかった。「帽子をあ つらえてやろう。頭が剃られてんのに、帽子なしじゃ畑に出られないもんな。帽子をあげ るまで仕事に出るなよ。わかった?」

「帽子をもらうまで仕事に出ない」とブルース。

「ここは空気がおいしいんだ」と主任。

「空気は好きだ」

「うん」主任はブルースに、スーツケースを持ってついてくるよう合図した。どうもや りにくいな、とブルースに目をやった。何と言っていいかわからなかった。この手の連中 が到着したときには、よくあることだ。「おれたちみんな空気は好きだよ、ブルース。ホ ントに。それだけはみんな共通だ」そう、その程度の共通点はまだある。

「友だちに会える?」とブルース。

「昔いたところの友だちか? サンタ・アナの施設の?」

「マイクとローラとジョージとエディとドナと̶̶」

「居住施設の人間は、農場には出てこないんだ。ここは閉鎖式で運営してるから。でも、

年に一度か二度は戻れる。面会がクリスマスと、それに̶̶」

ブルースは足をとめていた。

「次の面会は、感謝祭のときだ。その時は、ここでの作業員を、出身居住施設に二日だ け帰す。それからクリスマスまではまたここだ。その時にまた会える。もしほかの施設に 移送されてなければだけどね。三カ月はかかるけど。でも、このニュー・パスでは一対一 の人間関係は認められていないんだよ。聞いてないの? ファミリー全体とだけ関係が持 てるんだ」

「それはわかるよ。ニュー・パスの綱領の一部だったんで暗記させられたから」とブルー スはあたりを見回した。「水が飲みたいよ」

「ここの水のみ場を教えてやろう。宿舎ごとにも一つあるけれど、ここのファミリー全 体用にも公衆水のみ場がある」主任はブルースをつれて、プレハブ宿舎の一つに向かっ た。「ここの農場施設は公開されてない。実験的な交配作物があるから、害虫の侵入を避 けたいんだ。人を入れると、それが職員でも、服だの靴だの髪の毛だのに害虫をくっつけ て持ち込むからね」でたらめに宿舎を選んだ。「お前のは4G。忘れないね?」

「みんなおんなじに見える」とブルース。

「見分けがつくように、この宿舎に何か釘でとめとくといい。そうすればすぐに覚えら れる。何か色つきの物がいい」主任は宿舎の戸を開けた。熱く臭い空気が吹き出してき た。主任は考え込んだ。「まず朝鮮アザミをやってもらおうかな。トゲがあるから、手袋 をするんだよ」

「朝鮮アザミ」とブルース。

「そうそう、ここにはキノコもある。実験的なキノコ畑で、もちろん密閉されてる̶̶

国内のキノコ生産者はみんな収穫を密閉しとくんだ。そうでないと、病原性の胞子が入り 込んで菌床を汚染するんでね。キノコの胞子ってのは空気をちたってくるんだよ、もちろ ん。キノコ業者にとっては災難だがね」

「キノコ」と言いながら、ブルースは暗く暑い宿舎に入った。主任はそれを見守った。

「そうだ、ブルース」

「そうだ、ブルース」とブルース。

「ブルース、目をさませ」と主任。

ブルースはうなずいた。宿舎のむっとした薄明かりの中に立って、まだスーツケースを 持っている。「OK」

ちょっと暗くなるとすぐにうとうとしやがる。まるでニワトリだ、と主任は思った。

植物の中の植物か、キノコの中のキノコか。好きなほうを選びな。

宿舎の頭上の電灯をひねってつけ、それからブルースに、その操作法を教え始めた。ブ ルースは気にもとめないようだった。視界に山をとらえ、それをじっと見つめていた。い ま初めてそれに気がついたのだ。

「山だよ、ブルース。山だよ」と主任。

「山だよ、ブルース。山だよ」とブルースは見つめた。

「反響言語症だよ、ブルース。反響言語症だよ」と主任。

「反響言語症だよ、ブルース̶̶」

「OK、ブルース」と主任は宿舎を出て、後ろ手にドアを閉めた。あいつはニンジンの 世話をさせよう。それともダイコンか。何か単純で、あんまり悩まずにすむものがいい。

それと、あの小屋にもう一人、植物人間を移らせよう。あいつに仲間ができるように。

ふたりでシンクロしてうなずきあってりゃいい。そんな連中が何列も。何ヘクタールも一 面にいる。

畑の方に向かわせられると、ベコベコの鏡に映ったような、みすぼらしいトウモロコシ が見えた。ゴミが育ってる。これはゴミの畑なのか。

身をかがめると、地面の低いところに、小さな花が咲いていた。青い。多くは短くて寸 づまりの太い茎に咲いている。不精ヒゲみたい。切りわらみたい。

一つじゃない。いっぱいある。顔を十分近づけたのでわかった。高いトウモロコシの列 の中の鬼っ子。百姓がみんなやるように、ある作物を別の作物の中に、同心円状に隠し てある。メキシコの百姓は、こうやって大麻を栽培する。背の高い作物で丸く囲む。そう すればジープに乗ったフェデラーレ(連邦職員)に見つからない。でも、空からなら見つ かってしまう。

そしてメキシコのフェデラーレたちは、そんな大麻栽培を発見すると、百姓と、その妻 と、子どもと、家畜まで機関銃で殺す。そして走り去る。そしてヘリコプターによる捜索 が続き、それをジープが支援する。

なんてきれいでかわいい青い花。

「お前の見てるのは未来の花だよ。でも、お前のための未来じゃない」ニュー・パス理 事のドナルドが言った。

「なんでぼくのためじゃないの?」とブルース。

「お前はいままで十分にいい目を見てきた」と理事はクスクス笑った。「だから、立ち上 がるんだ。そんなひれ伏すのはやめろ̶̶こいつはもう、お前の神でもないし、偶像でも ない。もっとも一時はそうだったけどな。お前には、ここに育っているのが何か超越的な 代物に見えるのか? まるでそんな感じだけど」そしてブルースの肩を力強く叩くと、手 を下にのばして、花を見て凍りついたままの目の視線を断ち切った。

「消えた。春の花が消えた」とブルース。

「いや、お前に見えないだけの話。お前にはわからない哲学的な問題だ。認識論̶̶知 識に関する理論だ」

ブルースには、光をさえぎるドナルドの手のひらしか見えなかった。それを千年も見つ

めた。手はじっとしている。固定されている。ブルースのために固定され続ける。時の外 におかれた死んだ目のために永遠に固定される。そらすことのできない目と、どこうとし ない手。目が見つめると時間が消え失せ、宇宙は彼とともにゼリーと化し、少なくとも彼 にとっては、彼と彼の理解力といっしょに凍りつき、やがてそれが完全に停止する。知ら ないことは何もなかった。もう何も起きることはなかった。

「仕事に戻るんだ、ブルース」と理事のドナルド。

「ぼくは見た」とブルース。わかった。あれがそうなんだ。ぼくは物質Dが生えている のを見た。死が大地から、地面そのものから、広い青い畑で、寸づまりの色をしてのびて いるのを見た。

農場施設主任とドナルド・エイブラハムスは顔を見合わせ、それからひざまづいている 人間の姿と、目隠しのトウモロコシの中の、そこらじゅうに植えられたモルス・オントロ ギカに目を落とした。

「仕事に戻るんだ、ブルース」とひざまづいた人間の姿が言って、立ち上がった。

ドナルドと農場施設主任は停めてあるリンカーンのほうに歩いていった。話をしてい る。ブルースは̶̶ふりむかず、ふりむけず̶̶二人が去るのをながめた。

身をかがめて、ブルースは寸づまりの青い植物をむしって、それを右の靴に隠し、見え ないようにした。友だちへのプレゼント。そう思って、誰にも見えない心の底で、感謝祭 を待ちわびた。

ドキュメント内 ディック『暗闇のスキャナー』 (ページ 187-197)

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