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第 13 章

ドキュメント内 ディック『暗闇のスキャナー』 (ページ 145-165)

警察の心理検査室である二〇三号室に戻ったフレッドは、心理学者二人が検査の結果を 説明してくれるのを、つまらなさそうに聞いていた。

「きみが示しているのは、障害というよりは競合現象だね。すわって」

「はい」フレッドは冷静にすわった。

もう一人の心理学者が言った。「脳の左右の半球間に競合が起きてる。一つの信号がお かしいとか汚染されてるとかいうんじゃない。むしろ、対立する情報を持った二つの信号 があって、それが妨害しあってる感じだね」

「人は通常、左脳半球を使う。自己の体系ないしは自我、あるいは意識がそこに位置し ている。左が優位半球なのは、言語中枢が必ずそっちにあるせいなんだ。もっと正確に言 うと、脳の双極化によって、言語能力ないしは誘意力が左に与えられ、空間的な能力が 右に与えられることになる。左脳は、いわばデジタル・コンピュータだ。右はアナログ・

コンピュータ。だから、機能の双極化は、単に二重化しただけのもんじゃない。両方の知 覚機構が、入力情報を別個にモニターして異なった処理をするんだ。でも、きみの場合、

どっちの脳半球も優位じゃない。そして両半球が、お互い補いあうように作動しているわ けでもない。片方はああ言い、もう片方はこう言う」

「車に燃料計が二つあるようなもんだよ。片方は満タンだって言って、もう片方は空っ ぽだって言う。両方とも正しいということは有り得ない。両者は対立する。でも、きみの 場合、一つが動いててもう一つが故障してる、というのとはちがう。つまり……こういう ことだ。両方の燃料計は、まったく同じ量のガソリンを見てる。同じタンクの、同じガソ リンを見てる。実は両者とも、同じものを調べてるんだ。運転手であるきみは、燃料タン クを直接見ることはできない。ゲージを、この場合は複数だけど、それを経由しないと だめだ。極端な話、タンクがスッポリおっこちるかもしれない。それでもきみのほうは、

ダッシュボードの計器に表示が出るか、エンジンが止まるかするまでは決してわからな い。相反する情報を知らせるゲージが二つあったりしてはならない。そうなったら、その 件に関する状態について、まったく何もわからなくなるからだ。メインのゲージが一つ あって、バックアップ用のゲージがもう一つある、という場合とはちがうよ。その場合に は、メインが故障すればバックアップがとって替わるわけだけど」

「つまりどういうことです」とフレッド。

「自分でもわかってるだろうに。すでに体験しているはずだ。それが何なのか、なぜ起 きているのかはわからないにしてもだ」と左手の係官。

「わたくしの脳の両半球が競合していると?」とフレッド。

「そう」

「なぜ?」

「物質Dだよ。機能面で、よく見られる症状だね。われわれの読みもそうだったし、検 査の結果もそれを裏づけている。通常は優位な左半球に障害が生じたので、右がその分を 補おうとしているわけだ。でも、この双子機能はうまく融けあっていない。異常な事態 で、からだにその準備ができていないからだ。起きるはずがないんだもの。交連情報交換 と呼ばれている。脳分割に関連した現象だ。右脳半球を切除してもいいんだが̶̶」

フレッドは割りこんだ。「なおりますか、物質Dをやめれば?」

左の心理学者がうなずいた。「たぶんね。ただの機能障害だから」

もう一方がいった。「器官に損傷があるかもしれない。だから恒久的なものの可能性も ある。いずれわかる。物質Dをやめてかなり経ってからのことだろうし。完全にやめてか ら、だよ」

「なんですって?」フレッドには回答が理解できなかった。なおるのかなおらないのか。

障害は恒久的なものなのか、ちがうのか。二人はなんて言ったんだろう?

「脳組織の障害だったとしても、ゲシタルト処理の競合を阻止するために、両脳半球か らそれぞれ小部分を切除する実験が行われているよ。そうすれば、もとの左半球が優位を 回復するだろうと考えられている」と心理学者の一人。

「しかし問題はだね、その場合、その個人の受容する認識̶̶感覚からの入力データ̶̶

は、その後一生部分的なものになってしまう恐れがあるということなんだ。二つの信号を 得るかわりに、半分の信号しか得られなくなる。障害としては、どっちもどっちだと思う んだがね」

「うん。でも、部分的であっても競合しない機能のほうが、無機能よりはましじゃない か。競合する脳の交連情報交換なんて、受容器官としてゼロに等しいからね」

「つまりだね、フレッド、きみにはもはや̶̶」

「この先一生、二度と物質Dはやりません」とフレッド。

「いまはどのくらいやってる?」

「それほどは」それから間をおいて、「最近は増えてます。仕事上のストレスのせいで」

「もちろんきみは任務を解かれるべきだろうな。何もかも。きみはまちがいなく障害を 起こしてるんだからね、フレッド。もうしばらくは治らないだろう。どんなに短くても、

しばらくはかかる。その後は、誰にもわからない。また完全に復帰できるかも知れない。

あるいはできないかもしれない」

フレッドはわめいた。「もしわたくしの脳の半球が両方とも優位だったにしても、なん でその両方が同じ刺激を受けることにならないんですか? その二つの何だか知らないけ ど、それをシンクロさせることはできないんですか? ステレオ・サウンドみたいに」

沈黙。

「だって、右手と左手が物を持つとき、つまり同じ物を持つときだけど、それは̶̶」

「たとえばその右手VS左手という話でもいい。それを鏡の世界で考えてみよう。そこ では左手が右手に『なる』わけだろ……」心理学者はフレッドの上に身をかがめたが、彼 は顔をあげなかった。「右の手袋と比べて左の手袋を説明しようとしたら、きみはどうす る? それも相手が右とか左とかいう概念をまったく知らないときにだよ。相手に、鏡像 じゃない方のヤツを確実に取らせるには、どうすればいい?」

「左の手袋は……」と言ってフレッドは止まった。

「きみの片方の脳半球は、この世界を鏡に映ったようなものとして認識しているような もんだ。鏡ごしにだよ。ね? だから右が左になって、その結果としていろいろ起きる。

われわれは、その『いろいろ』ってやつすら、まだ完全には把握していない。そんなふう に裏がえった世界を見るのがどういうものなのか。トポロジー的に言えば、右の手袋は、

左手の手袋を、無限を経由して引っ張ってきたものなんだけどね」

「鏡を経由して、ですか」とフレッド。闇の鏡だ。闇のスキャナーだ。そしてパウロが 鏡と言ったとき、それはガラス製の鏡のことじゃなかった̶̶まだ当時はそんなものがな かったし̶̶ピカピカの金属の皿の底を見たときに見えた、自分の姿のことだった。神学 について読んでいたラックマンが、そう教えてくれたっけ。反転を伴わない望遠鏡とかレ ンズ系を通してではなく、その他何を通してでもなく、自分の顔が反転した̶̶無限を経 由して̶̶反射を見たとき。いま、おれが言われてたみたいに。ガラスを通してじゃなく て、ガラスに反射されて。そして、こっちに戻ってくる反射像:それは自分だし、自分自 身なんだけど、自分じゃない。そして当時はカメラがなかったから、人が自分自身を見る 手段はそれしかなかった。裏返しに。

おれは自分を裏返しに見ていたんだ。

ある意味で、森羅万象を裏返しに見始めていたんだ。脳の反対側で!

心理学者の片方が話していた。「トポロジーというのは、ほとんど理解されていない数 学というか科学というか、まあどっちでもいいんだけどね。宇宙のブラックホール同様、

いかにして̶̶」

「フレッドは世界を表裏逆転させて見ているんだよ」ともう一人が断言していた。「正面 からと、裏にまわってと両方。推定だけどね。彼にどう見えるのか、われわれには理解し がたい。トポロジーってのは数学の一分野で、ある幾何学的な物体あるいはその他の集合 において、いかなる一対一対応の連続写像によっても変化しないような性質を研究する分 野だ。でも、それを心理学に適用すると……」

「それで、もしそういう写像を物体に行ったら、その物体がどういう形になってしまう のかは誰にもわかるまい。もとの形は想像もつかなくなる。まるで野蛮人がはじめて自分 の写真を見たとき、それが自分だとわからないように。いくら川面や金属に映る自分の姿 をみたことがあってもだよ。これは、反射像は左右が逆で、写真はそうじゃないからだ。

だから、それが同じ人物だとはわからない」

「そいつは左右が逆転した自分の反射像に慣れているせいで、自分がそういう姿だと 思ってるわけだ」

「録音した自分の声を聞くときも、よく̶̶」

「それは別の話だよ。そいつは副鼻洞の共鳴と関係があって̶̶」

「世界を鏡みたく裏返しに見てんのは、あんたらのほうじゃねえの? おれのほうが正 しい見方をしてるのかもよ」とフレッド。

「きみは両方の見方をしてるんだよ」

「どっちが̶̶」

心理学者の一人が言った。「昔はよく、現実の『反映』しか見ていない、とか言ったで しょう。現実そのものじゃなくて、その反映。反映、つまり反射像のいけないところは、

それが本物じゃないということではなくて、それが左右反対だということなんだな。する と、だ」彼は奇妙な表情を浮かべた。「パリティ。科学におけるパリティ保存の原則。宇 宙とその反射像があったとき、われわれはなぜか後者を前者ととりちがえる……それとい うのも、われわれが双極的なパリティをもっていないせいだ」

「ところが写真は、脳半球のパリティ不在を補える。写真は物体そのものではないけれ

ドキュメント内 ディック『暗闇のスキャナー』 (ページ 145-165)

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