カリフォルニア州サンタ・アナにある、ニュー・パス住居棟サマルカンド・ハウスのラ ウンジに画鋲でとめられた雑誌の切り抜き;
朝、高齢の患者が目をさましてお母さんを呼んだら、お母さんはずっと昔に死ん で、あなたは八十才を越えていて、住んでいるのは保養所で、今は一九一三年では なくて一九九二年なんだから、もっとしっかり現実を受けとめて、事実を認めなく てはならないと言いきかせ
ここの居住者の誰かが残りを破ってしまったので、そこで終わっていた。専門看護雑誌 からからの切り抜きらしい。光沢紙に印刷してあった。
職員のジョージが、廊下を先導しながら言った。「ここでまずやることは、便所掃除。
床と、流しと、特に便器ね。この建物には便所が三つあるから。各階一つづつ」
「OK」
「これ、モップ。それとバケツ。やりかたわかりそう? 便所掃除だよ? やってごら ん。見てて、助け船を出してやるから」
裏のポーチの水槽までバケツを運び、中に洗剤を入れてお湯を流しこんだ。見えるの は、目の前の水の泡だけ。泡と、水音と。
でも、見えないところからジョージの声が聞こえた。「あんまりいっぱいにしないで。
持ち上げられないよ」
「OK」
「自分がどこにいるか、ちょっとわかんないだろ」しばらくしてジョージが言った。
「ぼくはニュー・パスにいる」バケツを床に置くと、水がはねた。つっ立って、それを 見つめていた。
「どこのニュー・パス?」
「サンタ・アナの」
ジョージはバケツを持ってくれて、ワイヤーの取っ手をどう持てばいいか、歩きながら 前後にどう振ればいいかをやって見せてくれた。「たぶんそのうちに、島か農場のどこか に移ってもらうことになると思う。その前に、皿洗いがあるけど」
「それならできる。皿洗い」
「動物は好き?」
「うん」
「畑仕事は?」
「動物」
「まあ、いずれね。きみのことがもっとよくわかるまで待とう。どうせしばらくはかか るし。みんな一月は皿洗いするんだ。入ってくるやつはみんな」
「なんか田舎で暮らしたいんだけど」
「施設は何種類かある。どこが一番向いてるかはこっちで判断する。そうそう、タバコ は吸ってもいいんだよ。勧めはしないけど。ここはシナノンとはちがうから。あそこじゃ 吸わせてくれないんだよ」
「タバコ、もう持ってない」
「ここにいる人には、みんな一日一箱あげてる」
「お金は?」持ってなかった。
「無料だよ。ここでは何でも無料。きみはすでに代償を払ったんだから」ジョージは モップを取って、バケツに押し込み、モップのかけかたをやって見せた。
「ぼく、なんでお金を持ってないの?」
「財布や名字がないのと同じ理由だよ。いずれ返してもらえる。全部返してもらえる。
そうなるようにしてあげたいんだ。きみの奪われたものを取り戻させてあげたい」
「靴があわないんだけど」
「新品だと、店からの寄付だけが頼りなんだ。そのうち寸法を測ってやれるかも。箱の 中の靴は、全部はいてみた?」
「うん」
「わかった。で、これが一階の便所。まずここからやって。で、ここが終わったら、ちゃ んとしっかり終わったら、完ぺきにできたら、そしたら上に行って̶̶モップとバケツは 持ってけよ。そしたらそこの便所を教えてあげよう。その後で、三階の便所。でも、三階 に上がるときは許可がいる。あそこは女が住んでるから、だからまず職員の誰かにきい て。絶対に許可なしで上がるなよ」とジョージは背中をどやした。「いいね、ブルース。
わかった?」
「OK」ブルースはモップをかけた。
ジョージは言った。「こういう便所掃除とか、そんなような仕事をしばらくやってもら うよ。カンがつかめて立派にこなせるようになるまで。人が何をやるかなんて大事なこと じゃない。それのカンがつかめて、立派にやって、誇りを持てるかどうかが大事なんだ」
「いつか、昔のぼくに戻れるかなあ」ブルースはきいた。
「そういう人間だったせいでここに入れられたんだろ? もし昔のきみに戻ったら、遅 かれ早かれここに戻ってくることになる。この次は、ここにたどりつかないかもしれない よ、ひょっとして。そうだろ? ここに来られたのは運がよかった。来られなかったかも しれないんだから」
「ほかの人が車で連れてきてくれた」
「幸運だった。次のときは、連れてきてくれないかもよ。どっかの高速道路の脇に放り 出して、後は知らない、なんてことになるかもよ」
ブルースはモップがけを続けた。
「いちばんいいやり方は、まず流しをやって、それから風呂おけで、それから便器で、床 は最後にやる」
「OK」ブルースはモップを置いた。
「コツがあるんだ。いずれ覚える」
意識を集中させて、目の前の流しのほうろうに入ったヒビを見つめた。そのヒビにクレ ンザーを流して、お湯を流した。湯気がたちのぼる。湯気が広がる中、動かずに立ちつく した。いい匂いだった。
昼食のあと、ラウンジにすわってコーヒーを飲んでいた。誰も話しかけてこなかった。
ヤクを断っている最中なのがわかっていたからだ。すわってコップのコーヒーを飲んでい ると、みんなの会話が聞こえてくる。ここではみんな知り合い同士だった。
「もし死人の体内からものを見たら、一応見えるけど、でも目の筋肉が動かせないし、だ から焦点をあわせられない。頭も動かせないし、目玉も動かせない。何か物体が目の前を 通り過ぎるのを待つだけ。凍りついたままで、ひたすら待つだけ。悲惨だろうな」
コーヒーからたちのぼる湯気を見つめる。それだけ。湯気がたちのぼる。いい匂い だった。
「ねえ」手が触れた。女の手だった。
「ねえ」
ちょっと目をそらした。
「どう、元気?」
「OK」
「気分ましになった?」
「気分はOK」
コーヒーと湯気だけをながめ、彼女もほかの誰も見なかった。ひたすらコーヒーを見お ろしていた。暖かさと匂いが好きだった。
「誰かがまん前を通れば見える。そのときだけは。そのとき自分が向いてる方向だけで、
それ以外は全然。葉っぱか何かが目の上に落ちてきたら、もう永遠にそれっきり。葉っぱ だけ。ほかには何も見えない。向きを変えられないから。」
「OK」コーヒーを持ってブルースは言った。コップを両手で抱えている。
「知覚はあっても生きていないのを想像してごらん。見て、知ることもできるけど、生 きてないの。ただ外を見てるだけ。認識はできるけど、生きてないの。人は死んでもまだ やってける。ときどき人の目からのぞいてるものは、子供時代に死んだものかもしれな い。中のものは死んでるんだけど、まだ外を見てる。空っぽのからだがこっちを見てるの とはちがう。中には何かいるんだけど、そいつは死んでて、ひたすら見続けてんの。見る のをやめられないの」
別の誰かが言った。「死ぬってそういうことだよ。目の前のものを見るのがやめられな くなるっていう。どうしようもないもんがズバリそこに置かれても、こっちには選んだり 変えたりすることはいっさいできない。そこに置かれたものをそのまま受け入れるしか ない」
「お前、ビールの缶を永遠に見つめ続けるってのはどう? そんなに悪くないかもよ。
何も恐くないわけだし」
食堂で出される夕食の前に、コンセプトの時間があった。職員が黒板にいろんなコンセ プトを書いて、それが討議される。
ひざで手を組んで床を見つめ、火にかけられた大きなコーヒー沸かしの音を聞いてい た。そいつがシューシューいうので恐かった。
「生物と無生物は、お互いの持ち分をやりとりしている」
あちこちの折り畳み式の椅子にすわって、みんなこれについて話し合った。このコンセ プトは、どうやらニュー・パス式の考え方の一部みたいで、ひょっとしてみんなこれを暗 記して、何度も何度も考えてみたのかもしれない。シューシュー。
「無生物の勢力は、生物の勢力よりも強い」
それについて話し合った。シューシュー。コーヒー沸かしの音はどんどん大きくなっ て、もっと恐かったけれど、移動したりそっちを見たりはしなかった。そのままの位置に すわって、聞いているだけ。コーヒー沸かしのせいで、みんなが何を言っているのか聞き 取るのはむずかしかった。
「われわれは無生物の勢力を自分たちの中に取り入れすぎている。そして受動的な̶̶
ちょっと誰かコーヒーポットを見てくれる? 何であんな音たててんの?」
ひとしきりあって、誰かがコーヒー沸かしを調べた。彼は視線を落とし、待った。
「さっきの、もう一度書くよ。『われわれは、自分たちの受動的な生と、外の現実とを交 換しすぎている』」
それについて話し合った。コーヒー沸かしはおとなしくなって、みんなぞろぞろとコー ヒーを取りにきた。
背後で声がして、手が触れた。「コーヒー要らないの? ネッドだっけ? ブルース だっけ? こいつ何てったっけ̶̶ブルース、だよね?」
「OK」立ち上がって、みんなの後についてコーヒー沸かしのところへ行った。自分の 順番を待つ。自分のコップにクリームと砂糖を入れるのを、みんなが見ていた。もとの椅 子に戻るのもみんなが見ていた。自分がちゃんともとの椅子を見つけたのを確かめて、す わって、また聴くのを確認した。暖かいコーヒーと、その湯気で、いい気分だった。
「活動は必ずしも生命の証拠ではない。クェーサーは活動する。瞑想する僧は無生物で はない」
すわって空のコップを見つめた。瀬戸物のマグだった。ひっくり返してみると、底に印 刷があって、うわぐすりにひびが入っていた。古そうなマグだったけれど、デトロイト製 だった。
「回転運動は、宇宙で一番不活発なものである」
別の声が言った。「もう時間だよ」
これの答は知っていた。時間は丸い。
「うん、そろそろ終わらないとね。最後に何か一言言いたい人はいる?」
「えーと、生き残るためには、抵抗が最小のコースに従うのが原則だってことを言って おきたいです。従うのであって、導くんじゃない」
もっと年寄りの声が言った。「そう、従う者は導く者より長生きする。キリストみたい に。その逆は成り立たない」
「飯にしたほうがいいぞ。今じゃリックは、五時半ぴったりに食事を止めるから」
「この話はゲームでやろう。今はダメ」
椅子がキーキーガタガタ言った。彼も立って、古いマグをほかのマグのあるトレーに 運び、部屋を出る行列に加わった。まわりで冷たい服の匂いがした。いい匂いだけど、冷 たい。
どうもこの人たちは、受動的な生がいいって言ってるみたいだ。でも、受動的な生なん てない。そんなの矛盾してる。