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第 11 章

ドキュメント内 ディック『暗闇のスキャナー』 (ページ 123-133)

翌朝、今や脳スコープのみならず車まで修理待ちの状態にあったので、フレッドはタク シーでエングルソーン錠前店に乗りつけた。四十ドルと、胸には多大なる心配を抱えて いる。

店は古い木造の雰囲気で、看板は多少現代的な感覚だったが、カギの種類を示すウィン ドウには、小さなしんちゅう製のがらくたがいっぱいあった。セコい飾りつきの郵便受 け、人間の頭に似せたイカレたドアノブ、でっかいにせの黒い鉄カギ。薄暗い店に入っ た。まるでヤク中の住処みたい。なかなかおもしろい皮肉だ。

カウンターには巨大な合いカギ製作用のグラインダーがデンと据えられ、元カギが何千 とぶらさがったラックもあった。太った老婦人が迎えてくれた。「おはようございます。

なにかお探しですか?」

アークターは言った。「実は、銀行に突っ返されたという……

Ihr Instrumente freilich spottet mein, Mit Rad und Kammen, Walz’ und Bugel:

Ich stand am Tor, ihr solltet Schlussel sein;

Zwar euer Bart ist kraus, doch hebt ihr nicht die Riegel.

……わたしの小切手の清算をしようと思いまして。確か二十ドルの小切手だったと思う んですが」

「まあ」婦人は愛想よく、カギのかかった金属製ファイルを取り出し、開けるカギを探 して、それから実はカギがかかっていなかったのに気がついた。それを開き、すぐさまメ モのついた小切手を見つけた。「アークターさんでございますか?」

「ええ」とさっそく金を取り出す。

「はい、確かに二十ドルでございます」メモを小切手からはがして、アークターが来店 して小切手を買い戻したのを、一生懸命書きつけ始めた。

「ほんとにすみませんでした。まちがえて、今の口座じゃなくて昔の口座用の小切手を 切っちゃったもんでして」

「はあはあ」と婦人は、書きながら微笑した。

「それとですね、先日お電話をいただいたんですが、その節はたいへん失礼いたしまし たとご主人にお伝え願えれば̶̶」

「カールでしょう、実は弟なんですよ」婦人は背後にチラリと目をやった。「カールが妙 な口のききかたをしたんでしたら……」と身ぶりをまじえて微笑。「小切手のことになる と、たまにカッとなるもので……謝りますわ、もし……ほら、つまり、失礼なことを申し 上げたんでしたら」

「電話をいただいた時は、こっちも取り乱してたもんでして。だからその件でも申し訳 なかったとお伝えください」あらかじめ考えてあったせりふ通りに話した。

「ええ、確かそんなことを申しておりましたっけ」婦人はこちらの小切手をよこした。

こちらは二十ドルを渡した。

「手数料とかは?」

「いえ、結構でございますよ」

「取り乱してたのは、友だちが一人、急死したもんでして」とアークターは小切手小切 手をチラッと見てからポケットにしまった。

「あらまあ」

アークターは、まだぐずぐずしていた。「自分の部屋で、肉をのどにつまらせて、ひと りぼっちで窒息死したんです。誰もそれを聞きつけなかった」

「それが原因で死ぬ人って、意外とたくさんいるんですよね、アークターさん。読んだ 話ですけど、お友だちと食事をしているとき、相手がしばらく何もしゃべらないでじっと すわっているようなら、身を乗り出して、しゃべれるかどうかきいてあげたほうがいいん ですって。つまり、しゃべれなくなってることがありますからね。窒息していてそれを告 げることもできなくなってるとか」

「ええ。どうも。その通りです。それと小切手の件も、どうも」

「お友だちのことはお気の毒でした」と婦人。

「ええ。最高の友だちでした」

「まあ、それはさぞかし……その方、おいくつでしたの」

「三十代はじめです」とアークターは言ったが、嘘ではなかった。ラックマンは三十二 才だった。

「まあ、おかわいそうに。カールには言っておきますので。それとわざわざご来店くだ さって、有り難うございました」

「いえ、こちらこそ。それとエングルソーンさんにもお礼を申し上げていただけますか。

お二人とも、本当に有り難うございました」別れ、暖かい朝の歩道に戻り、まぶしい太陽 とよどんだ空気の中でまばたいた。

電話でタクシーを呼び、帰り道は、特にヤバい目にもあわずにバリスの仕かけた網から 見事に逃れたことについて、鼻高々だった。なんせ、もっとずっとひどい事態になること だって有り得た。小切手はまだ店にあったし、錠前屋の本人とは顔を合わせずに済んだ。

小切手を取り出して、バリスがどこまでこっちの筆跡を真似できたかを調べた。うん、

確かに解約した口座だ。小切手の色ですぐわかった。完全に解約した口座で、銀行も「口 座解約済み」のハンコを押していた。錠前屋が怒り狂うのも無理はない。その時、走るタ クシーの中で小切手を調べながら、アークター筆跡が自分のものなのに気がついた。

バリスの筆跡とは全然ちがう。完ぺきな偽造だ。書いた記憶がないという点さえなけれ ば、これが自分の筆跡でないとは絶対に思わなかっただろう。

ああ、バリスめ、これまでどんだけこの手のことをやらかしやがった? おれの総資産 の半分も使いこみやがったんじゃなかろうか。

バリスは天才だ。といっても、どうせトレースして複製したか、どのみち機械的な偽造 なんだろうけど。でも、おれはエングルソーン錠前店なんかに小切手を切ったことはない し、トレースってことは有り得ない。こいつは一枚限りの小切手だ。当局の筆跡鑑定部に まわして、どうやって偽造したのかつきとめてもらおう。ひたすら練習しまくっただけか

もしれない。

キノコがらみの御託については̶̶面と向かって、「人に聞いたんだけど、お前、幻覚 キノコをさばこうとしてるそうだな」と言おう。それで、「やめとけ」って。誰か心配に なったやつから、話が戻ってきたってことにしよう。当然そういうやつはいるだろうし。

でも、こういうのは、あいつのたくらみをランダムに断片的に示すものでしかない。そ れも最初の再生でたまたま見つかっただけの。おれが直面しているもののサンプルでしか ないんだ。その他あいつが何をしでかしたかは神のみぞ知る。ブラブラして参考書を読ん で、計画だの策謀だの陰謀だのをめぐらす時間はいくらでもあるヤツだ……そうだ、さっ そく電話にトレースをかけて、盗聴されてないか確かめたほうがいい。バリスはエレクト ロニクスのハードウェア入りの箱を持ってるし、電話の盗聴用に使える誘導コイルなん て、たとえばソニーですら製造販売してる。たぶん盗聴されてるはずだ。それもたぶんか なり以前から。

盗聴といっても、おれ自身が最近̶̶必要上̶̶仕掛けた盗聴器以外のヤツだけど。

ガタガタと走るタクシーの中で、再度小切手を調べながら、突然ひらめいたことがあっ た。もしこれを書いたのが自分だったら? アークターがこれを書いたんだとしたら? 

そういえばそうだったような気もする。うすらボケのアークター自身がこの小切手を書い たような気がする。それもすごい殴り書きで̶̶字が傾いている̶̶どういうわけか、急 いでいたらしい。あわてて、まちがった小切手を持ち出してきて、あとでそれをすっかり 忘れてしまった。小切手を書いたことすら忘れてしまったのだ。

忘れたのは、アークターが……

Was grinsest du mir, hohler Schadel, her?

Als dass dein Hirn, wie meines, einst verwirret

Den leichten Tag gesucht und in der Dammrung schwer, Mit Lust nach Wahrheit, jammerlich geirret.

……あのサンタ・アナでのでっかい麻薬ハプニングから逃げ出したときのことだ。そこ であのかわいいブロンドの娘に会ったんだっけ、歯並びが悪くてブロンドの長い髪とでか いケツをしてて、すごく生き生きしてて気さくで……車を発進できなかった。ヤクにいか れきってたから。トラブルづくめだった̶̶その晩はヤクを山ほどのんだり射ったり鼻で 吸ったりして、それが夜明けまで続いた。物質Dが山ほど、それも一級品。超最高級品。

アークターのブツ。

身を乗り出して、運転手に告げた。「そのシェルのガソリンスタンドで止めて。そこで 降りる」

降りて、タクシーの運転手に金を払って、電話ボックスに入って、錠前屋の番号を調べ て、電話した。

老婦人が出た。「エングルソーン錠前店です、おはようござ̶̶」

「先ほどのアークターです。たびたびお騒がせしてすいません。さっきの小切手分の作 業をなさったときですが、どこに呼び出されました? 住所、わかりますか?」

「えー、ちょっとお待ちくださいね、アークターさん」婦人が受話器を置いた音がガタッ と聞こえた。

遠くでくぐもった男の声。「誰だ? 例のアークターか?」

「そうよ、カール、でもお願いだから黙っててちょうだい。あの方、たった今お見えに

ドキュメント内 ディック『暗闇のスキャナー』 (ページ 123-133)

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