生まれたのは叡智であって、紙性ではなかった。片手で斬り殺しつつもう片方で癒やす 紙性……そんな紙性は救済者ではない。だからぼくはつぶやいた。紙様ありがとう。
翌朝ぼくたちは、ちょっとした農場区域に連れて行かれた。動物だらけだ。ビデオや音 声の記録装置はまったく見当たらなかったが、山羊や鶏に囲まれ、ウサギの入った小屋の 隣にいる黒髪の子供がぼくには――ぼくたちみんなに――見えた。
ぼくが予想していたのは静謐さ、紙様の平穏さであり、あらゆる理解を超越するもの だった。でも子供はぼくたちを見ると、立ちあがって非難を顔にみなぎらせながらこちら にやってきた。目は巨大で怒りに見開かれ、しかも決然とぼくを見据えている――右手を 挙げて、ぼくを指さした。
「あなたの自殺未遂は、自分自身に対する暴力的な残虐性だったわ」と少女は明瞭な声 で言った。なのに彼女は、リンダが言った通り、せいぜい二歳だった。本当に赤ん坊で、
なのに目は無限に老いた人物のものだった。
「それはホースラヴァー・ファットだ」とぼく。
ソフィアは言った。「フィル、ケヴィン、デヴィッド。あなたたち三人。他にはいな いわ」
ファットのほうに向き直って口を開く――と、だれもいなかった。エリック・ランプト ンとその妻、車いすで死にかけている男、ケヴィンとデヴィッドしか見えない。ファット は消えた。跡形もなく。
ホースラヴァー・ファットは永遠に消えた。存在したことなどなかったかのように。
「どういうことだ。君はあいつを破壊したな」とぼく。
「そうよ」と子供。
ぼくは「どうして?」と言った。
「あなたを全き者にするため」
「じゃあファットはぼくの中にいるの? ぼくの中で生きているの?」
「そうよ」とソフィア。だんだんその顔から怒りが消えていった。大きな黒い目はくす ぶるのをやめた。
「ファットはずっとぼくだったんだ」
「その通りよ」とソフィア。
エリック・ランプトンが言った。「すわって。彼女はこっちがすわっているほうがいい んだ。しゃべるときに見上げずにすむから。われわれは彼女よりもあまりに背が高い」
おとなしくぼくたちはみんな、でこぼこのひからびた茶色い地面にすわった――ぼくは そこが映画『ヴァリス』のオープニングショットなのに気がついた。映画の一部はここで 撮影されているんだ。
ソフィアは「ありがとう」と言った。
「あなたはキリストなんですか?」とデヴィッドは、体育座りでひざをあごにつけ、両 腕を脚に回している。デヴィッドも子供のようだった。子供が同じ子供と対等に会話して いるようだ。
「あたしはあたしであるところの者」とソフィア。
「これは実に――」ぼくは何と言っていいかわからなかった。
「過去が消えないと、その人は呪われているわ。知っていた?」とソフィアはぼくに 言った。
「うん」とぼく。
ソフィアは言った。「未来は過去とちがっていないと。未来は常に過去とちがわないと いけない」
デヴィッドが言った。「あなたは紙様なの?」
「あたしはあたしであるところの者」とソフィア。
ぼくは言った。「じゃあホースラヴァー・ファットはぼくの一部が外に投射されて、グ ロリアの死に直面せずにすむようにしたものだったんだ」
ソフィアは「そうなのよ」と言った。
ぼくは言った。「いまグロリアはどこ?」
ソフィアは「お墓の中に横たわっているわ」と言った。
ぼくは言った。「彼女は戻ってくる?」
ソフィアは「決して」と言った。
ぼくは言った。「不死があると思ったのに」
これに対しソフィアは何も言わなかった。
「ぼくを助けてくれますか?」とぼく。
ソフィアは言った。「もう助けたわ。1974年にも助けたし、自殺しようとしたときも助 けた。生まれてからずっと助けてきたわ」
「君はヴァリスなの?」とぼく。
「あたしはあたしであるところの者」とソフィア。
エリックとリンダに向き直り、ぼくは言った。「必ずしも答えてくれるわけじゃないん ですね」
「無意味な質問もあるから」とリンダ。
「なぜミニを癒やさないの?」とケヴィン。
「あたしはやることをやるの。あたしはあたし」とソフィア。
ぼくは言った。「じゃあぼくたちは君を理解できないよ」
ソフィアは言った。「それは理解できたのね」
デヴィッドがいった。「君は永遠なんでしょう?」
「ええ」とソフィア。
「そして何でも知っているの?」とデヴィッド。
「ええ」とソフィア。
「君は殺す者であり殺される者なの?」とぼく。
「いいえ」とソフィア。
「殺す者?」とぼく。
「いいえ」
「じゃあ殺される者か」
「あたしは傷ついた者であり、殺された者。でも殺す者じゃないわ。あたしは癒やす者 であり癒やされる者」
「でもヴァリスはミニを殺した」とぼく。
これに対し、ソフィアは何も言わなかった。
「君は世界の審判なの?」とデヴィッド。
「ええ」とソフィア。
「審判はいつ始まるの?」とケヴィン。
ソフィアは言った。「あなたたちみんな、最初からすでに裁かれているのよ」
ぼくは言った。「ぼくはどう評価する?」
これに対し、ソフィアは何も言わなかった。
「教えてもらえないの?」とケヴィン。
「わかるわ」とソフィア。
「いつ?」とケヴィン。
これに対し、ソフィアは何も言わなかった。
「いまはそのくらいで十分だと思う。後でまた話ができるわ。この子は動物たちとす わっているのが好きなの。動物たちが大好きなのよ」とリンダがぼくの肩に触れた。「そ ろそろ行きましょう」
その子から離れるときに、ぼくは言った。「あの子の声は1974年以来頭の中で聞こ えたAIの中性的な声だ」
ケヴィンが荒っぽく言った。「コンピュータだよ。だからこそ一部の質問にしか答えら れないんだ」
エリックとリンダはどちらも微笑んだ。ケヴィンとぼくはエリックを見た。車いすのミ ニは無言で横に並んでいた。
「AIシステム。人工知能か」とエリック。
「ヴァリスの端末だ。ヴァリスという主システムの入出力端末」とケヴィン。
「その通り」とミニ。
「少女じゃない」とケヴィン。
「あたしが産んだのよ」とリンダ。
「そう思っただけかもしれませんよ」とケヴィン。
リンダはにっこりした。「人間の体の中の人工知能。肉体は生きているけれど精神はち がうわ。知覚力があるの。何でも知っているわ。でも彼女の心は、あたしたちが生きてい るような形では生きていないわ。創造されたものではない。常に存在してきたのよ」
ミニが言った。「聖書を読もう。彼女は創造が存在する前から創造者と共にいた。彼女 は創造者の寵児であり喜びであり、その最大の宝物だったんだ」
「その理由はよくわかる」とぼく。
ミニが言った。「彼女を愛するのは簡単だ。そうした人はたくさんいる……『知恵の書』
にもそう書いてある。そして彼女はかれらに入り込んで導き、かれらと共に監獄にすら 入った。自分を愛した者やいま愛している者たちを彼女は決して見捨てなかった」
「彼女の声は人間の法廷でも聞かれる」とデヴィッドはつぶやいた。
「そして彼女は圧政者を破壊した?」とケヴィン。
ミニは言った。「うん。映画の中でフェリス・F・フレマウントと呼んだ人物をね。で
も彼女が転覆させて破滅させたのがだれかはわかってるよね」
「ええ」とケヴィンは言った。憂鬱な様子だった。スーツとネクタイ姿の男が南カリ フォルニアの浜辺をうろついているのを考えているのだ。その男は何が起きたのか、何が いけなかったのか不思議に思っていて、いまだに策略を巡らしているのだ。
四つの国の終わりに、
その罪悪の極みとして
高慢で狡猾な一人の王が起こる……
涙の王、やがて万人に涙をもたらした王。その王に刃向かって何者が動き、王はその阻 害の中でそれを見分けることができない。ぼくたちはたったいま、その人物、その子供と 話をしたのだ。
常に存在していたその子供に。
*
その晩、夕食を食べつつ――ソノマ中央部から少しはずれたメキシコ料理のレストラン だった――友人ホースラヴァー・ファットに二度と会うことがないのに気がついて、内面 に悲しみを感じた。喪失の悲しみだ。知的には、自分がファットを再び取り込んだのは 知っていた。もともとの投影プロセスを逆転させたのだ。それでもぼくは悲しかった。あ いつの存在を楽しむようになっており、その果てしない与太話、知的、霊的、感情的な探 求の物語を楽しむようになっていた。探求̶̶聖杯を求めての探求ではなく、自分の傷、
グロリアが死のゲームで与えた深い傷害から治ろうとする探求だ。
電話をかけたり訪ねたりする相手としてファットがいないのは奇妙な気分だった。ぼく 自身の生活で、実にあたりまえの一部になっていたし、ぼくたちの友人たちの生活におい ても当たり前の存在になっていた。養育費の小切手が止まったらベスがはどう思うだろう かとぼくは考えた。そうなったら、経済的な負担はぼくが負うわけか。クリストファーの 面倒を見ればいい。それだけの資金はあるし、クリストファーを愛する点では、多くの面 でその父親にひけをとらなかった。
「落ち込んでるのか、フィル」とケヴィン。いまやぼくたち三人だけだったから、気兼 ねなしに話ができた。ランプトン一家はぼくたちをレストランに送ってくれて、夕食を終 えて大邸宅に戻る準備ができたらまた電話するように言ったのだった。
「いや」とぼく。「ホースラヴァー・ファットのことを考えててね」
ケヴィンは、間を置いて言った。「じゃあ目覚めつつあるんだな」
「うん」ぼくはうなずいた。
「大丈夫だよ」とデヴィッドが、居心地悪そうに言った。感情表現が苦手なのだ。
「おう」とぼく。
ケヴィンは言った。「ランプトン夫妻はイカレてると思う?」
「うん」とぼく。
「あの少女はどうだ?」とケヴィン。
ぼくは言った。「あの子はイカレてない。夫妻がイカレてるのと同じくらいあの子はイ カレてない。パラドックスだ。完全に頭のおかしい人物二人̶̶ミニも入れれば三人̶̶