鯨文化の調査について
1 現地調査
鯨と人間とが関わる文化には、鯨組のような組織、その信仰、また衣食住にまつわるものなど が考えられる。いわゆる史跡、遺物として残る場合と、口頭伝承による民俗として伝わったもの が中心となる。
近世の鯨組を中心とした組織自体はなくなり、明治以降は捕鯨会社として継続されていたが、
それも戦後間もなく廃絶することとなり、すでに40年近くなろうとしている。捕鯨の実際を知 っている人は、もう多くはなく、ただ食べたという記憶だけを持っているだけの人も多くなって いる。それ以上に、食べた経験のない世代が、半数以上を占めてきている状況である。高齢者へ の聴き取り調査は、郷土の鯨文化を知る上では、急務である。
さて、大規模な組織を必要とした捕鯨では、その組織で多くの人が働き、さまざまな文化がそ こにもたらされ、また出ていったと思われる。現在、呼子町内、小川島等で、史跡としてみるこ との出来る近世以来のものについては、第2回と4回の鯨セミナー資料に網羅している。また聴 き取り等により、収集した伝承は、次節の「鯨のはなし」に掲載した。
今回の調査の機会に、呼子と小川島だけでなく、さらに唐津藩域内や、遠く長崎県についても、
五島、生月、壱岐などにおける史跡等を調査した。この地域は、西海と呼ばれる地域であるが、
相互の漁場は近く、組主同士親縁関係がある場合もあって、人の交流、道具の貸借、漁場の利用 などがかなり広域化していた。このような中にあって、鯨にまつわる文化の独自性が地域によっ てどれほどの差異があるのかは、不明である。もしあるとするならば、どれほど忘れ去られてし まっているか、どうかという違いなのかもしれない。
鯨にまつわる民謡を取り上げても、五島の有川には、多くの種類の鯨唄が良く残されていて、
他の地域に残る鯨唄をほぼ網羅していた。その歌詞もほぼ似ており、違いは伝承者の異なった曲 調だけということになる。しかし、その曲調も、鯨唄らしい合いの手や、太鼓の打ち方などには 共通部分が残っているように感じられる。民謡研究家の竹内勉氏の主張のように、特殊な技術者 とセットでもたらされることが多かった鯨唄は、それこそ地域の独自性自体が希薄なのかもしれ ない。それよりも鯨唄というジャンルの特徴そのものが、民謡の中での独自性ともいえるのかも しれない。
同様に現在に残る史跡等についても、その財力と組主の強力な個性がミックスされたものとい うことが出来る。冬の荒海の危険をかえりみずに、冨をもたらす愛情豊かな鯨を殺傷するという ジレンマは、その生態も熟知されていたがゆえに、大方の人々に共有されていたようである。ど こにでもある鯨にまつわる禁忌談や、慰霊式、供養塔、海上安全を祈る事例は、そのジレンマに 悶える生身の人間の癒しでもあったということが出来る。現代に残る史跡は、そのような人間の 心の背景なくしてみては、単に金持ちの売名の寄進行為とだけしかみられなくなる恐れがある。
暮らしと鯨捕りの光景がかけ離れれば離れるほど、先人の想いは、史跡から読み取れなくなって いくと思われる。
そのようなことから、史跡をその当時の社会を背景にして見直すことが今回の事業の目的であ る。下記のような多くの鯨の史跡を探訪したが、草生す中に忘れ去られようとしている場所も多 い。呼子の場合も然りであった。
そして鯨の供養塔や、社寺仏閣への寄進、祈願などは、捕鯨そのものを行う人がいなくなった のであるから、行われなくなって久しい。今後このような史跡をどのようにして、活き活きとし て残せるかは、検討の余地がある。そのようなことを考えさせられた調査であった。
長崎県五島市三井楽 呼子の生島仁左衛門が組み出しした。
新上五島町 江口家と中尾家が協同で組み出しした。
似首 湯川家より養子に入り中尾家三代となった。
壱岐市 土肥・布屋・篠崎・許斐・布屋など多い時に
は14組が操業したといわれる。
平戸市生月 益富家の地。島の館があり、鯨の展示が詳し い。納屋場は残っていないが、鯨組主の住宅 が一部残されている。
長崎市万屋町 中尾甚六が安永 7 年(1778)に鯨の潮吹きの山 車を考案し教えたと伝えられる。
佐賀県唐津市神集島 明治23年建立のセミ鯨に乗った恵比寿像が ある。
鏡神社 唐津藩の豪商常安九右衛門の寄進物がある。
金刀比羅神社 同上 恵日寺 同上 福岡県二丈町浮嶽神社 同上
山口県下関市 近代捕鯨の基地。第 4 回捕鯨サミットが行われた。
(八幡崇経)
2 鯨のはなし
鯨にまつわる伝承、習俗や文化についての調査を行ってきた。その情報は、呼子鯨組のメーリ ングリストで公開してきたものや([yobuko̲kujira])、また、個人的に情報交換したものの中か ら、ある程度まとまったものを「鯨のはなし」として集めたものである。主に呼子鯨組代表の坂 本裕明氏の筆になり、呼子周辺における、鯨の文化にまつわる様々な貴重なはなしが採集されて いる。
他にも唐津市内における、鯨組草場家のあった京町における鯨の話しを提供いただいたのは、
吉富寛氏(山内薬局)である。吉冨氏は、唐津くんちの研究や、その郷土史についての造詣が深 く、ホームページで公開しておられる( http://ww21.tiki.ne.jp/~yamauti/index.htm )。 氏 のお住いの京町は、豪商日野屋常安九右衛門の居住地でもあった。常安家は、呼子の中尾家との 親戚関係の上からも縁浅からぬものがあり、草場家や京町周辺で伝えられた鯨にまつわる話は、
大変興味深い。
その他、鯨組の城谷さんが、大正末に福岡日日新聞に連載された、鯨組主中尾家を扱った「捕 鯨王国」の典拠や著者について、探索した経過を収載した。見難いマイクロの新聞を一コマずつ 確認しながら、大変苦労して捕鯨王国連載の原紙探しに挑まれたが、結局発見するに至らなかっ た。そのため復刻刊行した『捕鯨王国』に、典拠を明記することが出来ず推測でしか記せなかっ た。著者についても不明なことが多かったが、その出身地多久に資料が存在しある程度分かった。
このように苦労しながら復刻したが、公刊後、著者北島磯舟は、山下酒屋の絢子さんの大おじ にあたる親戚と判明。娘さんが福岡に健在であることなどが分かり、意外な結末となった。灯台 下暗しである。
鯨のはなし1
鯨組のNさんが、相知町のKさんから聞いた話。むかし、呼子から鯨売りが相知に来とったそ うな。各家庭には、買った鯨の肉を入れて軒に吊すテボがあって、そのテボのことを『クジラテ ボ』と呼んだそうな。 この話続きます! 2005.6.2 ヒゲクジラ
鯨のはなし2
鯨組のSさんが、鎮西町の87才になるYさんから聞いた話。Yさんは、20才の頃呼子の商 店に6年ほど勤めた。その店は、鯨屋と呼ばれ、鯨肉を扱い、主人は鯨の解剖長を努めていた。
その頃は、電話もなく通信は電報を使用していたそうな。まだ、郵便局が天満町にあった時代。
鯨が捕れるとあちこちに電報を打っていたが、その中には、県庁宛の電報もあった。その後、県 庁からの返信が着くと、Yさん加部島のご主人の所まで、電報を届けに行っていたそうな。この 話続きます!
2005.6.2 ヒゲクジラ
鯨のはなし3
鎮西町のHさんの話。戦後まもなく、大分県の別府の小学校で養護教師をしていた H さん。終 戦後始まった給食のメニューは、脱脂粉乳とコッペパンに鯨汁だった。鯨汁は、風呂釜みたいな 釜にGHQから配給を受けた鯨のミートボールが、児童一人あたり2個、それにサツマイモと野 菜を煮込んだものであった。底に沈んだ鯨のミートボールを、かき回しながら掬うのが給食の時 の苦労だったそうです。始めは「美味しい、美味しい」と言っていた子供達も、さすがに毎日に なると「飽きる」と言ったそうです。
2005.6.3 ヒゲクジラ
鯨のはなし4 鯨組の S さんの母親(K さん)は、年齢83才。呼子町殿之浦出身の K さんが、
子どもの頃の話。当時、呼子沖で捕獲された鯨が加部島の解体場で解体される時は、呼子から鯨 見物のためのボートが仕立てられたそうです。
始めは、物珍しさもあって勢いボートにのりこんだ K さん。解体場で鯨の解体が進むに連れ、
あたりの海は血の海と化し、生臭い臭いがそこここと言わず一面に漂ってきて鼻につき、具合が 悪くなりそうだったと言う話。
2005.6.3 ヒゲクジラ
鯨のはなし5
鯨組のSさんが聞いた、呼子町加部島のY(80才)さんの子どもの頃の話。当時、15〜6 才だったYさん、捕鯨会社にアルバイトに行っていた。鯨の解体には、多くの人手が必要で、Y さんもロクロ巻きのバイトに汗を流した。日当は、現金ではなく「シャニク」と呼ばれた鯨の生 肉一角だったそうです。Yさんが持ち帰った鯨肉は、一部を自宅で消費したものの、殆どは、呼 子の朝市通りで売られ現金化されたそうです。
2005.6.3 ヒゲクジラ
鯨のはなし6
小川島出身のIさんが体験した鯨の話。Iさんは、現在鎮西町に住み今年80才になる。昭和 18年に徴兵検査に合格。入隊迄の4ケ月の間に、当時小川島を基地にしていたキャッチャーボ ート第一関丸に3回乗り込んだ経験がある。ご本人が、平成8年にだされた歌集にその時の捕鯨 船上の様子が詠まれている。氏をして、捕鯨船上での一時間のドラマこそが、社会の縮図であり、
総て集約されているとの想いから「鯨鳴」の歌集は生まれた。
「すは命中ぐんぐん延びゆく銛の綱小さくうねりて海を切りゆく」