序 調査の概要... 1
1 呼子の町並みと鯨組主屋敷 ... 2
1.1 呼子の発展と町並み空間...2
1.2 小川島と鯨組主中尾家...4
1.3 『小川嶋鯨鯢合戦』に描かれた中尾屋敷...5
1.4 町並み景観と町家建築...7
2 山下家住宅の建築 ...10
2.1 主屋の建築...10
2.2 角倉・勘定場・その他...12
2.3 裏座敷と仕込蔵...13
3 山下家住宅の変遷と復原...16
3.1 山下家住宅の痕跡 ...16
3.2 中尾家から山下家へ...17
3.3 鯨組主屋敷の復原 ...18
4 呼子の捕鯨業と鯨組主屋敷 ...20
4.1 新出の『小川嶋鯨鯢合戦』...20
4.2 捕鯨作業の実際...21
4.3 鯨組経営と組主屋敷...22
4.4 屋敷空間の利用法 ...23
結 山下家住宅の保存...26
図 面...27
呼子町呼子松浦町海側に所在する山下家住宅は、藩政 期に鯨組を組織して巨万の富を築いた旧中尾家の建築遺 構として知られている。この旧中尾家の屋敷を取得した 山下家は、明治 10 年(1877)頃以降、酒造業を営んで 来たが、一部増築や改築を施したものの、主屋や蔵を始 めとして多くは中尾家が建築した建物群をそのまま利用 して今日に至ったとされる。天保 11 年(1840)刊行の
『小川嶋鯨鯢合戦』に収められた中尾家屋敷の鳥瞰図 ( 以 下「中尾宅」図と呼ぶ)に描かれることからも、このこ とは裏書きされてきた。
平成 9 年(1997)3 月に敷地裏手に建つ二階建の建 物 2 棟、仕込蔵と裏座敷を解体する計画が持ち上がり、
神奈川大学工学部建築学科西和夫教授が視察して所見を 記し、仕込蔵と裏座敷、北側に続く蔵(当時の「中尾宅」
図では「沖ノ倉」、本書では「勘定場」と呼ぶ)がとも に江戸期に建築年代が遡ること、仕込蔵が「中尾宅」図 に描かれた「観濤閣」に当たる可能性があること、裏 座敷に対馬藩主宗氏が宿泊した可能性があることを指摘 し、江戸期の建築と見られる主屋とともに保存措置を講 ずべきことを進言したが、老朽化を理由として平成 9 年 に仕込蔵と裏座敷は記録保存の上、やむなく解体される に至った。
だが、これらの建物を解体した結果、裏座敷の鴨居天 端から天明 3 年(1783)の年紀と大工・小工名を記し た墨書が発見され、江戸期に遡ると推定された建築年代 が裏付けられるとともに、主屋を始めとする現存する建 造物群について詳細調査を実施し、これらの建築年代と 建築履歴を明らかにし、その建築的価値を把握する必要 性が生じるに至った。
そこで呼子町教育委員会では、平成 13 年度に山下家 住宅の建造物調査を計画し、九州芸術工科大学環境設計 学科と松尾建築設計室がこれを担当することとなった。
調査は平成 13 年 10 月 16 日、20 日、25 〜 27 日、12 月 3 日に実施し、山下家住宅の配置図・平面図・断面図・
立面図の採取実測、痕跡の採取、来歴の聴取、建築変遷 図の作成を行うとともに、参考資料を得るため伝統的建 造物の分布調査を実施し、平成 13 年 11 月 30 日には近 在の明治期と江戸期の建築になる町家建築 2 軒の調査も 実施し、併せて町並み空間と町並み景観の歴史、鯨組の 経営と捕鯨の実態を把握するため、関連史・資料の収集
にも努めた。
とりわけ、山下家住宅の建築の変遷と特色、鯨組とし ての利用形態を把握する上で、鯨組の活動を克明に描い た『小川嶋鯨鯢合戦』が重要な位置を占めるが、刊本の『日 本農書全集』第 58 巻に収められている岩坪本には、描 かれていない部分や矛盾する描写も見られ、天保 11 年 刊行の原本を探索することも課題となった。岩坪本は遺 憾ながら行方不明であることが確認されたが、より原本 に近いものが九州芸術工科大学附属図書館に蔵されるこ とが判明し、史料調査においても大きな成果が得られた。
以上の調査結果を本報告書では 4 章に分けて報告する こととし、第 1 章では呼子の町並みの中で鯨組主屋敷が 占める位置と呼子の町並み空間と町並み景観の構成上の 特色について、既往研究と遺構調査、絵図史料や文献史 料の再検討に基づいて述べ、第 2 章では実測調査に基づ いて山下家住宅の建築構成上の特色を述べ、第 3 章では 痕跡調査に基づいて山下家住宅の変遷と鯨組主屋敷とし ての復原について考察結果を述べ、第 4 章では呼子の捕 鯨業から見た復原された鯨組主屋敷の空間について、既 往研究と『小川嶋鯨鯢合戦』に基づいて検討を加え、併 せて新出の『小川嶋鯨鯢合戦』収載の全図版を紹介し、
結では山下家住宅の建築史学的価値をまとめ、保存に向 けての課題を展望し、巻末に実測図面と復原図面を収め た。
調査は宮本雅明(九州芸術工科大学教授)と松尾光一
(松尾建築設計室代表)の他、溝口欽也(松尾建築設計 室雇員)、伊藤恵美(九州芸術工科大学大学院学生)、今 村華子(同)、上谷孝介(同)、馬場祥之(同大学学部学 生)、日野良一 ( 同)が参加し、報告書の編集と執筆は宮 本が担当し、第 1 章、第 4 章には伊藤、第 2 章には松尾 の執筆協力を得た。本文中の図版は伊藤が作成し、巻末 に付した図面は松尾が作成した。
調査に際しては、山下善市氏、山下順子氏、永井正臣氏、
柴田雄一郎氏、佐賀県立図書館、小値賀島歴史民俗資料 館、九州芸術工科大学附属図書館に協力を頂き、事務局 として呼子町教育委員会中村章郎氏からも調査全般にわ たって協力を頂いた。
序 調査の概要
1.1 呼子の発展と町並み空間
山下家住宅が所在する呼子町は、北側に玄界灘を望む地 に成立した港町で、壱岐・対馬を経て朝鮮半島へは最短 の距離にある。沖には加部島・小川島の 2 島を控え、台 地には呼子湾が湾入し、背後に上場台地が控えている。
呼子の地名の初見は応安 5 年(1372)に「呼子津」
として見え、古代より海上交通の拠点として発展し、中 世には倭寇松浦党の拠点として石志氏、佐志氏、波多 氏が支配し、南北朝期以降は呼子氏の支配するところと なった。
近世には唐津藩領に属し、沿岸廻船の寄港地として繁 栄を見せ、参勤交代のため江戸へ向かって往来する九州 西海岸の大名の船も呼子に寄港するなど、他藩との交渉 も少なくなかったため、唐津藩は呼子に藩営の御茶屋を 設け、代官クラスの侍を派遣し、遠見番所や藩境番所、
番代屋敷や高札場も置かれた。幕府の巡察使が来訪時に は呼子に滞在し、藩の内外から 1800 余艘の警固船が入 港したとされる(『呼子町史』)。
近世後期には鯨を始めとする水産物の集散地として繁 栄し、生嶋家や中尾家、唐津屋を始めとする水産物問屋 や西国一帯の国名や港津名を屋号とした船問屋が建ち並 び、幕末には問屋数は 64 軒を数えたという(『呼子町 史』)。
呼子は一般の漁村に当たる浦分と藩の台所用の鯛を課
された釣分、アワビやサザエを課された海士分に分かれ、
天保 9 年における浦分の家数 276 軒、人数 1057 人、釣 分の家数 57 軒、人数 354 人、海士分の家数 57 軒、人 数 196 人を数えた。
天保 7 年(1836)における町並み空間の様子は、幕 府の命を受けた佐賀藩の指示によって作成された「呼子 村絵図」(佐賀県立図書館蔵)に窺うことができる。東 側を上場台地、西側を呼子浦に挟まれ、壱岐を望む海岸 に願海寺、その南側高台に龍昌院が境内を構え、さらに 南側高台に「八幡宮」が境内を構え、それぞれ門前に「海 士町」「先方」の町並みが広がる。いずれも船着場や海 岸に向かう狭い通りに沿って町並みは展開し、南側に続 く「釣分」の町並みとともに中世に遡る港町の面影を伝 えている。
「海士町」「先方」と交わり、海に沿って南へ一本の通 りが曲折しつつ延び、その両側に「中町」「宮町」の町 並みが延びる。いずれも海に面した西側は宅地奥行が長 く、宅地は直接海に面するのに対し、台地を控えた東側 の宅地は奥行が短かく、通りを挟んで大きな格差が生じ る空間構造を呈していた。近世以降、海岸を埋め立てて 成立した町並みと考えられよう。
「中町」東側の高台には石垣を巡らした御茶屋と西念 寺、「宮町」東側の高台には「大権現」と天満宮が境内 を構え、その門前に村方への道が通る。「宮町」の南端 から川を渡ると、「浦町」の町並みが延び、南方の台地
1 呼子の町並みと鯨組主屋敷
↑「呼子村絵図」に見る北半の町並み(佐賀県立図書館蔵)
↑納屋場の図(『小川嶋鯨鯢合戦』より)
↑「呼子村絵図」に見る南半の町並み(佐賀県立図書館蔵)
上には愛宕社が鎮座する。後述のように、「浦町」には 鯨組主中尾家が新旧の屋敷を構え、鯨組の活動とともに 成長した町並みと考えられよう。
明治期以降、町並みはさらに南側に延び、町数も増え ることとなった。町並み北半の諸町は浜組と呼ばれ、先 方町・海士町・釣町・小倉町・西中町・中町から成り、
↑「中尾鯨組前作事場新屋舗之図」(『小川嶋鯨鯢合戦』より)
漁業や廻船に従事する人々が職業別に居住し(『呼子町 史』)、町並み南半の諸町は岡組と呼ばれ、宮ノ町・天満 町・松浦町・川端町・愛宕町から成り、「大権現」に代わっ て熊野三神社が鎮座し、御茶屋に代わって町役場が置か れ、現在に至っている。
1.2 小川島と鯨組主中尾家
近世中期以降の呼子の発展に欠かせないのは、捕鯨基 地として栄えた小川島の存在であった。呼子の沖合約 6 キロメートルの地に浮かぶ小川島は、16 世紀末期に紀 州から突取法による捕鯨業が伝えられたが、享保期には 網取法による捕鯨業に転じ、宝暦期に最盛期を迎えたと いう。この小川島を中心として展開された捕鯨の様子を 活写したのが、天保 11 年(1840)に豊秋亭里遊が著わ した『小川嶋鯨鯢合戦』で、鯨を解体している小川島の 浜辺の様子と海から望んだ小川島の景観を描いた絵を収 めている。
2 頭の鯨解体中の様子を描いた図は、浜辺を挟んで右 手に「アミナヤ」、左手に海岸に突き出た懸造りの「御 覧所」「浜倉」「勘定場」「カジナヤ」「米倉」を建て、さ らに「出入口」を挟んで「道具ナヤ」「大工ナヤ」「御詰 所」「粕倉」「ツボバ」「漬物倉」を鍵の手に配し、鯨解 体現場の向かいに茅葺の「大納屋」「小納屋」「ホネナヤ」
を並べ建て、これらの建物の間を夥しい数の人々が行き
来する様子が描かれている。小川島の景観は田嶋宮を中 心に据え、右手に鯨解体作業場の「道具ナヤ」、間に妻 入りの切妻造瓦葺の建物が建ち並ぶ集落を描いている。
この小川島において鯨漁を主宰したのは、壱岐の土肥 家、唐津の常安家、草場家、呼子の中尾家などで、とり わけ数多く鯨漁を主宰したのが呼子の中尾家であった。
中尾家は捕鯨で巨万の富を得、その財力は藩政を動かす ほどで、その繁栄振りは「中尾様には及びもしないが、
せめてなりたや殿様に」との里謡が残されることから窺 い知れる(『呼子町史』)。豊漁といわれた文化 6 年(1809)
冬から翌 7 年の春にかけては、64 頭の捕獲高をあげた。
金額にすると 788 貫余りとなり、当時の米相場に換算す ると、約 12000 石余りの莫大な収入となった(『呼子町 史』)。
中尾家は藩の財政を潤しただけでなく、神社を勧請し、
寺院を建立するなど地域への貢献も大きく、近世中期 以降における呼子の発展は中尾組による部分が少なくな い。この中尾家は代々甚六を名乗り、江戸中期から明治
↑「呼子村絵図」に見える中尾「新屋舗」