【第5章】
2 展示パネル
めぐりあいらんどおがわ門柱 小川島 大正4年(1915)
小川島のめぐりあいらんどおがわ入り口の門柱
は、小川小学校に大正4年(1915)、小川島捕 鯨株式会社から寄付されたものである。
明治8年(1875)、庄屋宅に開校した下等小 川小学校は、その後の変遷を経て小川小中学校とな り、平成2年老朽化のため現在地に新築移転され た。
その後の学校跡地に、農業体験交流施設として平 成4年、めぐりあいらんどおがわがオープンした。
呼子小学校門柱 呼子 大正5年(1916)
呼子小学校は、明治8年(1875)、現在の朝 市通り入り口の愛宕神社近くに開校。門柱は、大正 5年(1916)小川島捕鯨(株)の寄付によるも ので、昭和11年の学校移転に合わせ、現在の学校 敷地に移転された。
昭和49年、新校舎建設により通学路が付け替え られ、旧門柱は運動場の隅に移転したが、その後の 運動場整備等の影響から、かろうじて1本だけが姿 を留めている。
鯨鯢供養塔 小川島 文久 3年(1863)
小川島に残る鯨の供養塔は、文久3年(1863)
の銘があり、地の山の鯨見張所とともに、昭和49 年、佐賀県重要有形民俗文化財の指定をうけた。
全国に50数基の鯨の供養塔がある中、町内に4 基の供養塔が残っているのは全国でも珍しいと云 われている。
当時、鯨組では、鯨が61本捕れる毎に供養塚を 建てたとの記録もある。
石造観音座像 小川島 元禄 2年(1689)
小川島の観音堂には、元禄2年(1689)に寄 進された石造観音座像がある。六角形台座に「常寂 院青山浄雲居士」他の銘があることから、大村の鯨 組主深澤義太夫勝清ならびに深澤組関係者の供養 のため建立されたのではないかと云われている。
元禄2年は、中尾鯨組設立の前年にあたるため、
深澤組が中尾鯨組の設立に何らかの影響を与えた ものと考えられている。
鯨見張所 小川島 大正時代
小川島には、江戸期の古式捕鯨時代の山見制度が 近代まで続けられた。山見は、沖を遊泳する鯨を監 視する見張所のことで、鯨の回遊路近くの、展望が 利く島の尾根や岬などに設けられた。小川島の南西 部、地の山に置かれた山見小屋は、大正期の建築で 昭和49年佐賀県重要有形民俗文化財の指定を受 けている。
田嶋神社鳥居 小川島 明和 5年(1768)
小川島の田嶋神社鳥居は、明和5年(1768)
鯨組の大納屋の奉納である。
また、昭和49年の保育園建設当時、園敷地と境 内の一部から出た縄文晩期の貝塚からは、鯨の骨製 のアワビおこしが出土した。
縄文期から、この地方で鯨を利用していたことを 裏付けるもので、この時の出土品は、唐津市の古代 の森会館に収蔵されている。
小川島納屋場跡 小川島 (近世〜近代)
稲荷社 明治期
中尾鯨組の納屋場は、江戸期から大正7年(19 18)まで小川島に置かれた。納屋場とは、鯨の捕 獲から解体加工に関わる諸道具の製作、修理、鯨の 加工を行う作業場の総称である。
小川島の鯨組の納屋場跡にある稲荷社には、鯨の 大漁を祈願する明治期の祈祷札が多数奉納されて いる。祈祷札の中には、浮岳神社(福岡県)や富松 神社(長崎県)など、県外のものも含まれており、
当時の捕鯨業にたずさわった人々の信仰の様子を 伝えるものとして興味深いものがある。
田島神社 加部島
石灯篭 天保 3年(1832)
鳥 居 明治15年(1882)
田島神社の明神鳥居は、明治15年(1882)、
小川島捕鯨組の寄進である。中尾組の廃絶後、近隣 の人々の暮らしむきをたすけるため、明治11年
(1878)に、佐賀、武雄方面の有志を入れ設立 されたのが小川島捕鯨組である。
加部島の田島神社の石燈は、天保3年(1832)
7代目中尾甚六鯨組の寄進である。
鉄 銛 加部島 (古墳時代)
呼子町加部島、鬼の口古墳は、5〜6世紀の古墳 で、鯨漁に使用したと見られる鉄銛が出土した。先 端には返りが付いているものもあり、大型の銛と考 えられる。出土した4片のうち最大のものは、長さ 40.3㎝。
厳島神社 弁天島
呼子湾口の弁天島に鎮座し「弁天さん」と親しま れている厳島神社は、古くより漁師の信仰を集めて いる。鯨漁期最初の組出しの時、中尾家屋敷下に集 結した捕鯨船団が、大漁祈願にこの島を訪れ、その 後小川に赴いたと記録にある。
鯨漁の漁期は、冬から春にかけて行われ、暦の小 寒の10日前を期して、鯨組の操業開始である組出 しとなる。小寒は、現在の1月6日頃に当たり、組 出しは12月の丑の日を選んで行われたと云う。牛 は、角で突き、鯨も鉾で突くので、突き取ると云う 意味で丑の日にしたと伝えられている。
龍昌院 呼子 宝暦 5年(1755)
三代中尾甚六墓 寛政 3年没(〜1791)
鯨鯢供養塔 文化10年(1813)
鯨鯢千本供養塔 天保 2年(1831)
呼子町先方地区の石上山龍昌院(元曹洞宗)は、
3代目中尾甚六茂啓( 〜1791)が宝暦5年(1 755)に、鯨一頭の代価で建立したと伝えられる。
茂啓は、上五島魚目の湯川家から中尾家へ養子に 入り、鯨組隆盛の基礎を確立したと云われる。中尾 家の菩提寺は、代々真宗の願海寺であるが、茂啓は 実家湯川家の宗旨をもって実の両親の供養を行い、
また捕鯨漁期後の鯨供養もこの寺で執り行った。茂 啓の墓はこの龍昌院の境内に残されている。
境内には、この他鯨鯢供養塔がある。これは、正 徳4年(1713)鉾組松尾好太夫建立のものを、
文化10年(1813)好太夫の三代孫の松尾嘉六 が再建したものである。さらに、境内の鯨鯢千本供 養塔は、天保2年(1831)7代目中尾甚六雄之 助の建立である。
生島仁左衛門墓 呼子君塚 寛政 8年(1796)
鯨組の組主であった生島仁左衛門( 〜179 6)は、捕鯨発祥の地、紀州から西下してきた一族 だったと伝えられる。墓は、君塚にまつられている。
生島仁左衛門は、中尾鯨組にあって、水主から支 配人、組主などを努め、中尾組を支えた一人であっ た。下五島柏浦や小川島での捕鯨の様子を、組主と なった寛政8年(1796)、『小川島捕鯨絵巻(鯨 魚 覧笑録)』に著した。
この絵巻には、鯨網取図や解体図に加えて、納屋 場での作業の全行程などの詳細な絵図や納屋場の 掟書が含まれ、当時の鯨漁の様子を子細に伝えるも のとして、極めて貴重なものとされている。
天満宮 明神燈 呼子 明和 7年(1770)
天満宮は、中尾家屋敷の鬼門除けとしてまつられ たと、伝えられる。境内の明神燈は、明和7年(1 770)、五島の鯨組主湯川久次衛門他の寄進であ る。
3代中尾甚六茂啓は、五島魚目の湯川家から迎え られた養子と云われる。初代甚六の代には、鯨の不 漁時に、五島の鯨組湯川助三郎の家に奉公したと云 う話が伝わっており、当時から、中尾家と湯川家と は親交があったようである。
また、魚目の恵比須神社には、中尾甚六寄進の鳥 居が残る。
旧中尾鯨組屋敷 呼子 天明 3年(1783)
唐津市の文化財山下家住宅は、旧鯨組主中尾家の 旧屋敷である。調査により、海側の「殿見の間」の 鴨居から、天明3年(1783)の年紀などを記し た墨書が確認された。3代中尾甚六の代である。
「松浦の捕鯨王」と云われた中尾鯨組も、近世末 には外国船による近海での捕鯨が行われた影響で 鯨資源の減少から、明治に入り廃業を余儀なくされ ることとなった。
豪壮な町や建築の屋敷は、明治以降、山下家の所 有となり、一部酒造場としての改造もなされたが、
残された柱や梁の大きさに捕鯨業時代の歴史が宿 る。
また、屋敷には文政3年(1791)、草場佩川 が中尾家に遊び、捕鯨見物をして甚六に贈ったとさ れる長編詩『観捕鯨行』や鯨杯など捕鯨期ゆかりの 品物が残されている。
愛宕神社 明神燈 呼子 明治22年(1889)
愛宕町の愛宕神社境内の大型明神燈は、小川島捕 鯨会社の寄進で、明治22年(1889)の建立で ある。
中尾鯨組の廃業を受け、明治11年創設された小 川島捕鯨組は、明治21年小川島捕鯨会社に改称さ れた。その後、明治32年には、株式会社化により 捕鯨業の存続を図ったものの、昭和23年4月、つ いに会社は閉鎖された。
万霊鯨鯢成仏塔 呼子 延享 5年(1748)
西念寺裏山の君塚には、呼子の鯨組関係の一族の 墓が多数残されている。中町に住した中川家もその うちの一で、その家の墓地に残る鯨供養塔は、延享 5年(1748)、鯨組主中川与四兵衛重次の建立 である。
与四兵衛には、鯨一頭につき伝馬船一杯の運上銀 を納めたという伝承が残されている。
深沢家墓地 小川島 寛文元年(1662)
小川島観音堂前の石柱4基の中には、石柱の銘か ら元禄3年(1690)の中尾鯨組設立前、寛文元 年(1661)と同二年他のものがある。銘文によ ると、肥前大村(現、長崎県大村市)の鯨組主深沢 家の関係者の墓と見られ、小川島と深沢組との交流 がうかがえる。
また、深沢組が中尾組の設立に何らかの影響を与 えたのではないかと推測されている。
地元では、これら4基の石柱をセミ、ナガス、ザ トウなど、鯨の供養塔と伝えている。
八幡神社 呼子
本殿再建時の棟札 天明 6年(1786)
鰐口 文化 4年(1807)
八幡神社は、古くからの地区である三所(さんがし ょ)の氏神社である。創建は不詳。代々奉仕の彦山 系の山伏龍泉坊が、戦国時代に切木から来住した際 には、無住であったとの記録が残されている。
五島藩の崇敬厚く、参勤交代に寄航の折には、航 海の安全の船祓を行ったと伝える。また中尾家の鯨 組の組出しや、鯨供養には招請されたことが、鯨鯢 合戦などの記録でも伺われる。
旧本殿は、天明6年(1786)3代中尾甚六茂 啓の一手普請になり、再建時の棟札が残る。
鰐口は、社殿正面の軒下に吊す金属製の音響具の ことで、文化4年(1807)、小川組4代中尾甚 六の奉納による。