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ドキュメント内 A4.Q3 (ページ 114-148)

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御茶屋周辺には、庄屋宅(現在の川口 屋)や高札場があり、カーブを描く中町 の町並みの中には、鯨組の生島仁左衛門 宅、西念寺などが描かれています。呼子 湾の東側は、漁師町の先方と、湾奥の商 業や捕鯨組屋敷群の浦方とに大きく分 けられますが、中町はこの施設を中心に、

古くから行政的な一面ももつ街でした。

今も中町には、漆喰で塗られた古い家な ど、昔の面影をもつ町並みが残っている。

     

【三神社】 

  祭神は伊弉諾尊、天忍穂耳尊、伊弉册尊。 

三神社の名前由来や由緒は不詳であるが、熊野三神 社の略称ではないかと思われる。社家は「妙泉坊」

と称し、先方の八幡神社の龍泉坊とともに、呼子の

「両山伏」(『小川嶋鯨鯢合戦』)と呼ばれ、鯨組の 組出しの時には、鯨組主の家に招かれた。また、岡・

浜で豊作、大漁を掛けて引き合う、呼子大綱引は、

三神社前にミト(大綱の中心の結束部)を置いてお こなわれる。 

 

 

  【呼子大綱引と捕鯨】 

  毎年6月の第1土・日曜日に行われる、呼子最大のお祭りである。豊臣秀吉の 文禄・慶長の役の前線基地であった松浦半島には、当時名護屋城周辺に120余 の大名が陣を張り、玄界灘に面した一寒村は、20万を超す兵士と商人で溢れる 大都市となった。当時、呼子にも徳川家康、伊達政宗、加藤嘉明、黒田長政を始 めとする多くの大名が陣を構えた。呼子の大綱引は、豊臣秀吉が兵士の士気を鼓 舞するために、加藤清正、福島政則を東西に分け軍船の鞆綱をひかせたことに由 来すると言われる。 

文禄・慶長の役から4百年以上の年月にわ たって、祭りが受け継がれて来たことを考え ると、その間の約2百年間に亘って鯨組を維 持した中尾鯨組の経済的支援が、大綱引きに もあったとするのが一般的であろう。朝鮮侵 略の前線基地において、兵士の士気を鼓舞す るために始まった祭りは、時代と共に、浦々 に巨万の富をもたらす鯨の捕獲を願う祭りに、

形を変えながら歴史を重ねてきたものと考え られる。 

大綱引では、カマスに綱を掛けた大綱の中 心の結束部分をミトと云い、采配を「ジャー」

と云う。鯨鯢合戦などの史料では、絵図に描

かれ、鯨が頭を突っ込んだ三重の網の中心部分をミトと云い、鯨船から勢子等の 士気を鼓舞し、指示する采配をジャイと呼ぶ。 

小川島の鯨骨切り歌は、捕鯨の様子を次の通り歌っている。 

親父船かやア〜  ソーライ万崎沖に〜 

ジャイを振りゃげてエ〜  ソーライ、ミト招くーヨ〜 

  ア振りゃゲ〜て〜  エ〜エ〜  上げミトを巻くのにゃ暇もない〜よ〜 

 

【永井家】 

  「永井家は、天満町の海側に位置し、藩政期より対馬屋と号し、小川島の島民 を相手として造酒屋と米屋を営み、小川島へ向かう客船も裏の岸壁に着船し、当 

呼子の大綱引

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近代における呼子の捕鯨

呼子郷土学セミナー 平成17年10月29日(日)

県立名護屋城博物館 安永 浩

近代における呼子の捕鯨

1.はじめに

2.幕末の不漁と鯨組の衰退

3.明治期の小川島捕鯨組の成立と展開

4.明治末期以降の小川島捕鯨株式会社の動向 5.戦後の沿岸小型捕鯨

1.はじめに

ー江戸時代の西海捕鯨−

西海捕鯨:山口県・福岡県・佐賀県・長崎県の玄界灘 沿岸各地で営まれた捕鯨の総称

„ 江戸時代のはじめに紀州より突取捕鯨が伝わり、各 地に鯨組が乱立

„ 「明暦萬治ノ比彌盛ンニ〆七十三組迄有テ五嶋壹岐對馬大 村浦々所々見立テ不行所ナシ」「唐津領 呼子 名護屋壁 嶋 小川今ニ存」(『西海鯨鯢記』)

„ 17世紀後半に深澤組が紀州より網掛突取を伝え、次 第に各地で導入

„ 各地の鯨組は淘汰され、有力な鯨組・漁場に集約

(生月の益冨組、壱岐の土肥組、呼子の中尾組など)

2.幕末の不漁と鯨組の衰退

(1)慢性的な不漁

„ 幕末期の全国の鯨組は、慢性的な不漁に陥る

→幕末〜明治初期には多くの鯨組が廃業

幕末〜明治初期の中尾組の鯨捕獲頭数 4

6

25 12

18

34 20

44 33

54

31

明治1 0 (1 8 7 7 )年 明治8 (1 8 7 5 )年 安政6 (1 8 5 9 )年 安政5 (1 8 5 8 )年 安政3 (1 8 5 6 )年 嘉永5 (1 8 5 2 )年 嘉永4 (1 8 5 1 )年 嘉永2 (1 8 4 9 )年 嘉永 元(1 8 4 8 )年 弘化4 (1 8 4 7 )年 文政1 1 (1 8 2 8 )年

(2)不漁の要因

„ 日本近海でのアメリカなどの捕鯨帆船の操業

„ 1820年代をピークに毎年数百隻もの捕鯨帆船が日本近 海へと進出

„ 母船式捕鯨である上、鯨油採取のための皮脂のみの利 用のため、濫獲を招く。

→多くの鯨が、鯨組が活動する沿岸域に到達する前 に捕獲されてしまう(沿岸域へのセミクジラ・ザトウク ジラの回游の減少)。

„ 慢性の不漁による鯨組経営の弱体化

→設備の充実などが困難

第3回鯨セミナー資料(安永浩氏:佐賀県立名護屋城博物館学芸員)

2

鯨海図(1851年、米海軍)

3.明治期の小川島捕鯨組の成立と展開

(1)「小川島捕鯨株式会社沿革」

„ 明治期の呼子・小川島捕鯨を知る上での 基礎資料

„ 小川島捕鯨株式会社の社史

„ 大正4年頃の成立か?

(2)小川島捕鯨組の成立

„ 明治4(1871)年の廃藩置県で江戸時代からの 唐津藩の庇護を失う。

„ 明治10(1877)年、中尾組は小川島島民と共同 で組出しするも、わずか4頭と大不漁

=中尾組の操業の最後

„ 明治11(1878)年に、地元有志ら16名の出資で 小川島捕鯨組を設立

„ 捕鯨業断絶を憂慮した長崎県令の呼びかけ

„ 漁具一切は中尾組から引き継ぐ。

(3)小川島捕鯨組の組織概要

„小川島捕鯨組の名称・組織の改変

明治21(1888)年 小川島捕鯨会社に改称 明治32(1899)年 小川島捕鯨株式会社に

組織変更

(3)小川島捕鯨組の組織概要

□設立当初の組織

„ 資本金 四万三千円

„ 社 員 社長・副社長各1名、社員12名

„ 社務分掌 庶務部、出納部、器械部、司穀部

„ 本社(事務所) 呼子村大字呼子字高尾(「捕鯨業在来地」)

„ 支社(納屋場) 呼子村大字小川島(「営業中借用地」)

„ 漁 夫 波座士32名(名護屋より26名、壱岐より6名)

水夫486名(広島県田島や山口県室積が主)

(3)小川島捕鯨組の組織概要

小川島捕鯨組の船団構成

44

8(大6、小2)

17 中尾組時代

57

伝当船

伝馬船

予備持双船

予備勢子船

納屋船

持双船

6(大2、中1、小3)

縄網船

双海附船

14(大8、小5、口張1)

双海船

16 勢子船

船数 船種

第3回鯨セミナー資料(安永浩氏:佐賀県立名護屋城博物館学芸員)

3

(3)小川島捕鯨組の組織概要

□漁期

12月初旬〜4月中旬頃までの135日間

「小寒二十五六日前乃至三十日前ヨリ以降日数 百三十五日間」 (『小川島捕鯨株式会社沿革』)

小川島捕鯨組の操業海域

(4)捕獲技術の推移にみる4つの画期

①明治11(1878)年(小川島捕鯨組成立時)

従来のセミクジラ・ザトウクジラから

ナガスクジラへと捕獲の主対象を変更

„ 漁具の改良=網関係の船の増強

„双海船・縄網船・双海附船を増加

„口張船を新設 44

8(大6、小2)

17 中尾組時代

57

伝当船

伝馬船

予備持双船

予備勢子船

納屋船

持双船

6(大2、中1、小3)

縄網船

双海附船

14(大8、小5、口張1)

双海船

16 勢子船

船数 船種

小川島捕鯨組の船団構成

(4)捕獲技術の推移にみる4つの画期

②明治32(1899)年

平戸式捕鯨銃による銃殺捕鯨を本格導入 米国式中砲も新たに導入

„ 船団の再編成

„双海船・勢子船・縄網船・双海附船を縮小

„口張船を廃止

„ボート船3・銃殺専用和船3・小蒸気船1を新規導入

„ 平戸式捕鯨銃 長さ3尺、重量約3貫目、口径1寸

„ ボンブランス(破裂銛) 長さ1尺7寸8分、重量約240匁目 廻り9分、装置火薬20目

(『小川島捕鯨株式会社沿革』)

„ 明治30年頃より平戸から銃士を雇用して試行

„ ボート船3艘・和船3艘を銃殺専用として網掛突取 と平行して操業

第3回鯨セミナー資料(安永浩氏:佐賀県立名護屋城博物館学芸員)

4

小川島捕鯨株式会社の鯨船出港の様子(明治後期)

(4)捕獲技術の推移にみる4つの画期

③明治37(1904)年

日露戦争勃発に伴い、日本海軍佐世保鎮守府より 捕鯨網及び附属網葉がすべて徴発される。

→網掛突取捕鯨の継続は不可能に

„ 海軍からの下渡金はわずか

„ 翌明治38年は資金繰りの悪化などでやむなく休業

„ その後は銃殺のみでの操業

(4)捕獲技術の推移にみる4つの画期

④明治41(1908)年

ノルウェー式砲殺捕鯨を導入した他社との 共同操業を開始

„ 実態としては他社への漁場の貸し出し

„ その漁期の前後に小川島捕鯨株式会社単独での ボート船による銃殺捕鯨を行う。

„ ノルウェー式捕鯨砲

„ 1868年ノルウェー人ス ヴェン・フォインが開発

„ 動力船の船首に砲座を 固定して設置

„ 先端に炸裂弾を装着した ロープ付の銛を発射して 鯨を捕獲

„ 銛綱は緩衝装置を経由し て起重機に繋がる。

4.明治末期以降の

小川島捕鯨株式会社の動向

毎年11月末〜翌3月頃までは、ノルウェー式 大型捕鯨船を所有する会社(大東漁業(後の大 洋漁業)や日本水産との共同操業を行う。

その前後数週間にボート船による銃殺捕鯨

(後に丸一丸による小型砲殺捕鯨)を小川島捕 鯨株式会社単独で操業。

4.明治末期以降の

小川島捕鯨株式会社の動向

□主な画期

①明治43年 加部島片島に本社・解剖場を建設

②大正12年頃 本社・解剖場を加部島小浜に再び移転

③昭和5年頃 ボート船に代わって小型動力船・丸一丸を 導入、銃殺捕鯨に使用

④昭和14年頃 捕鯨銃に代わり、丸一丸に小型ノルウェー 式捕鯨砲を搭載

⑤昭和24年 大洋漁業が加部島での操業を終了

(当地での大型沿岸捕鯨の終焉)

その後小川島捕鯨株式会社解散か?

第3回鯨セミナー資料(安永浩氏:佐賀県立名護屋城博物館学芸員)

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