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窯詰技法

ドキュメント内 東北大学埋蔵文化財調査年報10 (ページ 92-102)

第 6室

②   窯詰技法

大堀相馬焼の場合、18世紀代 には、片 口鉢等の大型品のなかに小型品を入れ子 にす ることま あって も、同種の製品の重ね積みは基本的に行わない。この時期の主力製品である碗 は、通常

1つ の焼台に対 して

1点

づつ置かれた状態で焼成 されたと考えられ、皿について も同様である。

焼台 には、断面形が

I字

を呈す る柱状の もの と、立方体形の ものがみ られる。19世紀 に入 る と、

鉄絵灰釉皿等一部の製品は、三角状の小 さな胎土 目を用いて重ね焼 きされるようにな り、製品 の内面 に小 さな目跡が

3箇

所認め られるもの も存在する。桔梗台の使用 は19世紀 中葉以降であ ろう。 また上手の製品は、匝に入れて焼成する場合 もあったと考えられるが、匝その ものが稀 な存在であることか らみて、あま リー般的な手法であったとは思われない。なお、重ね焼 きさ れる製品の多 くが鉄絵のある皿である点か らみて、重ね焼 きには、単に効率化 を図るだけでな

く、焼成時 に灰等のフリモノか ら文様 のある器面 を保護する意図があった と考 えられる。

小野相馬焼では、碗 は

3箇

所、片 口鉢 は

3〜 4箇

所、 日跡 を有する場合が多 く、小型の製品 を入れ子 に して焼成するのが一般的である。 目には砂粒 を多 く含む粗い土が用い られる。皿や 折縁鉢の内面の釉 は蛇の 目状 には ぎ取 られてお り、同種の ものを直接重ね焼 きしていたことんミ 判 る。悟鉢 は、籾殻 を多量 に含 む棒状の粘土 を

5箇

所程度、日として挟み、重 ね焼 きしている。

相馬駒焼 の田代窯では、現在、製品を匝にいれて焼成 しているが、匝を用いるようになった のは明治以降 という。館 ノ下焼の場合、甕 ・鉢・橋鉢等の大型品が多 く、匝は使われない。

この ように、19世紀代 の大堀相馬焼で稀 に匝が用い られることはあって も、相馬地方では、

匝 を窯の天丼近 くにまで重ねる といった窯詰めは、江戸時代 を通 じて行われなかった。時代が 下 るにつれ窯が大型化する際、相馬地方の窯が、焼成室の床が広がるだけで、天丼はさほど高

くはならなかったのは、瀬戸・美濃地方の窯 と違 って、その必要がなかったか らであろう。

4.大

堀 相 馬 焼 の経 営 形 態 と相 馬 藩 の 窯 業 政 策

(1)大

堀相馬焼の経営形態

大堀相馬焼の生産構造 に関 しては、在郷給人の副業 という側面 を視軸 にした研究がある

(山

81

形万里子1987)。 山形氏 は、陶業生産者 である「瀬戸方」が、 自家営業者である「窯元」 と、

それに従属す る「雇人」 。「下働

Jに

階層分化 し、 さらに「雇人」 は職官制 による分業生産 を 行 っていた とす る。使われた史料 は幕末期の ものであ り、藩 による陶業保護 ・管理政策が本格 化する前 の段階、すなわち18世紀代 の生産構造 に関 しては明 らかにされていない。 また、生産 基盤である窯の形態 ・基数・所有関係 も、史料上の制約か らほとんど言及 されていない。

分布調査で18世紀代の操業が確認で きた大堀相馬焼の窯跡は24箇所 あ り、 この うち旧大堀村 と旧井手村 の窯 に関 しては、大部分が在郷給人によ り経営 されている点、寛政

5年

(1793年

)

に写 された「瀬戸系譜」(大堀相馬焼協 同組合

1988)に

由緒 を持つ窯元が多 く含 まれる点 を指 摘 で きる。換言す るなら、「瀬戸系譜」 に由来 をもつ窯元の多 くは在郷給人層であ り、彼 らは 18世紀の段 階で個々に窯 を保有する自家営業者であったといえよう。瀬戸・美濃地方では、独 立 した小経営の主体である「竃屋」が複数集 ま り、一つの長大な窯 を、部屋 を単位 に共同使用 していた (安藤前掲)。 大堀相馬焼 の場合、小規模 な窯が在郷給人層 を主体 とす る窯元 により 個別経営 されている点に生産構造上 の特徴がある。 また、職官制による分業 に関 しては、絵付 けをした製品が生産 されていなかった18世紀後葉以前 には、絵師や絵付 けに必要 な原材料の調 達部門が不必要であった と考 えられることか ら、19世紀以降に発達 したと思われる。

瀬戸方の在郷給人の持高は一般 に低 く、陶業 はそれを補 う副業であった とされる(山形前掲)。

一例 として示 した山田家の持高の推移 (表

5)か

ら、17世紀末には同本の持高の伸 びが頭打 ち になっていたことが判 り、その ことが同家が陶業 を副業 とするにいたる要因 と考 え られる。

18世紀後葉以前の窯跡が集中す る旧小丸村 には、「瀬戸系譜」 に由来 を持つ窯元が見あた ら ないことか ら、「瀬戸系譜」の成立時期 は18世紀後葉か ら末葉 と見るのが適当であろう。瀬戸・

美濃地方では、竃屋集団が「由緒」や「筋 目」 を楯 に新規参入者 を排除 し、職能集 団 としての 特権 を維持 しようとする動 きがみ られる (篠宮雄二

1996)。

後述す るように、天明の飢饉以後、

18世紀末葉か ら19世紀初頭 にかけて、相馬藩 における陶業従事者 は急増 してお り、瀬戸 ・美濃

相馬藩領旧大堀村漆畑在住 山田家 (山田秀安氏宅窯の窯株主

)の

持高の変化 Tab 5  Tlle tlansition of income from rice ields ofthe Yamada family M/ho were s・ Fl王笏αたコand

mastet of a kiln

    代 被給 付 者 名 大  村 小 野 田 村 日  村 加  村 新  ]    計 出

血^

を文

3年(1663) コ日嘉兵衛 3石 7斗 6合 6う 3石 4斗6升

9^

1斗9升 2合 3斗 1升 2合

81

1石5斗 7升9ム 9石 2斗4升 3合

21

知 行 害」書 出 (山口 家文書)

寛文 11年(16‐1) 凸田嘉 兵 衛 +3斗 3升6合 6勺 ■1石 9斗 S升 8合 5勺 11石5斗 6升 B合3● 知 行 割 切 次 (山 田家文書)

廷宝5年(1677) 迪日権兵衛 1石 4斗7升 8合 4勺 13石 4升6合

71

知 行 割 切 次 (山 国家文書)

天和3年(1683) 迪日権 兵 衛 46斗 8オ 2合 i3石7斗 2升 8合7た 知 行 割 切

(4円

家 文書)

安 永6年(177,) コ田卯右衛肘 14石 奥相志」(fオH馬市史41)

文久9年(1863) コ日卯右 衛

「 14石 「貨冊」(「浪江町誌1)

月治3年(1870) 7石8斗3引3合6ム 人別改帳」 福鳥県史

9J

地方 と同様の現象が生 じた と考 えられ、「瀬戸系譜」 は、そ うした現象の産物であろう。

(2)相

馬藩の窯業政策

相馬藩の窯業政策 に関 しては、これまで、相馬藩が国産方の出先機関 として大堀 に瀬戸役所 を開設 し、国産仕法 により陶業 を保護 ・管理す るようになった文化元年 (1804年

)以

降につか て語 られる場合が多 く、それ以前の状況は、元禄10年 (1697年

)の

「瀬戸物士他領江不可 出事」

や、享保18年 (1733年

)の

「下 り瀬戸物以来仕入商売御留被成候付、御所焼之瀬戸物 ヲ重二昭 可 申事

J等

がわずかに知 られる程度であった。

「窯掛役半減相当二候事

J襖

紙文書 は、大堀相馬焼 の祖 と伝 え られる半谷休閑の子孫で、大 堀で代 々窯業 を営む半谷利辰家が所蔵す る。文書 は後半部分が失われてお り、年代や性格 は

8

ず しも明確 とは言 えないが、年代的には、文書 にある年号のなかで最 も新 しい「巳ノ年」即ち 寛政

9年

(1797年

)よ

りは新 しく、瀬戸役所が開設 された文化元年 (1804年

)よ

りは古 い と考 えられる。本文書は、18世紀代の大堀相馬焼の生産 と流通の実態 を知る上で重要であ り、発見 者の山田秀安氏の御厚意で今回取 り上げることがで きた。以下、その内容 を年代順 に示す。

[安永二年 (1773年

)か

ら]、 寛政三年 (1791年

)ま

での18年間、大堀相馬焼 は相馬藩んヾ 一括 して買い上げ、販売することになっていた。

・天明六年 (1786年)、 燃料 の薪の不足 によ り生産 コス トが上昇 し、それが瀬戸物の値段を 引 き上 げた結果、瀬戸物 を扱 う商人の出入 りが少 な くなったため、半谷小左衛門が、10パーセ ン トの税 を納めるかわ りに瀬戸物 を自分たちで販売 したい との願い出を行い、それが認め られ て、同年以降、毎年、百貫文程度の税 を藩 に納めることになった。

・寛政五年 (1793年

)12月

、再び、瀬戸物は藩が一括 して買い上げるとの命令が出された。

・寛政六年 (1794年

)4月

、瀬戸物 に関す る税法が、生産者側か らの願い出により、窯単位

(「窯掛」

)に

変化 した。その際、 これ まで に納めていた税 の実績 (年間百四十貫文

)に

基づい

て、

 1「

釜」当た りの標準的な税額

(A)が

次の ような算式 により決め られた。

A=140貫

文 ■400(「 釜」

o.5(製

品の歩留 ま り

)=700文

また実際 には、「釜」が上 。中・下の

3段

階 に分 け られ、各々、人百文、七百文、六百文の 税の負担が求め られた。

・寛政九年 (1797年)、 不足気味の燃料 を遠方か ら輸送す る際 にかかる費用などが考慮 され、

税額が

1「

釜」 につ き百文軽減 され、上釜七百文、中釜六百文、下釜五百文 に改め られた。

一般 に買い上げ商品の藩の販売は、その手工業製品の商品化が著 しく進んだ結果、本来の貢 納的形態が崩れ、た とえ低価格 とはいえ買い上げざるを得 ない状況 において行われるとされる。

大堀相馬焼 に関 して も、遅 くとも18世紀後葉 には、商品化 された手工業製品 として、 この地域 の農民経済の中に大 きな比重 を占めていたことが裏付 けられる。また、生産者 と藩 との間には、

︵利

一 

両者 を仲介す る商人が存在 したこともわかる。文書 にある燃料 となる薪の不足 は、18世紀末葉 か ら19世紀初頭前後 に生 じた生産業者の急増 によって生 じた と考え られ、考古学的にも窯の増 加 と周辺地域への拡散 として確認で きる。

文書 にある「釜」 は、窯 における一つの部屋 (焼成室

)を

指す と考 え られ、400「 釜」 は、

南北標葉郷 に所在 した窯の焼成室の合計 とみな しうる。先述の通 り、大堀相馬焼の窯の大部分 は、焼成室の数が

8室

以内 と考 えられることか ら、18世紀末には少 な く見積 もって も、50基以 上の窯が稼働 していた公算が高い。分布調査で18世紀代の操業 を確認 した24基の窯は、窯が急 増 し始める天明期以前か ら稼働 していた ものに限 られ、18世紀末の窯数 としては、50基は妥当 な数値 といえる。同時期の東濃地方の窯は

6村 4郷

の合計で36基 (安藤前掲)、 瀬戸周辺の窯 は

3村

の合計で約40基 (楢崎・小 島

1993)で

あ り、大堀相馬焼の窯の数の多 さは特筆 されよう。

寛政期以降に集中する各種の史料か ら、陶業従事者の急増は、陶器の生産 ・販売 に関する税 制改革 とともに、陶業従事者の保護・管理政策の整備 につ ながったことが判 る。19世紀 になっ て江戸か ら出土す るようになる大堀相馬焼の土瓶や徳利 は、そ うした藩による陶業保護・管理

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