〔旧大堀村〕
高瀬川の中流域 に位置 し、高瀬川 によって形成 された扇状地の扇央部 に集落が展開する。東 は小野田、西 は小丸、南 は高瀬川 を挟 んで井手、北 は田尻 に接する。大堀相馬焼の伝説上の開 窯の祖である半谷 (休閑
)家
をは じめ、「七人衆」 。「十五人衆Jの
伝承 を持つ窯元の多 くが集 中す る。現在 も窯元が二十数軒 あ り、大堀相馬焼 の里 として有名である。明治3年
(1870年)の人別改帳では、全戸数62戸 (476人
)中
、瀬戸方 に属す るもの34戸 (271人)と
ある (福島県 前掲)。 宅地化が著 しい上、明治以降 も現在 に到 るまで窯業生産が継続 しているため、小丸、図
12
相 馬藩領 旧大堀村漆畑地 区の窯跡採集遺物 (18世 紀代)Flg 12 Strface intt belonglng to the 18th cenm from sites of killぉ at Ohbori‐Urushihata area, Nanlic to―, Fukushirna prefecttre
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Y7マ 9印 1〜18 山田秀安氏宅窯跡
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19〜
24旧 渡 辺 正 綱 氏 宅 窯 跡
69
1〜9 井手 西原
半谷一郎氏宅窯跡
井手 西原
末永喜男氏宅窯跡
14〜
25井手 唐沢渡辺宏氏宅窯跡
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井 手 唐 沢 見 義 則 氏 宅
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26〜
30井手 下原半谷正辰氏宅窯跡
31〜
35井手 下 原
松 本 弘 氏 宅 窯 跡
図
13
相 馬藩領 旧井 手村 の窯跡採集遺物 (18世 紀〜 19世 紀 前葉)Fig.13 Surface inds belonging to the 18th centurb/the early 19h cendry from sttes Of kilns at lde area,Namie tOwn,Fukushima p確
農
ctttre70
井手地区に比べ、踏査 によ り江戸時代 の様相 を窺い知 ることは困難 な状況 にある。
旧大堀村では、後畑地区の南斜面 と漆畑地区の東斜面 に窯が多 く存在する。採集遺物 によ り 18世紀代の操業 を確認 し得た窯跡 は
9箇
所 に過 ぎないが、上記の理由で、実際にはこの数 を大 きく上回る可能性が高い。採集遺物 (図11・
12)を
見 る限 り、器種的には圧倒的に碗が多 く、皿 と仏飯器が これに次 ぐ① 片口鉢、仏花器、悟鉢等 も見 られるが、量的には少 ない。碗 は種類 も豊富で、灰釉丸碗、灰釉 腰折碗、灰釉・鉄釉掛 け分 け碗 、鉄釉流 し掛 け灰釉碗の4種
を主体 に、各々の種類のなか にも 大 きさ、施釉方法、形状 に多 くの変異 を有す る。皿 には丸形 に加 えて折縁 の輪花皿 も存在 し、両者 に見込押印文が認め られる。押印文 は、多角形の区画内に七曜文 を配 したワンポイン ト的 な ものに限 られ、後述する旧井手村の製品に共通 し、旧小九村の製品 とは様相 を異 にす る。
〔 旧井手村〕
高瀬川 を挟 んで旧大堀村 に対面す る。南側 には双葉町 との境 をなす丘陵地が広が り、丘陵 と 高瀬川 に挟 まれた傾斜地 に集落が形成 されている。南の丘陵地 には、美森 山、陣ケ沢 といった 陶土産出地が存在す る。明治
3年
(1870年)の
人別改帳では、全戸数50戸 (356人)中
、瀬戸 方 に属す るもの37戸 (268人)と
ある (福島県前掲)。 大堀 と異 な り、大正期の不況の際、養蚕 業 に転業する者が多 く、最後 まで残 っていた井手猿 田の井手窯 も昭和16年 (1941年)の
戦時統 制企業整備令 によ り廃業 に及んだため、今 日、井手 において窯業 を営 む家 はない。18世紀代 に遡 る窯跡 は、猿田、西原、唐沢、下原 に分布する。採集遺物 は、19世紀代 の もの が大半 を占めるが、今 回は18世紀代の もの を中心 に紹介する (図13)。 生産器種 は、旧大堀村
図
14
相 馬藩領 旧井手村高倉地 区荒木氏宅窯跡採集遺物 (19世 紀初 頭〜前葉) Flg。14 &
ace Antt bdonging to he early 19血 cela樋呼 from Araki sitt of kiln atlde‐Takakばa area,Namie to、
wttn, Fuktthilna prefecttre
0 10
l Cm同様、碗が主体であ り、碗 の種類 も共通す るものが多い。 しか し各種の碗や折縁輪花皿 は、太 堀 に比べ全体 に新 しい様相 を示す ものが多 く、18世紀代前半 にまで遡る資料 は確認で きないc
荒木氏宅窯跡の採集遺物 (図
14)は
、19世紀初頭か ら前葉のまとまった資料 と考 えられるこ とか ら、今 回取 り上げた。器種的には碗が多 く、他 に土鍋、土瓶、線香立て等がみ られる。碗 には、前代か らの伝統 を引 く種類 (灰釉九碗 、灰釉腰折碗、灰釉・鉄釉掛 け分け碗、鉄釉流 し 掛 け灰釉碗)に
加 えて、鉄絵灰釉腰張碗が多 く認め られる。失透性の旗 白色の灰釉がみ られる。3.相
馬 陶 器 の 編 年 と製 作 技 術 の検 討(1)大
堀相馬焼の編年大堀相馬焼の編年作業は、主 として消費地遺跡出土の一括資料 を中心 に行 った (図15)。
17世紀末の最 も古い灰釉丸碗 は、18世紀代 に一般的なものに比べ、体部の丸みが強 く、高台 は小振 りで、全体の形 としては京 ・信楽系陶器の九碗 に近いE「象 を与える。
18世紀 には、飯碗 として用い られたであろう中碗 を主体 とする生産外制が確立 してい る。こ の時期の灰釉九碗 は、日径 に対 して器高の低 い ものが多 く、日縁部直下が僅かに括れた「すっ ぽん口」 を呈す るものが後半期 に多 くみ られる。以前指摘 した ように、灰釉 ・鉄釉掛 け分け碗 と鉄釉流 し掛 け灰釉碗 は、それぞれ瀬戸・美濃の腰錆碗 と尾呂茶碗 を写 したものであ り、その 出現の時期 は、大堀相馬 と瀬戸 ・美濃で一致する。腰錆碗写 しのうち、後出の
D類
は、瀬戸・美濃 に直接本歌 となるものがな く、大堀相馬焼が腰錆碗 を独 自に消化 し、新たに生み出 した製 品 と言 える。大堀相馬焼の灰釉碗 は高台脇 まで釉が垂れる特徴があ り、露胎部分が一般的 に広 い瀬戸 ・美濃や、釉切部分の処理が丁寧 な京 。信楽 とは異なる。18世紀後葉 には、中碗 を主体 としつつ も、猪 日、小不、灰吹 といった、酒・煙草等の嗜好品に対応 した器種の生産が始 まる。
18世紀末か ら19世紀初頭の段階には、伝統的な灰釉碗 ・皿類 に鉄絵製品が新 しく加 わる過渡 的な様相がみ られる。中碗の変化 としては、灰釉九碗 は大振 りにな り、腰錆碗写 しや腰折碗は 日径が広が る。初期の鉄絵皿は、18世紀代 の皿の形状 を受 け継 ぎ、体部は九みを帯 びて立 ち上 が る。嗜好品に姑応 した器種 としては、小型の端反碗や腰張碗、土瓶 といった煎茶器の生産が、
この時期 に開始 される。初期の土瓶 は、撫で肩で口頸部が短 く、全体につぶれ気味である。
19世紀前葉以降、鉄絵の皿類や、土瓶 と小型碗 か らなる煎茶器、徳利 と小杯か らなる酒器、
行平鋼 や土鍋 といった調理具、灯 明皿やその受け皿 ・カンテラ等の灯火具が主力製品 とな り、
飯碗 を主体 とする18世紀的様相は払拭 される。19世紀中葉 には、餌猪 口や植木鉢 といった消費 者の趣味 。娯楽 に対応 した製品 も作 られる ようになる。鉄絵皿は、中皿は体部の立 ち上が りが 緩やかで外 に開 き、小皿は体部下半 に屈 曲点 を持 って急 に立 ち上がる。土瓶 は次第 に肩が張 る ようにな り、当初型作 りであった耳 は、粘土紐 によるリング状の ものが主流 となる。19世紀 中
穆
・ 7世紀末
灰和九碗
鉄釉流 し掛 け仄釉碗 (尾 呂茶碗写 し
)灰釉・鉄刑 掛け分け碗 (腰 鈴碗写 し
)タイプ A
1仙台城二の九跡第
5地点北区
V層 (元禄年間の整地層
)平碗
鉄釉流 し掛け灰釉皿 仏飯器
︲ 8 c
前葉
灰釉腰折碗 マ 2〜 7 仙台城二の九跡第
5地点
3号土坑
︲ 8 C
中葉
タイプ C タイプ
B 8,10,12 江川鉄山遺跡(1740年
〜1752年 の13年 間操業)9,18 中平遺跡
5号
墓 (9の 高台内にF瀬
戸系譜』十五人衆の「彦之丞」刻名)■
泉城跡第
5号
土坑 (共伴遺物か ら廃棄年代 を1738年 〜1746年 に限定)片口鉢
距 ル 倶 露
・8 世 紀 後
葉