• 検索結果がありません。

秦漢時代における 死者性 の転倒

ドキュメント内 untitled (ページ 90-120)

天上(山上)他界と相反するもう一つの他界は地下他界である。しかし、戦国から前漢にかけ ては、次のような数種類の地下他界の概念が併存していた。また、それらの概念は当初、それ程 明瞭で具体的であった訳ではない。

①黄泉:墓穴の掘られる地下のこと。それ自体に冥界の意味はない(江頭廣「黄泉について 、」 一九八〇)

『左傳 隠公元年』 「(鄭荘公 遂寘姜氏于城潁 而誓之曰 不及黄泉 無相見也) 、 『 、 。』既而悔之。 潁考叔(中略)対曰『君何患焉。若闕地及泉、隧而相見、其誰曰不然。』」

②九原・九京: 禮記』檀弓下には次に示すような九原または九京という死者の住処が言及され『 るが、鄭玄が言うように、これは墓場を指していると思われる。

『禮記 檀弓下 趙文子與叔誉 羊舌叔向 観乎九原 文子曰 死者如可作也 吾誰與歸』 「 ( ) 。 『 、 。』」 檀弓下「晋献文子(趙武)成室、晋大夫發焉 (中略)文子曰『武也、得歌於斯、哭於斯、。 聚国族於斯、是全要領、以従先大夫於九京也 』北面、再拝稽首 」鄭玄注「晋大夫墓地在九。 。 原。京、蓋字之誤、當為原 」。

③蒿里(高里 :蒿里は死者が赴く「下里 (地下の里)であるとされ、またその神は死者の霊魂) 」 を召還するとされる。後世の説明では泰山の麓にある山とされ、泰山の他界(次項)と融合する ことが分かる。

崔豹(三世紀末)『古今注 ( 文選』』『 28引 「薤露・蒿里、並喪歌、出田横門人、横自殺、門) 人傷之、爲之悲歌。……亦謂人死魂精歸乎蒿里。……其二章曰『蒿里誰家地、聚斂魂魄無賢 愚、鬼伯一何相催促、人命不得少踟蹰。』至李延年、乃分二章爲二曲。薤露送王公貴人、蒿 里送士大夫庶人 」。

『文選』宋玉對楚王問「客有歌於郢中者、其始曰下里巴人、國中屬而和者數千人、其爲陽阿 薤露、國中屬而和者數百人 」。

『漢書』武五子傳・廣陵王劉胥傳「蒿里召兮郭門閲、死不得取代庸、身自逝 」顔師古注「蒿。 里、死人里 」。

『漢書』武帝紀「太初元年冬十月、行幸泰山。…十二月、蛤高里、祠后土 」顔師古注「伏。 儼曰、山名、在泰山下。師古曰、此高字自作高下之高。而死人之里謂之蒿里、或呼爲下里者 也、字則爲蓬蒿之蒿。或者既見太山神靈之府、高里山又在其旁、即誤以高里爲蒿里 」。 宋・郭茂倩『樂府詩集』27「蒿里、山名、在泰山南 」。

『漢書』韓延壽傳「……徙頴川、……延壽於是令文學校官諸生皮辨、執俎豆、爲吏民行喪婚 嫁娶禮。百姓遵用其教、賣偶車馬下里僞物者、棄之市道 」注「張晏曰、下里、地下蒿里僞。 物也 」。

④泰山:地下他界の中で最終的に最も人口に膾炙することになるのが泰山(山東省)の他界であ る。伊藤清司(前掲書)によるなら、蒿里はもともと特定の地名ではなく、死者を葬る墓地のこ とで、そこから地下の冥界の観念に発展していった。泰山を霊山とする考えはもともと斉魯地域 の民間の山岳信仰に由来し、当初は各地に各々の霊山が存在したが、秦漢時代の「封禅」祭祀の中 で最高の霊山と見なされるようになっていき、神が人間の運命を司るとする運命神への信仰を背 景に、人間の寿命を決定する神としての地位を獲得する。後に泰山(運命神)と蒿里(冥界)の 信仰が結合して、泰山に冥界の最高権威があり、その地下の蒿里に死者の居住地があると考えら

( )『孝經援神契 :前漢末頃成立の緯書。1

第七章 秦漢時代における 死者性 の転倒

れるようになる。紀元一世紀以降、天上他界と地下他界の考えが融合して、泰山の地下に泰山府 君という長官に統べられる官僚組織的な死者世界があるとされた。

張華(3 c.後半)『博物志 ( 太平御覧』』『 886)「(孝經)援神契云……泰山、天帝孫也。主召人

( )

魂。東方萬物始、故知人生命 」。

1

『風俗通』封泰山、禅梁父「俗説岱宗上有金篋玉策、能知人年壽長短。武帝探策、得十八、

因讀曰八十、其後果用耆長 」。

『後漢書』烏桓傳「肥養一犬……并取死者所乗馬衣服、皆焼而送之、言以屬累犬、使護死者 神靈歸赤山、赤山在遼東西北數千里、如中國人死者魂神歸岱山也 」。

このように、地下他界は本来は墓のイメージと強く結びついたもので、それ自体は 死者性 の転倒現象を引き起こすわけではない。画像石の場合も崑崙山他界と並んで、死者が墓中で暮ら すという考えが存在していたのであり、そこからは惨めな死者という考えは伺えなかった。むし ろ惨めな死者というイメージの成立は、他界が一種の官僚組織と捉えられる傾向とパラレルであ ったという点が注目に価する。

第一節 告地文

死者性 の転倒現象は、漢代初期の 地下の官吏 にあてた死者の パスポート (大庭脩

『木簡学入門』第九章、一九八四、講談社)とでもよぶべき性格を持つ「告地文」の中にその端 緒を見ることができる。この文書は数はそれ程多くないが、死生観の変化を示す重要資料である と言える。

湖北省江陵鳳凰山168号墓(前漢文帝167BCE)「十三年五月庚辰、江陵丞敢告地下丞、市陽五 夫 (大夫)燧自言、與大奴良等廿八人・大婢益等十八人・軺車二乗・牛車一兩・駟馬四匹・

馬二匹・騎馬四匹、可令吏以從事、敢告主。」十三年五月庚辰 江陵の丞 敢えて地下の丞に告ぐ

) 、

市陽の五大夫 職位 名は 燧 自ら言う 大奴良など廿八人 大婢益など十八人 車二乗 牛車一兩 駟馬四匹、 馬二匹、騎馬四匹と與にすと。吏をして以て從事せしむべし。敢えて主に告ぐ )

江陵鳳凰山10号墓6号牘背(前漢景帝153BCE)「四年后九月辛亥、平里五夫 (大夫)倀(張)偃

(四年後九月辛亥、

[敢告]地下[主]、偃衣器物・所以蔡(祭 )具( )器物、□令□以律令従事? ? 。」

平里の五大夫名は 張偃 敢えて地下主に告ぐ 偃の衣器物・以て祭るところの具器物 □(各 )□(吏 ) ? ? をして律令を以て従事せしむべし )

江蘇省邘江県胡場5号漢墓(宣帝本始三年71BCE)「四七年十二月丙子朔辛卯、廣陵宮司空長 能( )丞能( )敢告土主 廣陵石里男子王奉世有獄事? ? 、 (事 事 已復 故郡郷里遣自致移 (詣)、 ) 、

穴 四八年獄計承書 從事如律令、 、 。」(廣陵王の)四七年十二月丙子朔辛卯 廣陵の宮司空長能 丞能 敢えて土主に告ぐ。廣陵石里の男子 (名は)王奉世、獄事あり(監獄に収監されたこと。墓主は囚人であ り、獄死している 。事 已 り復す。故に郡郷里は遣し、自ら致し移して穴(地 )に詣らしむ。四八年獄計承 おわ ? 書す。從事すること律令の如くせよ )

ここからは、他界についてのある共通のイメージを感知することが可能であろう。第一に、冥界

( )筆者が序寧簡に関心を抱いたのは1 2002年1月19日付けDonald Harper氏私信によるところが大きい。本研究でハ ーパー氏の私信を参考にしたことと共に、感謝の念を表したい。

は地下にあり、そこには「地下主 「土主 「主」とよばれる主宰神と、そのもとに地上のと同様」 」 の官僚組織が存在し(丞、吏といった官職名と、その間の命令系統の存在 、地上と同様に「律) 令」により統治されている。第二は、死者はこの地下の冥界に赴くのだが、それは地上の戸籍か ら冥界の戸籍への移動として捉えられている。死者は地上の官吏の名で書かれた異動書を携帯し て自ら冥界の官吏を訪れ、冥界に登録することで、死のプロセスは完了する(胡場漢墓の例で異 動書の給付者の名が長と丞で同名になっていることが示すように、当然、地上の官吏に仮託した ものだと考えられる 。これは秦漢帝国体制( 編戸斉民 )が他界観の変化に大きく影響してい) 「 」 ることを示唆するであろう。第三に、鳳凰山の二例が死者の随葬器物を細かく挙げていることが 示すように、この文書の目的は死者の所有権を明確にすることであったと推測できる。つまり、

官僚制をなす冥界組織は死者の権利を一定程度保護すると同時に、死者は生前も死後も「律令」

の下で規制を受けることになる。但し、冥界における死者の権利の保護が、祖先崇拝の動機に支 えられていたのか、冥界で侵害された死者が生者に害を及ぼさないようにという厄介払いの動機 からなされたのかは、この文書からは分からない(黄盛璋「江陵高台漢墓新出 告地策 、遣策 与相関制度発復」、『江漢考古』1994-2。同「邘江胡場漢墓所謂 文告牘 与告地策謎再掲」、『文 博』1996-5)。

第二節 後漢建初四年(79CE)序寧簡

中国での文字資料の出土は考古発掘によるばかりではなく、盗掘によるものが香港等に流れて 知られるに至るということが少なくない。その典型が現在衆目を集めている上海博物館所蔵楚簡 であるが、ここで扱う香港中文大学文学館蔵「後漢建初四年序寧簡」もそのような盗掘品の一つ である。この木簡は以前から存在は知られていたが(饒宗頤 「中文大学文物館蔵建初四年『序、 寧病簡』與『包山簡』」、『華夏文明與傳世藏書――中國國際漢學研討會論文集 、一九九六 、一』 ) 昨年、陳松長氏が『香港中文大学文物館蔵簡牘 (二〇〇一、』 97 108〜 頁)の中で原寸大のカラー

( )

写真とともに公にしたことで、始めて全貌が明らかになった。

1

「序寧」簡は一九八九〜九四年の間に香港中文大学が購入したこと以外、出土地・出土状況は 一切不明であり、内容から後漢の建初四年(西暦七九年)のもので、一カ所から出土したのは間 違いない、程度のことしか言えない。当然、真偽の疑問があるが、字跡からは偽とは言えないよ

。 、 、

うである 全部で十四枚からなり 小振りの木牘に小さな文字で複数行にわたって書いたものと 細長い木簡に大きな字で一行のみ書いたものの二種類がある。今までに類似のものが出土したこ とはなく、紀元後一世紀の葬送儀礼の習俗、信仰された神霊の名、語彙などの点で全く新しい情 報を与えてくれる、極めて希有なものである。

文字を補った場合は[ ]、説明は( )内に表示。 等は原報告の簡番号。 は改行を表す。

二.釋文 (226)

1「建初四年七月甲寅朔、皇母序寧病。皇男皇婦皇子、共爲皇母序寧、禱炊、休。七月十二日乙 丑、序[寧](欠)以上正面[下]入黄泉、上入倉(蒼)天。皇男皇婦爲序寧所禱造(灶)君、皆序寧持去

ドキュメント内 untitled (ページ 90-120)