• 検索結果がありません。

漢代における死者祭祀と他界

ドキュメント内 untitled (ページ 79-90)

第六章 漢代における死者祭祀と他界

本章では、漢代における死者に関わる儀礼と他界観の変化、特に二つの他界の内、天上・山上 他界観について概述する。地下他界観は 死者性 の転倒と関わる面が大きいので、次章で述べ ることになる。

第一節 秦漢時代における祖先祭祀の変化

既に第二章で簡単に述べたように、死者(祖先)祭祀の場所は宗廟と墓の二つが存在した。戦 国から秦漢時代に祖先祭祀も一定の変化を受けていくことになるが、この変化は二面的である。

一方では、習俗が歴史的に変化していくという面があり、特に漢王朝によって墓祭(墓で祭祀を 行う)が採用されたこともあり、宗廟と墓が融合し、墓の傍に祭祀を行うための建造物(祠堂)

が付設されることが一般的になっていく。後漢時代になると、祠堂ならびに墓にレリーフをほど こす画像石墓が流行し、それは当時の他界観を濃厚に反映している。一方、もう一つの変化は、

前章でも論じた儒家が祖先祭祀を再解釈することで、理論構築を行って行くという面であり、特 に前漢後期以降、儒家の影響力が強くなるにつれ、その祭祀プランは現実に実行されていった。

(一)宗廟の身分秩序表示機能

儒家禮学における宗廟のプランについては經傳中、相互に矛盾する記載が併存しているが、身 分によって祭祀対象とする祖先が異なるという原則は共有されているといって良い。つまり、祭 祀は親族集団の要素で決定されるのではなく、「封建」的身分(王・諸侯・大夫・士・庶人)の反 映という意味づけがなされていく。

この祖先祭祀理論は本来は机上の空論であった。前漢中期(宣帝 74 49 B.C.E.〜 )までの帝室 の祖先祭祀は「陵旁立廟 (宗廟を各墓の傍に分散して建てる」 )、「郡國廟 (地方に各帝の廟を建」 てる、つまり皇帝の宗廟は複数存在する)、「廟數無制限 (祭祀対象となる祖先の範囲は限定を」 受けない)を特徴とし、儒家禮制の宗廟プランにより規制を受けていない。しかし、元帝期 (49

〜33 B.C.E.)に始まる宗廟制改革議論の中で儒家プランに基づく宗廟の制限が次第に定着してい

った。後漢時代の宗廟制度は、漢王朝の伝統と儒家プランの一種の妥協の状態であり、陵寝制度 においては「同堂異室 (光武帝陵傍の宗廟内に歴代皇帝の神主を置く」 )、「上陵」(墓祭)を継承 していた。

漢代において儒家のプランが影響を与えたのは主に帝室の祭祀に限定されていたが、高級官僚 においては政治的地位の象徴として宗廟祭祀が認められ それが政府の監督下に置かれており 特、 (

、 ( ) 。『 』 )、

に傍系から爵位を継承した場合に 直接の祖先 私親 に対する扱いの問題 漢書 金日 傳 魏晋以降の家廟制(官職の高下によって立廟の範囲が規定される)につながっていく。

(二)漢代の祠堂と画像石墓

一方、儒家の理念としては「古は墓祭せず」でありながら、実際は早い時期から墓祭が行われ ていたことは既に触れたが、戦国時代には陵寝を建てることが一般であり、前漢には帝室だけで なく、中期以降、官僚豪族に祭祀用墓傍建築物を建てる風習が一般化する。これらの建物は「祠

、『 』 、 堂」「享堂」「食堂」「祠廟」「冢舎」と呼ばれ 塩鉄論 の中でその豪奢が批判されていることからも その流行が伺える(楊樹達『漢代婚喪禮俗考 、一九三三 。』 )

桓寛『塩鉄論』(昭帝始元六年81B.C.E.塩鉄会議)散不足「古者、不封不樹、反虞祭於寝、無 壇宇之居・廟堂之位。及其後、則封之、庶人之墳半仞、其高可隠。今富者積土成山、列樹成 林、臺榭連閣、集觀増樓。中者祠堂屏閤、垣闕罘。」

『漢書』外戚傳上・史皇孫王夫人傳「初、廼始(宣帝の母王夫人の父)以本始四(71 B.C.E.)年 病死、後三歳、家乃富貴、追賜諡曰思成侯。詔 郡治冢室、置園邑百家、長丞奉守如法 」。 霍光傳「光薨、上及皇太后親臨光喪……賜金銭・繒絮・繍被百領・衣五十篋・璧珠璣玉衣、

梓宮、便房・黄腸題奏各一具・樅木外臧椁十五具 (中略)發三河卒穿復土、起冢祠堂、置。 園邑三百家、長丞奉守如舊法。」「禹既嗣為博陸侯、太夫人顯改光時所自造塋制而侈大之、起 三出闕、築神道、北臨昭靈、南出承恩、盛飾祠室、輦閣通屬永巷、而幽良人婢妾守之 」(。 -68

、昭〜宣帝) B.C.E.

張安世傳「諡曰敬侯、賜塋杜東、将作穿復土、起冢祠堂 」(。 -62 B.C.E.、宣帝) 張禹傳「禹年老、自治冢塋、起祠室」(-5 B.C.E.、成帝)

遊侠列傳・原渉傳「及渉父死、譲還南陽賻送、行喪冢廬三年(中略)身得其名、而令先人墳

、 、 、 。 、 、 。

墓倹約 非孝也 乃大治起冢舎 周閣重門 初武帝時 京兆曹氏葬茂陵 民謂其道為京兆仟 渉慕之、乃買地開道、立表署曰南陽仟 」(新代)。

循吏列傳・文翁傳「文翁終於蜀、吏民為之立祠堂、祭時祭祀不絶。」(景帝)

同・朱邑傳「初邑病且死、屬其子曰、我故為桐郷吏、其民愛我、必葬我桐郷、後世子孫奉嘗 我、不如桐郷民。及死、其子葬之桐郷西郭外、民果共為邑起冢立祠、歳時祠祭、至今不絶 」。 (-61 B.C.E.、宣帝)

張臨傳「且死、分施宗族故舊、薄葬不起墳 」(元帝)。

「 、 、 、 、 、 。」 、

龔勝傳 勝因勅以棺斂喪事 衣周於身 棺周於衣 勿随俗動 吾冢種柏 作祠堂 (-12 C.E.

新代)

後漢期に墓傍祠堂は盛行し、画像を伴う祠堂・石室墓、石闕、石像、石碑を墓域に立てるのが一 般化した。祠堂には木造と石造があったが、前者は現存例なく、瓦當(例えば「萬歳冢當 「殷」 氏冢當」、『新編秦漢瓦當図録 、一九八六、』 203 207、 頁)からその存在を推測できるに過ぎない。

石造祠堂(画像石祠堂)は平屋根単室(山東省嘉祥県宋山 、切妻単室(山東省嘉祥県武梁祠 、) ) 双室(山東省長清県孝堂山祠 、龕室付双室(山東省嘉祥県武氏祠前石室・左石室)などが知ら) れている。

『後漢書』李固傳「新營祠堂、費功億計、非以昭明令徳、崇示清儉 」。 安成侯賜(光武帝の族子)傳「帝為營冢堂、起祠廟、置吏卒、如舂陵孝侯 」。

滇王傳「以廣漢文齊為太守、造起陂池、開通潅漑、墾田二千餘頃…(光武帝)徴為鎮遠将軍、

封成義侯、於道卒、詔為起祠堂、郡人立廟祭祀之 」。

東海恭王彊(光武帝の廃太子)傳「(明帝)特詔…、将作大匠留起陵廟 」。

清河孝王慶(章帝の子)傳「常以貴人(宋貴人、慶の母)葬禮有闕、毎竊感恨、至四節伏臘、輒 祭於私室、竇氏誅後、始使乳母於城外遥祠、及竇太后崩、慶求上冢致哀、帝許之、……欲求 作祠堂… 」。

馬援傳「至(永平)十七74年、援夫人卒、乃更封樹、起祠堂 」(明帝)。

邛都夷傳「太守巴郡張翕、政化清平、得夷人和、在郡十七年卒、夷人愛慕、如喪父母、蘇祈

第六章 漢代における死者祭祀と他界

叟二百餘人、齎牛羊送喪、至翕本縣安漢、起墳祭祀、詔書嘉美、為立祠堂。」(明帝)

「 、 、 、 。 、

桓典傳 擧孝廉為郎 居無幾 會國相王吉以罪被誅 故人親戚莫敢至者 典獨弃官収斂歸葬 服喪三年、負土成墳、為立祠堂、盡禮而去 」(靈帝)。

張酉甫傳「永元十六104年…酉甫病臨危、勅其子曰、顯節陵(明帝陵)掃地露祭、欲率天下以 儉。吾為三公、既不能宣揚王化、令吏人從制、豈可不務節約乎。其無起祠堂、可作藁蓋廡、

施祭其下而已 」(和帝)。

現存および発掘の例によれば、祠堂の規模・形態は次の通りである。

①山東省長清県孝里鋪孝堂山石祠(羅哲文「孝堂山郭氏墓石祠 『文物』」 1961-4/5) 祠堂現存、寛4,14m、深2.5m、高2.64m、壁石厚20cm、内部3.6 2 1.46m× × 。 入口中央に八角柱があり、二間に分ける。奧壁側の床面は一段高くなる。

②山東省嘉祥県宋山一号(1978年出土「山東省嘉祥県宋山発見漢画像石 『文物』」 1979-9)、二 号・三号墓(1980年出土「山東嘉祥宋山1980年出土的漢画像石 『文物』」 1982-5、三号墓「永 壽三(157)年安國祠堂題記」は下引 。蒋英炬「漢代的小祠堂 『考古』) 」 1983-8。

一号小祠堂 幅1.9m弱、深0.9m弱、高残1.7m(室内:1.2 0.68 0.75× × ) 二号小祠堂 幅1.88m、深1m弱、高残1.3m(室内:1.2 0.68 0.74× × ) 四号小祠堂 幅1.87m、深0.8m、高残1.2m(室内:1.2 0.64 0.7× × )

Fairbank, Wilma

③山東省嘉祥県武氏祠堂群(紙坊集武宅山)山東省長清県孝里鋪孝堂山石祠(

“The Offering Shrines of Wu Liang Ts'u”, Harvard Journal of Asiatic Studies6-1, 1941. 蒋英炬・

呉文祺『漢代武氏墓群石刻研究』一九九五)

武梁祠 幅3m、深1.6m、高2m、一間、長方形。後壁下部中央に供案石の跡。

前石室 幅4.4m、深3m、高残2.4m不規則五角形。北壁中央下に龕室(幅1.7、深0.7、高0.7)、

供案石(高25cm)の上に乗る。

左石室 幅残3.4m、深3m、高2.6m凸形。北壁中央下に龕室(幅1.3、深0.74、高0.7)

これから見ると、石造祠堂は大きいもので、横4m、高2m強、奥行3m程度で、後壁中央下部

、 ( ) 、 、 ( )

に横1〜2m 高1m弱の龕室 くぼみ があり これが神霊の座で その前に供案石 供物台 が置かれる。小さいものは、大規模祠堂の龕室のみが独立したような大きさで、内部に人は入れ ず、祠堂床面が供案石の機能を果たしたと思われる。宋山の祠堂は一般の地主・低級官吏のもの と推測されている(「永壽三年安國祠堂」題記に「斗食小吏」とある 。)

興味深いのは、祠堂の祖先祭祀においては祭祀参加者が親族に限定されないところである。祭 祀参加者の範囲は「宗族」「賓客」「故人」(友人・同僚 、弟子、あるいは天子が高官の祭祀に関わ) る、地方長官が地方の名族の祭祀に参加する、逆に吏民がかつての地方長官の祭祀を執行する、

更には無関係者 参観者 に至るまでを含み得たのであって 祭祀における親族関係の絶対性( ) 、 (『論 語』為政「非其鬼而祭之、諂也」、『左氏傳』僖公十年「神不歆非類、民不祀非族 )は既に存在」 しない。ここからは墓祭が単に親族結合だけではなく、豪族の親族結合や官僚の権威の表明とし て機能したことを知ることができる。

『漢書』循吏列傳・文翁傳「文翁終於蜀、吏民為之立祠堂、祭時祭祀不絶。」(景帝)

朱邑傳「初邑病且死、屬其子曰、我故為桐郷吏、其民愛我、必葬我桐郷、後世子孫奉嘗我、

不如桐郷民。及死、其子葬之桐郷西郭外、民果共為邑起冢立祠、歳時祠祭、至今不絶 」。

『後漢書』滇王傳「以廣漢文齊為太守、造起陂池、開通潅漑、墾田二千餘頃…(光武帝)徴為 鎮遠将軍、封成義侯、於道卒、詔為起祠堂、郡人立廟祭祀之 」。

ドキュメント内 untitled (ページ 79-90)