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秋葉原:コスプレ文化にとって の文化装置とはどのようなものか? の文化装置とはどのようなものか?

第7章 秋葉原:コスプレ文化にとって

この現象をさらに分析するために、東京電機大学の存在に注目したい。東京電機大学 は、1907年に廣田精一と扇本真吉の2人によって神田に創立された夜間学校である「電機 学校」がおおもととなっている53

第2次世界大戦後の焼け野原になった東京で、キャンパスに隣接する神田小川町や神田 須田町に真空管やラジオ部品を扱う露天が集積したが、ここに東京電機大学の学生が殺到 し部品を買い漁ったことや、実際に店員として働いたこともあり、露天は大いに賑わっ た。1949年にGHQによって出された露店撤廃令により、露店の多くは秋葉原駅周辺に移 動することになる。これが電気街としての秋葉原の原型である。

東京電機大学は2012年に北千住にキャンパス移転を行い、神田からは撤退してしまっ た。しかし、秋葉原電気街誕生のきっかけとなり、秋葉原で活躍する人材を数多く排出し たという意味において秋葉原とは切っても切り離せない大学である。

さて、1949年にGHQは都内の露店を一掃することを掲げた「露店営業整備計画」を発 布した。それによって、秋葉原にあった露店は立ち退きを命じられる。しかし、秋葉原を 仕切っていた結商業協同組合の山本長蔵は、様々なコネを使いGHQと渡り合い、立ち退 きにあたっての代替地を要求した。最終的に組合単位で代替地を充てがわれることにな り、「ラジオガァデン」「ラジオセンター」「ラジオデパート」「ラジオストアー」「電波会 館」「秋葉原デパート」などの集合店が1950年出来上がった。ちなみに、これらの集合店 はほとんどが1-2階建ての低層建築であった。当時の基準で高層建築となる6階建て以上 の高さを誇るビルが建設されるようになるのは1962年の「秋葉原ラジオ会館54」開業頃か らである。なお、この秋葉原ラジオ会館には、マイクロコンピュータの普及拠点となった

「NEC秋葉原ビットイン」が1976年に開設され、秋葉原のパソコンブームのきっかけを 作り出すことになった。

朝鮮戦争を過ぎた1950年代半ば以降から電気洗濯機、テレビ、冷蔵庫が三種の神器と してもてはやされ、秋葉原の主力商品はラジオから家電製品へと移り変わる。秋葉原では 大量仕入れ、大量販売によって粗利率を落とし、少しでも安い価格での商品提供競争があ ったこともあって「秋葉原は安い」という評判が客を呼び、日本中から人々が秋葉原に集 まっていた。また、当時はメーカー側も販売代理店を通じた全国規模の販路を確立してい

53 大学の沿革 | 東京電機大学

https://www.dendai.ac.jp/about/tdu/history/chronology.html

54 地上8階地下1階建てのビルで秋葉原初の高層ビルという触れ込みでマスコミを賑わせ たという。

なかったこともあり地方の電気店や問屋までもが秋葉原に足を運び直接製品を購入してい たという。

先述した通り、1976年に秋葉原ラジオ会館にNEC秋葉原ビットインが開業した。この 施設はマイクロコンピュータ――略して「マイコン」――のサービスセンターやショール ームであったが、同施設にはマイコンにのめり込んだファンたちが続々と詰めかけるよう になり、マイコン愛好者たちのサロンのような空間に成長していったという55。このビッ トインの成功に続く形で秋葉原には数多くのマイコンを扱う店舗が急増していくことにな る56。マイコンと呼ばれていた時代は、まだコンピュータはゲーム感覚で用いるものであ ったが、NECが1980年頃にPC8001、PC9801のシリーズを発表すると遊びの対象から 日常業務をサポートする存在へと変わっていく。なお、PCとはパーソナル・コンピュー タの略称であり、この頃からパーソナル・コンピュータ、通称パソコンという呼称が使わ れるようになる。

ちなみに、世界初のパーソナル・コンピュータは一説には1974年末に発売されたAltair 8800とされている。それまで巨大で高価であったコンピュータが個人でも所有できる程度 の大きさと価格になって発売されたのである。翌1975年には、IBMが市場にIBM5100 を投入している。同機もそれまで巨大で高価なコンピュータを個人で手が届くものとして 発売したとして大きな衝撃をもって受け入れられた。しかし、どちらも一部の専門家や好 事家が購入するだけであり、本格的な普及とは程遠かった。

日本でパソコンが普及するきっかけとなったのは、1976年に秋葉原ラジオ会館内にオー プンしたNEC秋葉原ビットインの存在によるところが大きい。NECではこの年TK-80 というマイクロコンピュータを発売しており、同製品のサポートがビットインでは行われ た。ビットインを中心にユーザーコミュニティが成立したこともあり、TK-80とビットイ ンは予想以上の成功をおさめる。これを機に秋葉原には数多くのマイコンを扱う店舗が急 増していき、日本国内に広がっていった。そのこともあり、一時期ラジオ会館には「パー ソナルコンピュータ発祥の地」というプレートが掲示されていた57

55 NECビット・イン - パソコン創世記

http://jibun.atmarkit.co.jp/ljibun01/rensai/genesis/097/01.html

56 つまりNEC秋葉原ビットインが文化装置として「都市の鍼治療」の効果を発揮し、そ れをコアにパソコン文化の下位文化ディストリクトが形成されたというように説明するこ とができるだろう。

57 秋葉原ラジオ会館に「パーソナルコンピュータ発祥の地」のプレートを設置 https://pc.watch.impress.co.jp/docs/article/20010927/nec.htm

このようにNEC秋葉原ビットインの成功を見たメーカー側も続々と開発に躍起にな り、IBMやシャープといったメーカーが競争に参入してくるようになった。特に、その流 れを決定付けたのは1980年代半ばからウィンドウズやマッキントッシュが市場参入して くるようになったことである。さらに80年代末からのバブル崩壊にともなって、郊外型 の家電量販店が台頭し、それまで家電を買うために秋葉原に行かなければならなかった層 が郊外で事足りるようになった。家電市場を奪われた秋葉原はなおさらのことパソコンを 主力に据えていくことになる。その結果、秋葉原を訪れる客層が家電を買いに来る家族連 れから、若い男性のパソコンマニアへと著しく偏ることになった。そしてパソコンを好む 若い男性は、アニメの絵柄のようなキャラクターを好み、そうしたキャラクターが登場す るアニメやゲーム、ガレージキット58も愛好する傾向があった。1997年にテレビアニメ

『新世紀エヴァンゲリオン』ブームが起き、ガレージキットや同人誌の専門店が秋葉原に 続々と進出することで、秋葉原はようやくオタクの街となるのであった。

したがって、秋葉原がオタク街として成立したのは1997年からだとされている(森川

2008)。しかし、秋葉原がオタク街として社会的に――すなわちオタク以外の層にも――

認知されるようになったのは、マスメディアによる秋葉原ブームが大きい。2003年3月に テレビ東京系で放映された『ガイアの夜明け』で初めてオタク街としての秋葉原が紹介さ れて以降、テレビや雑誌、新聞などで相次いでオタク街として秋葉原は取り上げられるよ うになった。そうした秋葉原ブームのピークを作り出したのは2005年の夏から秋にかけ て放映されたテレビドラマ『電車男』である。本作はインターネット掲示板の2ちゃんね る59に書き込まれた投稿をベースにしたものであり、オタクの青年を主人公にしたラブス

58 ガレージキットは模型の1種である。また同人誌はアマチュアが描いた漫画である。

59 2ちゃんねるは1999年5月に誕生したとされている電子掲示板である。2ちゃんねる は誕生から長い期間に渡って日本のインターネット文化の中心を担ってきた。たとえば2 ちゃんねる発祥の言葉が広くネットスラングとして使用されるということが多く見られ た。代表的なものに「ぬるぽ」「キボンヌ」などがある。2ちゃんねる文化の最盛期は、

2004年に誕生した「ニュース速報(VIP)」という板(トピックごとに束ねられた掲示板の 集合を指す言葉)が作り出したものであろう。同板は、その当時の2ちゃんねるにおいて 最も多い利用者を集め一時代を築いた。同板のユーザーはVIPPERと呼ばれ、2ちゃんね るユーザーの中でも特別視された。ニュース速報(VIP)やVIPPERの存在は、2ちゃんね る内に留まらず、『電車男』のようなドラマやゲーム、インターネット上のまとめサイト を通して広く世の中に知れ渡った。

トーリーが展開される。その物語の舞台として頻繁に秋葉原は登場するのである。本作の 平均視聴率は21.2%であり、最終話では最高視聴率25.5%を記録している。本作放送期間 中に当たる2005年9月のJR秋葉原駅の乗降客数は、大型家電量販店のヨドバシAkibaの 開業も相まって前年比の4割増を記録したという(森川 2008: 263)。

ここから分かるのは『電車男』が放映された結果、秋葉原に多くの観光客が訪れたとい うことである。すなわちコンテンツツーリズム現象が2000年代半ばの秋葉原では観測さ れたということになる。しかし、この事実は人々にはあまり認識されていないように思わ れる。また、後に詳しく見ていくが、秋葉原でこのようにコンテンツツーリズム現象が見 られるようになった結果、コンテンツの作り出したイメージに合わせて街が大きく姿を変 えた。これまでのコンテンツツーリズムに関する研究では、地域にアニメや漫画を通じて 新たな物語性が付与される現象が論じられてきたが、新たな物語性が付与された結果、街 の姿が大きく変質したという現象についてはほとんど論じられていない。

さて、秋葉原にパソコンブームが訪れた背景には、80年代末からのバブル崩壊にともな って、郊外型の家電量販店が台頭してくることも関係している。それまで家電を買うため に秋葉原に行かなければならなかった層が、郊外で事足りるようになったのである。家電 市場を奪われた秋葉原はなおさらのことパソコンを主力に据えていくことになる。この変 化を森川は「秋葉原を訪れる客層も、家電を買いに来る家族連れから、若い男性のパソコ ンマニアへと、著しく偏ることになった」(森川 2008: 28)と指摘している。

秋葉原にオタク街が成立した大まかな背景は1章で既に述べた通り、1997年からの『新 世紀エヴァンゲリオン』ブームを背景にガレージキットや同人誌のオタクの好むアイテム を扱う専門店が秋葉原に進出するようになったことにある。森川は、オタク商品の需要が 秋葉原という場所に発生したことについて以下のように分析する。

それは、他の場所にないような著しい人格の偏在が、秋葉原に起こっていたからで ある。(中略)それはパソコンを好むマニアの集中によって発生した。そしてパソコ ンを好む人は、アニメの絵柄のようなキャラクターを好み、そうしたキャラクターが 登場するアニメやゲーム、ガレージキットも愛好する傾向がある。オタク趣味の構造 である。その趣味の構造が、歴史や地理、行政といった旧来的な構造に代わる新しい 街の形成構造として、秋葉原の変化をもたらしたのである。(森川 2008: 56)

秋葉原にパソコンを扱う店舗が集中した結果、それから派生するようにオタク街が成立 したと森川は指摘するのである。こうして誕生したオタク街としての秋葉原であるが、既 に本論文冒頭でも述べた通り、オタク街としての秋葉原がマスメディアによる秋葉原ブー