九 月 十 五 日 ﹂
485
秋 夜
九月 十五 日﹂
国
国
黄萎顔色白霜頭
o o o ‑
‑ o
@
況復千絵里外投・・
o o
‑ ‑ @
土日 被品 開花 箸組 縛
・・
G o o ‑
‑
今為陵諦草奉囚
O o
‑ ‑
‑ 0 0
月光似鏡無明罪・
0
・・0 0
・
風気如刀不破愁
0 ・ o
o ‑
‑ ︒
随見随聞皆惨傑
0 ・ 0
o o ‑
‑
此秋濁作我身秋・
0
・・・0 0
脚韻は下平声尤韻
︒韻 字は 頭
・投・因・愁
・秋
であ
る︒
作品考
‑63‑
岡 国
・貴誌の顔色白霜の頭
‑況んや復た千絵里の外に投するをや
0
・昔は祭花箸組に縛せられ
‑今は庭諦草莱の囚と為る
・月光鏡に似て罪を明らかにすること無し
・風気刀のごとくにして愁を破らず
‑見るに随ひ︑聞くに随ひて皆依肱0
・此の秋濁り我が身の秋と停る
‑64‑
周 回
黄色 にや みつ かれ 萎え しわ んだ 血色 のな い顔
︑霜 をか ぶっ てい るか のよ うな 白髪 頭( これ も︑ 老い たる 身の 必然 )
・ましてや︑京都より千五百里も離れた西の果てに追いやられた私の容姿がどうなっているかは言うまでもなかろ
' つ
J
︒
‑今
思え ば︑ 昔︑ 京に 居て 得意 の時 代︑ 私は かん ざし ゃ組 ひも をし て正 装で 宮中 に伺 候し てい たも ので ある
︒( 束縛 も多 かっ たが 心に 張り があ り充 足し た日 々で あっ たこ とよ )
‑ところが今は陵請の身︑仕官する束縛から解放されたものの︑日々の生活は生い茂る雑草の中の田舎暮らし
︒
(牢 生活 をさ せら れて いる のと 大差 はな い
︒)
‑月光のさやけさは鏡面そのもののようだ
︒(本当の鏡なら人に罪がなければ明らかに顔面を写し︑罪科があれば
鏡面 は曇 ると いう のに )こ んな にも 明ら かに 照り 輝い てい るの に︑ 私の 無実 を何 一つ 証し ては くれ ない
︒
‑秋
風の つき さす よう な冷 気は まる で万 のそ れの よう なの に︑ 我が 肌身 には っき させ ても
︑私 のこ の深 くこ もっ た愁 いは 破つ ては (消 して は) くれ ない
︒
・そ
んな 月の 光を 見る につ け︑ 秋風 の音 を聞 くに つけ ても 私に は︑ 身震 いが おき るほ どす さま じく 感じ られ る︒
‑(
一般 に秋 は人 々に とり 悲し い季 節で ある けれ ども )と りわ け今 年の 愁え は︑ わが 身の 上に 集ま り︑ 私に だけ に 悲しみが限りなく深いように思えてならないことよ
︒
開園
①
O
玉句 目﹁ 月光 似鏡 無明 罪﹂ の表 現に つい て
‑65一
﹃菅 家文 革﹄
﹃菅 家後 集﹄ の中 で﹁ 月光
﹂を
﹁鏡
﹂に たと える 表現 はこ
の﹁
島町 秋夜
﹂の 他に も散 見す るが
︑
二万
で
﹁鏡
﹂と
﹁無 明罪
﹂の 表現 との 関わ りに つい ては
﹃菅 家文 革﹄
﹁
N E
封鏡
﹂に 注目 する 必要 があ る
︒こ
の詩 と︑
﹃白 氏文 集﹄ との 関わ りに つい ての 考察 を既 に拙 稿で 論じ た( 注二 )こ とが ある
︒こ
こで は﹁ 鏡﹂ その もの の語 を考 察す 為に 再
度原文の一部と書き下ろし文を岩波古典大系本より引用してみる ︒
(一 部︑ 筆者 試読 )
N E
a
針鏡四十四年人四十四年の人
生涯未老身 無心無所忌 剖銅剣桐銅
半面分明見
讐眉斗頓頻
此愁何以故
照得白毛新
副胤銅淵劇
再三拭去塵
塵消光更信
知不
失其
同県
(下
略)
生涯未だ老身ならず
我が心忌む所無し
銅叫
矧
U
司桐
剰
U
剖ん と
半面分明に見ゆ
働ヱ
眉
UY
百に艇む
此の愁へ何を以ての故ぞ
白毛新なることを照すこと得ればなり
副引刻刻引叶叫倒叫劇剖制州訓引州と 再三塵を拭ひ去れば
塵消えて光更に信かなり
知りぬ其の虞を失はざることを
‑66‑
(傍線筆者)
この詩は道真が讃岐の国守として赴任中に詠んだもので︑鏡に今の自分の容姿を写したところ︑白髪が生えてき た愁 人の 己れ の姿 が明 らか にな った とい う主 旨の もの であ る
︒ここで道真自身が鏡に己の姿を写すという意味合い
を押さえておく必要がある
︒すでに川口久雄氏が頭注で指摘している(きるように﹁鏡は将来の吉凶を照らすも
のバ思うところを自照すればやがてあらわれる ︒
又鏡は毛筋ほどの微細なことや病気のことまでも照らし出すと 考え られ てい た﹂ との 認識 は︑
﹃整 文類 来﹄
﹁服 飾部 下
・鏡
﹂の 項に 載せ られ てい る﹃ 抱朴 子﹄ 中の
﹁或 問知 将来 将来
吉凶震有道乎 ︒
答日
︑用明鏡九寸自照︑有所思存 ︒七日則見神仙
︑知千里外事
也
﹂の 内容 が道 真を 始め とす る 当時 の漢 詩人 に享 受さ れて いた こと の証 とな る︒ 故に この
﹁
N E
封鎖
﹂の 三句 目﹁ 我が
心
忌む 所無 し﹂ だか ら四 句
目﹁鏡
に対 して 相親 しま んと す﹂ の句 が生 まれ るの であ る︒ 換言 すれ ば︑ 己れ に忌 む所
︑が あれ ば鋭 から それ を見 抜
かれ
︑鏡
その もの が曇 って しま うの であ るし
︑又 将来 に不 安が あっ ても 鏡に 凶と して 曇り が生 じる はず であ る
︒九
句 目﹁ 自ら 疑ふ らく は鏡 に務 を浮 かぶ るか と﹂ と
一寸
道真 が不 安に なる のは
︑﹁ 鏡に 麟を 浮か ぶ﹂ のは
︑自 分の 将来 に 凶とする不安要因がひそんでいることを鏡が予知しているのではないか︑又自分に忌む所があるのを鏡により見抜 かれ てい るか らで はな いか と考 える から であ る
︒故
に一
O
句目で 鏡の 表面 を磨 き︑ 一
一句
目で それ によ り﹁ 光が 更 に儲 か﹂ にな り︑ 一二 句で
﹁知 りぬ
︑其 の虞 を失 はざ るこ とを
﹂と
安堵 する 内容 にな って いる
︒こ
のよ うな 鏡に 対す る認 識が 基底 にあ るこ とを 踏ま えて みる と︑
z g
秋夜
﹂の
﹁月 光鏡 に似 て罪 を明 らか にす るこ と無 し﹂ の表 現内 容が理解できる
︒つ
まり
﹁本 当の 鏡な ら人 に罪 がな けれ ば
H忌む所がなければ明らかに顔面を写し︑罪科があれ
ば鏡面は曇るというのにこんなにも明らかに銭面さながらに月光が照り輝いている
( H 私に は何 一つ やま しい とこ ろが ない こと を証 して くれ てい るは ずな )の に︑ 私の 無実 を何
一つ
証し てく れな い﹂ とい う納 得が でき ない
︑不 満の 心 情が 明ら かに なる ので ある
︒
‑67‑
開園
②
O
六句目
﹁風 気如 刀不 破愁
﹂の 表現 につ いて
この
句に
つい
ては
︑小
島憲
之氏
が既
に指
摘さ
れて
いる
よう
に(
注四
)﹁
風気
﹂が
﹁刀
のご
とし
﹂と
いう
表現
は次
の﹃
白
氏文
集﹄
が踏
まえ
られ
てい
ると
考え
られ
る
︒
N E
N
晩寒 急景流知箭
凄風利似刀
膜催雛麹数 寒束樹枝高 縮水濃和酒 加豚厚繋抱 可憐冬計皐 媛齢酔陶陶
緩 憐 豚:水 寒 眠 凄 ド 急
か む を を 束 催 風
t
景に すζ 加 縮 ね し
L
臥レへめてて手Ij~流
し 冬 て巳て 樹 難'き
I
る酔 計 同 和 枝 麹;こ│る
う 畢::抱i酒 高 数:と│℃
て り を を し ま
ι i
陶
厚濃i り荷積
男 手 E 到 :
り し り││ く
‑68‑
(傍線筆者)
更に
この
﹁風
気﹂
が﹁
愁い
を破
る﹂
の﹁
破﹂
の表
現に
は︑
和歌
の縁
語と
掛詞
に似
た用
法が
含ま
れて
おり
︑愁
いを
﹁風
﹂と
の関
連で
﹁吹
き被
る﹂
意で
用い
たの
と︑
愁い
を﹁
消す
﹂の
意を
重ね
あわ
せら
れて
いる
︒
同国@ O
八句目﹁此
秋濁
作我
身秋
﹂の
表現
につ
いて
この 句の 表現 には
﹃白 氏文 集﹄ の 摘さ れて いる
︒ 次の句の投影があることが既に川口久雄氏(注五)や小島憲之氏
(注 四) によ り指
﹃白氏文集﹄(﹁鷲子機三首序﹂)
∞
g
其 一
滴窓明月満簾霜
被冷燈残梯臥林 燕子楼中霜月夜
制刺 則矧
﹁刈 劃
‑69‑
秋 │ 燕 被υ満
来│子 冷や窓
i
楼 や の只 「 中 か 日
だ│ に 月
人 │ 育 燈 漏:
の │ の 残 簾:
矯 │ 夜 し の
i . : 1
て 霜劃 臥f
し
I
~木;梯を ふ (傍線筆者)(﹃新釈漢文大系白氏文集三﹄二八三頁)
(注 二) 拙稿
﹁道 真の 詩﹁ 早春 侍宴 仁寿 殿同 賦認 春応 製﹂
﹁対 鏡﹂ の
二詩
をめ ぐっ て│ 道真 の﹃ 白氏 文集
﹄か らの 摂 取態 度の 一考 察( その 六ご
﹁国語国文学研究﹂二六号(熊本大学文学部国語国文学会) ( 注
一ニ)岩波日本古典文学大系﹃菅家文草
・出
国家 後集
﹄三
O
三頁(注 四) 日本 漢詩 人選
1
集1 2
目家道真﹄小島憲之・山本登朗著一五二
1
一五四頁 (注五) 岩波 日本 古典 文学 大系
﹃菅 家文 革
・菅
家後 集﹄ 七
三
五頁
・補
注
‑70‑
‑ ﹃菅家後集﹄所載﹁央奥州藤使君﹂の構成論考
(
)
﹃菅家後集﹄所載の﹁色︒央奥州藤使君九月二十二日︑四十韻﹂は五言八十句古詩のスタイルで︑﹁絞意一百韻﹂に 次ぐ長編の作品である
︒題注にもあるように︑道真五十七歳時︑太宰府左遷の当該年の秋︑九月
二十二日に詠まれ
たとある ︒
その内容は︑人の呪誼を受けて亡くなったと伝え聞く旧友の陸奥守藤原滋実の死を京都からの家族の手紙
とそれを太宰の諦居に届けに来た使者より知り︑その死を悼み︑さらに今の我が身を鑑み︑ともにこの世の非情を嘆く
心情が︑鬼気迫る筆致で貫かれている ︒太宰府での道真の心情の変遺を知るうえで注視すべき作品である ︒
この
詩に
つい
ては︑既に注釈書(注こを公にした ︒又︑その作品内容より窺えることを﹁総括﹂の形で︑前稿(注二)で提起してみた︒
しかしながら紙頁の制限があり︑その中で十分意を尽くすことが出来なかった恨みがあり︑今稿は︑再度︑全文を取り
挙げ︑構成論に視点を置き︑更に考察を深めることが大きな意図である ︒
具体的には︑前稿(注二)で提起したことを踏まえて︑改めてここに整理し考察を深めることにある ︒
それは本詩の第七十九句
・八十句にある﹁拙詞四百言/
以代使君諒(拙詞四百言
/以て使君の諒に代へんごの句内
容の意味するもの︑とりわけ﹁謀﹂の使い方に注視する必要がある点 ︒そしてここから本詩の構成の仕方の糸口が見える
点の二点である ︒
一71‑
(
)
まず﹁謀﹂の使い方についての考察を再度以下に整理してみる︒
道真は︑第七十九句
・八十句で︹︺﹁五言四十韻﹂の古詩でもって︑﹁諒﹂の代用をした︺と詠む
︒そ
の﹁
謀﹂
とは
︑﹁
①死
者の生前の功績をたたえ︑その死を悼む﹂意と︑又﹁②しのびごと︒死者を哀悼する文章﹂のことであるが︑前稿で提起し
たように︑ここでの使われ方は︑﹁諒﹂を死者を追悼する文章﹁しのびごと﹂の漢訳語としてではなく︑古代中国本来の
﹁謀﹂の文体を指していると考える
︒
井上和歌子氏の論文(﹁﹃空也諜﹄考
l
文体
︑成
立の
指示
︑評
価│
﹂)
(﹁
和漢
比較
文学
二号
)に
次の
よう
な言
及が
ある
︒
‑72‑
漢文
の諒
は﹁
1 1
(中略)誌について︑より詳細な説明は﹃文心離龍﹄等の文体論に見える︒通例であった ︒ 部で構成される謀は︑四字句で押韻する頒で綴るのが二諒井序﹂︑即ち散文の序と韻文の謀の1
(中略)この諒に関する文
体論は︑以下の五点に纏められる︒(中略)⑤記述の方法︒伝のスタイルで記述し︑頒の文を用い︑生前の徳を誉め︑そして死を悲しむ ︒
称える事と哀悼する事が両立する記述が必要である
︒(中略)死者の徳行を伝によって記述し︑
更に哀悼の調を述べ︑かつ声に出して朗読されることが諒に求められたのである︒﹂
ここで︑この﹁突奥州藤使君﹂の詩に目を移す︒井上氏の言及する﹁謀﹂の文体とどう関連するのか︑又この詩の構成とどう関わるのか︑全八
O
句を便宜上八句ずつ十段落に分け考察を進める
︒