第 2 章 「98 年の世代」の文壇
第二部 バローハのエッセイの特徴―そのフィクション性
5.1.1. 社会批判と文学
オルテガ・イ・ガセーは
1925
年に『芸術の非人間化』を出版したが、これを引いて[14]「政治の非人間化」では「スペインでは、なかなか非人間化されにくい芸術の非人間化を
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説くが、政治の非人間化は聞かれない。実現すれば有益だが 141」(688)と冷ややかに述べ る。また、新聞掲載時の
1930
年3
月頃には大いに議論されていたであろう議会制につい ても、「ブルジョア階級が議会制を熱心に支持するのはおそらく、すぐに出世でき、議会 では威張って議場をうろつき、聴衆の前で拳を上げることができるからだろう 142」(689) と皮肉な姿勢を示す。第3
章でも指摘したように、バローハは権力を手にした個人に対し て最も批判を強める。しかし政治形態そのものについては、いかなるシステムにも懐疑的 であった。[17]「スペインの君主制の意識」では、君主制と共和制を比較して、資本主義と軍隊、
戦争、国家国民主義を掲げる点では共通しており、異なるのは君主制は国王と宗教を掲 げ、共和制は議会と民主主義的レトリックを掲げる点だけであると言い(692)、どちらに も与しない。『新・道化の舞台』の「我が国の内戦」章でも、二派に分裂することを強く 非難していたが、ここでも同じ立場を崩していないことが分かる。
しかし、政治の理想は次のように語られる。
君主制は単に集団生活に強制するものや実践形態であるだけでなく、人々を連帯させ、祖国へ の帰属心の象徴でもあった。王を責めることは臣下[である自ら]を責めることだった。現在は 違う。君主制主義者の大半は祖国と自由、つまり国家の主権を君主制の上に置いている 143。 (692)
プリモ・デ・リベーラ将軍の辞任以降、政治は旧体制を保持する勢力とそれに反対する
勢力との間に騒乱と弾圧が繰り返されていた。ここでバローハは現実に鑑み、もはや理想 論を掲げる余裕を失い、政治形態そのものよりも、それを担う自己中心的な個人に矛先を 向けている。また、[15]「流行の共産主義」では、難解なマルクスの『資本論』など読んだはずのな
い女性たちの間で共産主義がもてはやされていることを挙げ、それは共産主義が共和主義 や無政府主義とは違って感情に訴えるからだ、と言い、批判の対象はやはり社会から個人 に移っている(690-691)。エッセイの最終章[18]「文学と流行について」でも、「おめでた141 “Es curioso que en España se nos haya hablado de la deshumanización del arte, tan refractario a ser deshumanizado, y no se nos haya hablado nunca de la deshumanización de la política, que podría ser deshumanizada con ventaja.” (688)
142 “Yo creo que la mayor parte del entusiasmo que produce el régimen parlamentario en la burgesía depende de la posibilidad de hacer una carrera con rapidez, de la ilusión de representar un papel en el Congreso, de farolear, dar unos paseos en la tribuna, y de estirarse los puños ante el público.” (689)
143 “La monarquía no era sólo una imposición ni una forma pragmática de la vida colectiva, sino un nexo de los hombres de un país, un símbolo efusivo de la patria. Ofender al rey era ofender al vasallo.
Hoy ya no es esto; la mayoría de los monárquicos ponen por encima de la morarquía la patria, la libertad o la soberania nacional.” (632)
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い民主主義が甘い戯言を振りかざすから、人は皆平等などと信じるのだ。そしてもし不平 等があれば、それはけしからん、と全力でそれを取り除かなければならないと思っている
144」(705)と、民主主義そのものよりも、それを自分の都合のよいように曲解する人々を 非難するのである。
このように批判の対象となる人々は、『道化の舞台』では権力を手にした民衆であった
が、本エッセイでは政治意識に目覚めた民衆に置き換えられている。ただし、彼らには自 分の利害に関する政治意識はあっても、彼らには知性は備わってはいない。最終章ではこ うも言う。大衆は [知識人のように] 広い視野を持って意識を高めていくことができない。彼らは精神の 不安を感じる能力がほとんど備わっていない人の群れなのだ。(……)これはただ貧しい人を指 しているのではない。くだらない自己満足で主義主張を絶対に曲げない集団もそうなのだ
145。(695)
このように政治が大衆に悪影響を与えるのに対して、「文学ではほとんど同調性は見ら
れない。逆に政治では常に見られる。作家は個人主義者だが、政治家は優れて社会的なの だ 146」(690)という。では、作家の作品はどのようなもので、どのように読むべきか、バローハはエッセイの
最後で次のように説いている。作家の作品を読む際には、書かれている人物たちや出来事について彼が独断的に下している価 値判断を信用しないようにしなければならない。(……)作家は必ずそれらを様式化する。様式 化するにはフィクションに作り替えているのだ 147。(709)
ここで言う「作家の作品」を「政治家の表現」と置き換えても、バローハの主張と齟齬
はきたさないと思われる。共和制や君主制といった政治形態も、政治家たちが様式化した144 “La santa democracia ama la dulce estupidez. Se quiere creer que no hay diferencias cualitativas entre los hombres, y que si las hay, estas diferencias son tan ofensivas, que se deben hacer todos los esfuerzos posibles para borrarlas.” (705)
145 “La masa no puede ascender de este modo, no puede tener un impulso general; los rebaños son poco capaces de sentir inquietudes espirituales; [...] Al hablar de las masas no se refiere uno
únicamente a los pobres, sino a los grupos cohesivos de mediocridades satisfechas, que tienen dogmas intangibles; [...]” (695)
146 “En literatura no hay un sincronismo espiritual casi nunca; en cambio, en política lo hay siempre.
El escritor es un individualista, el politico es eminentemente social.” (690)
147 “Al leer a los autores, hay que desconfiar de sus juicios absolutos sobre los hombres y sobre los acontecimientos. [...] Los escritores, indudablemente, los han estilizado, y al estilizarlos los han falseado. [...] “ (709)
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ものとも言える。ただし政治では、それが嘘に作り替えられていれば支持する意味がなく なる。一方で文学では、カントやダーウィンは文化を知るために、セネカ、モンテーニ ュ、グラシアンは人生を知るために、そしてシェイクスピアやセルバンテス、カルデロ ン、ディケンズは楽しむために読むなど、読書はあらゆる人に有効な手段なのである
(710-712)。