第 2 章 「98 年の世代」の文壇
第二部 バローハのエッセイの特徴―そのフィクション性
3.1.1. スペイン社会を見つめて
もっとも、バローハは政治に懐疑的でありつつも、その理想を示すことを忘れない。政
治や社会に関しては、[6]「民主主義と悪しき教育」で民主主義を次のように定義づける。我々の大半は民主主義が何かも、それが何を意味するものかも分かっていない。なのに、暗示 にかかって染まっている。(……)民主主義と呼ばれるもの、それは人間が生きている証として の他者への思いやりの一種である。(……)民主主義と、それに並ぶ社会主義に共通するのは、
公正と正義の概念ではないだろうか 28。(24)
歴史的背景で言及したように、18
世紀の “ノバトーレス” や19
世紀の “アフランセサ ード” と呼ばれた自由主義知識人たち、またジャーナリストのラーラはこのような理想を 抱いていた、と「98年の世代」の作家たちは理解していたであろう。ここでバローハは彼 らに追随する姿勢を示し、自らの知識人としての立場を明らかにしている。しかし、現実の政治については、「ここでひとこと言わせていただきたい。もう一つの
民主主義とは政治だ 29」と否定的である。国民主導と言うが、現実の民主主義は社会主義 と同様に貧富の格差を生み、国家は国民を服従させ、常に進歩し続けることを要求するか らである(24-25)。また、バローハは社会主義にも関心があったと、[3]「社会主義のブルジョア階級」で明
らかにしている(16)。しかし実際の社会主義者たちは、簡単なことをもったいぶって言28 “ [...] la mayoría ni sabemos lo que es democracia ni lo que significa, y, sin embargo nos sugestiona y nos hace efecto. [...] Hay algo que se llama democracia; una especie de benevolencia de unos por otros, que es como la expresión del estado actual de la Humanidad, [...] Una de las tendencias que parece envolver la idea democrática, y con ella la idea socialista, es la de la equidad y la de la justicia.
(24)
29 “La otra democracia, de la que tengo honor de hablar mal, es la política.”
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う鼻持ちならない知識人や、行く行くはブルジョア階級になるであろうモラルに欠ける労 働者たちである。ここでも作者は理想と現実を区別して次のように述べる。
同志と呼ぼうが閣下と呼ぼうが同じことだ。同志という呼び方はみせかけの謙虚さであり、閣 下という呼び方はみせかけの貴族意識である。どちらも同じだ。(……)教養ある労働者ではな い、実際の社会主義者、つまり野卑な社会主義者の将来は、ならず者でなければ完璧なるエゴ イストだ 30。(17)
このような発言からはバローハには、エッセイを現実の政治を具体的に論じる場として
用いる意図はないかのような印象を受ける。この点では同じ「98年の世代」でも、現実の 政治・社会を論じたマエストゥや、架空の登場人物に理想を語らせたマチャードとは異な っている。それでもエッセイで政治に触れるのは、対象を徐々に政治思想か権力を握る個 人や民衆に向けていくためであると考えられる 31。個人を批判の対象とすると、「私は貧しい民主主義者も社会主義者も信用しない。もし
彼らが金持ちなら、民主主義者とはなっていないだろう 32」と言い、また[5]「成り上が り族たち」では、「与太者がのさばる一因は民主主義である。これが昔からの階級の壁を 取り払ったせいだ 33」とも言う。さらに [15]「無関心」では、選挙の不正が罰せられな い風潮に触れて、「我々[スペイン人]は、他の民族にはある社会性がないのだ。社会の団結 よりも個人が先なのだ。(……)我々スペイン人は、慣習や実生活では民主主義的だが、法においてはそうではない 34」(40)という。また、[7] 「ウンバート一族」 でも、「現 在の法は(……)強者や抜け目のない者、エゴイストを守るものだ 35」とあり、[16]「雑 草」で言うように、「邪魔な雑草は、我々の社会のあらゆる階層で、いたる所で伸びてき
30 “Llamarse compañero o su señoría, es lo mismo; en compañero hay como una falsa humildad, y en su señoría como una falsa nobleza; pero es igual. [...] el socialista actual, no hablo del obrero ilustrado, sino del socialista vulgar, está en camino de, si no un granuja, un perfecto egoísta.” (17)
31 もっとも、エッセイは多くの独立した章から成っており、小説のようにストーリー性を持って内容が推 移するのではなく、政治や個人、民衆は、入れ替わり立ち替わり、各章で言及する対象、あるいは一種の 主人公となって現れる。巻末に添付する一覧表にあるように、それぞれの章の初出は概ね明らかになって おり、各エッセイ集では、複数年に渡って様々な媒体に発表した記事が順不同で再編されていることが分 かる。
32 “Denconfío de los demócratas y socialistas pobres; creo que si fueran ricos no serían demócratas.”
(25)
33 “He dicho yo en algún lado que una de las causas de que exista la golfería es la democracia, que ha destruido y aniquilado las murallas que separaban antiguamente las clases.” (19)
34 “Somos así; no tenemos el sentimiento social que tienen otras razas. Sentimos el atomismo individualista más que la solidaridad social. [...] Nosotros, los españoles, temenos el instinto democrático en las costumbres y en los usos de la vida, pero no sentimos la democracia en las leyes. ” (40)
35 “La ley es la defensa de los fuertes, de los hábiles, de los egoistas.” (26)
38
て、働く意欲のある者の生活を台無しにしていく。まったく不条理な金権政治に支配され ている 36」のである。
こういった権力を持つ人々を皮肉るためにフィクション性が挿入される。[26]「与太者
の病理学」は、エッセイ『道化の舞台』に先立って1900
年に出版された短編集に含まれ る作品である。「病理学」というタイトルが暗示するように物語はたとえ話として進む。与太者が病む原因の一つは民主主義であり、症状は「自己中心の哲学」として現れる。そ の種類は多岐にわたり、社会の最下層から貴族まであらゆる階層に広がる重篤な病気であ るという。対処法としては、教育するか、衛生面を考慮して殺害するといった方法があ る、と続く(57-59)。多くの読者がエッセイに期待するであろう社会批判は、このように 一種のフィクションの力を借りながら、半ば諦観的に、半ば揶揄的に論じている。このよ うに社会を論理的に批判しないのも、あるいは政治主義や思想をおしなべて否定するの も、フィクションを用いる作家にとっては自由なのだ、と言いたげである。しかし、この 作品にはユーモアと皮肉があるのみで、温かみは感じられない。
また [12]「服従の精神」では、スペイン人は中世以来の下級の騎士であるイダルゴや商
人の継承者としてのブルジョア階級であるとし、「我々には階級ごとに団結という概念が まったくない。(……)我々は勝利することにしか服従せず、そして頭を下げるということ をしない 37」という(36)。このように自己批判をする「我々」とは、社会の中流層であ る。つまり作者は、中流階級に属する知識人の視線で社会を見ているようである。しか し、次の下線のように作家を暗示する「ペンを振るう」者を下層の労働者の一人として描 いてもおり、作者の立場をあいまいにすることもある。我々は社会に不正があることを見聞きしている。石を肩に運ぶ者、ペンや金づちを振るう者、
犂を引く者がいる一方で、債券の配当でいい暮らしをする者がいる。前者が善良な人たちだと は分かっているが、社会問題よりも個人を優先する我々は、労働者よりも配当生活者になりた いのだ 38。(36、下線は筆者による)
しかし、基本的にバローハの立場は、「98年の世代」と同じく、知的中流層である。
36 “La mala hierba crece en nuestra sociedad por todas partes; arriba, abajo y en meido; aniquila e imposibilita la vida de los que quieren trabajar.” (42)
37 “No tenemos idea alguna de solidaridad, de clase. [...] No nos subordinamos más que a esto: a triunfar, y no nos inclinamos ante nada.” (36)
38 “Conocemos la injusticia social. Sabemos que a un lado están los que llevan la piedra al hombro, los que manejan la pluma o el martillo o conducen el arado, y al otro los que cortan los cupones y viven bien. Sabemos que aquellos son buenos pero nosotros, que hemos supurimido el problema social por el individual, queremos convertirnos de trabajadores en cortacupones.” (Ibid.)