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作者にとっての民衆と文学

第 2 章 「98 年の世代」の文壇

第二部 バローハのエッセイの特徴―そのフィクション性

3.1.2. 作者にとっての民衆と文学

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民衆を温かく描くために使われる一方で、語り手は彼らとは異なる立場であることも明ら かにしている。

[3]「社会主義のブルジョア階級」と同じく、[27]「旅人宿」と [28]「浮浪者」は短編集

に収められた作品の再録である。前者はバスク地方のひなびた民宿に宿泊する客たちの様 子を、後者はマドリードの街角にたたずむ浮浪者と語り手が会話を交わす様子を描いてい る。

「旅人宿」はスペイン北部の、線路は通っているが汽車は停車しない村のはずれの一本

道沿いに建っている。そこに行くには何時間も馬車に揺られなければならない。へとへと になって到着した客たちを、田舎者然とした家族がもてなす。台所の煙が立ち込めるなか トランプに興じる客たちに、温かい夕食が振る舞われる(59-60)。そして最後に寝床に 就いた客の一人は「目に涙を浮かべて、哀れな旅人に柔らかな布団と温かい食事を出して 下さることに、天にまします父をこの上なく有難く思うのだった 42」(61)。

短編集の出版に寄せて、ウナムーノも「これこそがバスクの旅人宿である」と称賛した

この作品には<内的歴史>を生きる人々の抒情が漂っている(Baeza, 1962: 12)。その一 方で、鉄道が敷かれてはいるが、ただ汽車が通過するのを眺めることしかできないこの村 は、発展から取り残されたスペインの負の姿も象徴している。ただし、作者は汽車に手を 振る村人たちの姿を描くのみで、その貧しさを否定的に描いてはいない。

また「浮浪者」では、街灯の下にたたずむ彼らを見て語り手は「何をしているのだろ

う」、「仕事は何だろう」と心の中でつぶやいた後、「彼は人生の傍観者である。(

)彼は知識人だ」と、あるいは「彼らこそ哲学者だ」と言う(62)。そしてその内の一 人と知り合いになる。彼は挨拶もせず友人は一人もいないようである。それを語り手は

「知識人だからだ」と言う。なぜなら、友人の多さは愚かさのバロメーターだからであ る。逆に彼を馬鹿呼ばわりする者がいると、「ある日、彼は馬鹿に違いないと言う者がい たが、世の中はこういったことに歯止めが効かないものである。真面目な人を悪く言い始 めると、浮浪者まで悪口の対象となるものだ 43 」と述べる(63)。浮浪者を「知識人」と 呼ぶ語り手は、ここでも自らの立場をあいまいにしている。

一方で、[24]「農民と浮浪者」では、作者は次のように言う。

42 “ [...] y casi con lágrimas en los ojos se cree más que nunca en que hay un buen papá allá arriba que no se ocupa de otra cosa más que de poner camas mullidas en las ventas de los caminos y de dar cenas suculentas a los pobres viajeros.” (61)

43 “El otro día me dijo uno de él que debía ser un imbésil. Pero es lo que pasa en estas sociedades sin freno; se empieza a hablar mal de las personas serias, y se llega a hablar mal hasta de los vagos.” (63)

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浮浪者は気質的に共産主義者で、農民は個人主義者である。(……)浮浪者は、ボロボロの服 を着ているが気前のいいロマン主義者で、農民は実利的で金持ちだがけちだ。(……)そして 私は心では浮浪者なのだ 44。(53)

ここではフィクション性を感じさせない語り方であるので、「私」は作者自身といえ

る。また作者は、先の短編小説「浮浪者」では語り手の「私」でもあろうし、本人が「心 では浮浪者」であれば、知的で孤高の人物とも取れる。このようにバローハは、エッセイ と小説のそれぞれの特性を活かして、フィクション性を排除していると読める記事では作 者として、フィクション性が認められる記事や短編小説では語り手として、自身の立場を 自在に変えながら、真に自由な知識人としての立場を表明している。

もっとも浮浪者の存在は社会問題であるはずで、彼らに好意的であることは常識では考

えられないが、バローハにとっては浮浪者が既成の道徳観念から外れていることが魅力な のである。このことは[14]「ゴーリキ」で明らかにされている。当時のスペインではまだ 名が知られていないが、“浮浪者の詩人”と呼ばれるゴーリキをバローハは、チェーホフや ドストエフスキーを超える作家と高く評価する(37)。

ゴーリキの成功はその道徳観念の欠如にある。このアナーキズム的な本能は誰しもうっすらと 感じているもので、 [ゴーリキの小説の] ページをめくると、いけないことをしている時に感 じる邪悪な喜びを味わい、わくわくするのだ 45。(同)

浮浪者に注目し、短編小説で自身をもそれになぞらえるのは、小説であれば一種の面白

味になり得る。しかし、本作品はエッセイであるのに、そもそも浮浪者が存在するという 社会問題を看過していることになる。これは第一部で述べた、最下層の者たちに無関心で あるというスペインの中流階級の性質でもあろうし、この時点ですでにバローハは、自ら のエッセイをもって、やがて「98年の世代」と呼ばれることになる作家たちの弱点を、図 らずも明らかにしているともいえよう。

しかし筆者は、作者がこの点に気づいていないとは思わず、承知のうえで意図的にエッ

セイの内容をコントロールしていると考える。なぜなら、バローハは [23]「小説」で次の ように述べているからである。

44 “El vagabundo es comunista por temperamento; el labrador es individualista. [...] El vagabundo es romántico andrajoso y espléndido; el agricultor, práctico, rico y miserable; [...] Y es que mi corazón es vagabundo.” (53)

45 “El éxito de Gorki se explica por su amoralidad. Este instinto anárquico que todos vagamente sentimos, es sin duda, el que hace que lo leamos con gusto y sabremos sus páginas con la alegría perversa con que se goza de todo lo prohIbido.” (37)

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私は文学のなかで小説がある決まった型を指すものとは思わない。[小説には]多様で、進化 し、あるいは根本的な変化を見せる可能性が大いにある。(……)文学作品は新聞に掲載され たり、本として出版されたりする。私は本の形がよいように思う。個人は大衆より上に位置す るからである。新聞では作家が読者を追いかけるが、本では読者が作家を追いかけるのだ。

(……)[スぺインの] (……)地方都市の新聞を読んでみてごらんなさい。ロシアのとある町 やアメリカのできたばかりの村の新聞とは、記事の事実内容が違う以外にほとんど差が見られ ない 46。(52)

当エッセイ『道化の舞台』は新聞等に掲載された記事や短編小説を単行本にまとめたも

のであるが、バローハは新聞という媒体をさほど評価していないようである。新聞等に発 表することは作者にとって最終的な目標ではなく、このように単行本化されてはじめて作 家の矜持を保てる、と言いたげである。そして、小説というジャンルが変化可能なもので あるという。すると、「根本的な変化」を見せれば、新聞記事が小説に化すことも可能と なる。実際に本エッセイでは、新聞に掲載した短編小説を挿入しフィクション性の高い記 述を行うことで、それを実践しているのである。したがってバローハにとってエッセイ は、浮浪者問題といった社会問題を議論する場というよりも、小説の可能性を広げるため のものなのである。