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ユーモア―破壊と創造-の源

第 2 章 「98 年の世代」の文壇

第二部 バローハのエッセイの特徴―そのフィクション性

4.3.4. ユーモア―破壊と創造-の源

第三部のタイトルは「ユーモアの源について」とある。やや抽象的な発言が続くが、先

に登場人物たちの会話にのぼったロシア革命を念頭に、「ユーモア」を「革命」に置き換 えて読むと分かりやすいと思われる。

ユーモアの一部は不協和や不適応から生まれる。(……)訳もなく現状に満足しているようで は、ユーモアは生まれない。ユーモアは怨恨を源とする。(……)ユーモアは新しい価値観を求 める。(……)またその根底には厚意と善意もなければならない(……)ユーモアが植物だとす れば、怨恨はその根であり、厚意や善意は支柱となる。(……)想像力は人生そのものよりも人 を消耗させ、精神を過度に高揚させた挙句に憂鬱に陥らせる。(……)この想像力と憂鬱がユー

132 バローハのエッセイには講演録も含まれる。

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モアに深く根付いているのである。ユーモアを有する人は、やや微熱体質といえる。逆に、冷 ややかで悠然とした人はレトリックを有している 133。(450-451)

最後に挙げた「冷ややかで悠然とした人」とは、オルテガ・イ・ガセーを指していると

とれる。バローハは、例えばロシア革命の勃発も、政治的にではなく、あくまで文学的に とらえ称賛しているのだが、このような発言はあくまで、社会から無理やりに隔離された 学者たちという架空の世界のなかだからこそ許されるのである。つまり、フィクション性 の導入は、エッセイであっても、作者バローハの真意を表明するために必要な設定であっ たといえる。さらに「ユーモアと民俗学」という章で、ヨーロッパ諸国を指しながら論を 展開するが、ここにも政治的な意図は感じられない。

またユーモアの源の一つとして、バローハは人間の心理の重層性を挙げる。ここでも

「ユーモア」を「新しい文学」と置き換えて読むことができる。

ユーモアの源のもう一つは、誰しもが持つ心理の重層性に光を当てることである。(……)例え ば、ハムレット王子は気まぐれで、作品『ドン・キホーテ』には悲喜劇が混在している。(…

…)これらは健常な状態での話で、病理学的には、バランスを失った精神の重層性を統合失調 症(精神分裂症)と呼び、早熟な若者によく見られる。ドストエフスキーこそが、この壊れて 底知れぬ心理を、力強く文学に描いたのである 134。(452-453)

ここでシェイクスピアとセルバンテス、ドストエフスキーに言及したことが、バローハ

の各国文学への評価を如実に表している。もちろん前出のディケンズも別の意味で、「笑 いと涙の入り交じった」ユーモアを有する作家である 135。けれどもバローハは、常に彼

133 “El humor viene, en parte, de la desarmonía y de la inadaptación. [...] La estupidez satisfecha es, naturalmente, antihumorista. Que una de las raíces del humorismo se alimente del rencor, [...] el humorismo busca principalmente valores nuevos. [...] En general, tiene que haber un fondo de humanidad y de benevolencia para que brote el humorismo. [...] Si el rencor es una de las raíces de la planta del humorismo, la simpatía y la benevolencia son dos de sus tutores. La imaginación nos gasta y nos consume a los hombres más que la vida. [...] La imaginación produce una temperatura espiritual exagerada que lleva a la melancolía. [...] La imaginación y la melancolía son raíces profundas del humorismo. El humor es producto de gentes un poco febriles; la retórica es de tipos fríos y retardatarios.” (450-451)

134 “Otra de las raíces del humorismo es un comienzo de desdoblamiento psicológico que existe en todos los hombres. [...] Así, Hamlet, el hombre, es humorista por su versatilidad, y lo es Don Quijote, la obra, por la intervención casi simultánea de lo serio y de lo cómico. [...] Esto en cuanto se refiere al estado normal, en el patológico, la unidad del espíritu se descompone aún más y se produce el desdoblamiento de la conciencia: la esquizofrenia, frecuente en la demencia precoz. Dostoiewski sic es el que ha llevado a la literatura con más fuerza esta clase de tipos de conciencia rota y de espíritu subterráneo.” (452-453)

135 ディケンズに関しては、例えば邦訳者の村岡が「彼の作品を特徴づける二つの点をあげるならば、人物 描写の巧みさとユウモアとである」という意味と同等だろうが、村岡はさらに「ディッケンズの人物の持 つ哀感(ペソス)は時としては余りにも芝居がかってくることもある」とも指摘する。(村岡訳、1984:136)

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らの作品の悲劇的な側面を評価してきた。また、彼らの国であるイギリス、スペイン、ロ シアについては次のように説明する。

明らかに、最もユーモアのある作品を生んだのはイギリスとスペイン、そして最近ではロシア である。スペインが小説というジャンルのモデルとなる作品を出し、イギリスがそのユーモア にさらに磨きをかけてきた。そこにロシアは新たに悲劇性を加えたのだ。(……)明らかにヨー ロッパ中で、イギリス人とスペイン人が最も社交的でなく、独りでいるのに向いている 136 (457)

この三ヶ国をバローハは「偏屈」であるとし、それに対して、より社会性があるものの

文学ではあまり見るもののないフランス、ドイツ、イタリア、スイス等は「均整」がとれ ている、と特徴づける。そして後者の国々はユーモアに欠けるため、サイネーテ(一幕喜 劇)や叙事詩に向いている、という。そしてこの「均等」と「偏屈」という気質の違い は、各国の気候や自然の豊かさ、土地の高度の影響を強く受けるともいう(457, 459,

461)。気候が穏やかで国土の勾配も少ない国は均等な気質が育ちやすく、そうではない国

は偏屈になりやすい、ということになる。そして前者では喜劇や叙事詩―この場合は狭義 の小説ではなく、荘厳な物語や劇を指す―の文学が発達し、後者のイギリス、スペイン、

ロシアではユーモアを擁する小説、つまり新しい小説が発達してきた。以上の論理を辿る と、ユーモアとは風土から生まれる国民性の賜物でもあり、小説というジャンルに適する 国とそうでない国がある、ということになる。

総じて新しい文学は、幸せに満たされた社会からは生み出されないようである。新しい

文学を生む土地は気候風土が厳しく、人々は孤独にこもりがちで、社会には不満が鬱屈し ている。その状態を打破するエネルギーをバローハは「ユーモア」という言葉に置き換え ているのである。この社会の状態を一種の「病」と称し、次のように結んでいる。

端的に言えば、ユーモアは前向きな行動の気力が失われ、内省に向かう時期に生まれるのだ。

あの『ドン・キホーテ』が現れたのは、スペインから[アメリカ大陸へ渡る]征服者はもう出なく なり、あの高揚感が失われていき、幻滅が広がろうとしていた時だったのだ 137 。(461)

136 “Indudablemente, los pueblos que han dado productos más altos de humorismo han sido

Inglaterra y España, y, modernamente, Rusia. España ha dejado una novela que ha sido el modelo del género; inglaterra ha continuado la tradición con una serie de obras, que ha amplificado el dominio del humor. […] Indudablemente, en toda Europa no hay hombres menos sociales, mejores para estar solos, que los ingleses y los españoles.” (457)

137 “Más aproximado sería decir que el humorista aparece en un momento de crisis en que las energías de acción se pierden y comienza la reflexión. Así apareció el Quijote, cuando España no daba ya conquistadores y la fiebre de acción iba remitiendo y venían los desengaños.” (461)

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バローハはスペイン黄金世紀の文学では必ずセルバンテスを挙げる。これは彼が打ち立

てた小説というジャンルを自身も継承しているからだと思われる。しかし同時代には奇知 主義も見られた。例えばグラシアンは、「読者に対して幅の広い教養と深い文学的セン ス、さらにはするどいユーモアの感覚と機知を要求してくる」(グラシアン、2011:

241)。バローハは本エッセイでグラシアンやケベードの名はセルバンテスほどは挙げない

ものの、変化の時代に則した文学は新しい表現と解釈を求めるという意味では、エッセイ 自体を奇知主義的に使い、新しい「ユーモア」という概念を示そうとしたと考えられる。

さらに時代を

1898

年に置き換えれば、「前向きな行動の気力が失われ(……)幻滅が広が ろうとしていた」時代に生まれた「98年の世代」の存在意義を表明しているともとれる。

しかし作者が主張するのは、グループとしての活動ではなく、あくまで伝統を刷新するよ うな新しい小説の存在意義なのである。