3. 1 はじめに
一人称代名詞の明示頻度が高いほど話者は事態を客観的に把握していると考えられ(池
上 2006a)、このような日本語話者の主観性は通時的に変化することが指摘されている(池
上 2012, 西光 2012)。そのため、『万葉集』から『古今和歌集』、『新古今和歌集』に
かけて一人称代名詞(以後、総称して<われ>とする)の頻度が減少しているという佐佐木 (2007)の結果から、西光 (2012)は上代が現代よりも客観的把握であった可能性があると述 べている。しかし, 中世までの変化から現代までの変化を推測しているため, 実際の変化 は明らかになっていない。
そこで本研究では、先行研究ではまだ明らかにされていない近世から現代までの<われ>
の明示頻度の変化を調べ、西光 (2012)の方法にしたがって<われ>の明示頻度が減ると主観 的把握へとシフトしたと判断し、日本語の事態把握が上代から現代にかけて主観的把握に シフトしたのか、客観的把握へとシフトしたのかを分析する。そして、なぜそのようにシ フトしたのかを社会的要因の観点から考察する。
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3. 2 主観的把握と客観的把握
同じ出来事でも、話し手が出来事をどのような視点から見るか、出来事のどの部分に焦 点を当てるかによって、同一の出来事でも認識される形はさまざまである。そして認識の 仕方が異なれば、当然表現形式も違ってくる。出来事をどのように認識し、どのように表 現するかは、異なる言語話者で違ったり、同一言語の話者であっても話者によって異なっ たりする場合もあれば、同じ話者でも時と場合によって異なることがある。このようなも のの見方の一つの類型として、<主観的把握>と<客観的把握>という別がある。池上 (2008b:3, 2011:52)によると、<主観的把握>とは話者が問題の事態の中に自らの身を置き、
その事態の当事者として体験的に把握する事態把握である。実際には話者が問題の事態の 中に身を置いていない場合であっても、話者は自らがその事態に臨場する当事者であるか のように体験的に事態を把握する。このような事態把握では、知覚者である話者の眼を通 して見られた情景だけを語る。このような、知覚する人物およびそのような人物が知覚し たという点は言語化せず、その人物が知覚した内容だけを言語化することを、Uehara (1998:285-286)では「出来事の知覚者抜きの記述 (perceiver-less description of events)」
(訳は池上 (2004:39)による)と呼んでいる。池上 (2004:39)はこのような描写の例とし て以下の(12a)、(12b)を挙げている。(下線は筆者による)
(12) a. 見上げると、門の屋根が、斜めに突き出した瓦の先に、重たく薄暗い雲
を支えていた。
(芥川龍之介『羅生門』)
b. その明くる晩も気になって覗きに行くと、依然として父は昨夜の通りに
していた。
(谷崎潤一郎『少将滋幹の母』)
(12a)では「門の屋根が、斜めに突き出した瓦の先に、重たく薄暗い雲を支えていた」と いう情景を、(12b)では「依然として父は昨夜の通りにしていた」という情景を見た(知覚 した)人物が言語化されていない。それは、これらの例のような<主観的把握>による描写 では、知覚者が知覚の原点となって、知覚者から見える情景のみを言語化するからである。
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一方の<客観的把握>とは、話者が問題の事態の外に自らの身を置き、その事態の傍観者、
ないしは観察者として客観的に事態を把握することである。実際には問題の事態の中に身 を置いている場合であっても、話者は(自分の分身をその事態の中に残したまま)自らは その事態から抜け出し、事態の外に身を置いて、傍観者、ないし観察者として客観的に(自 分の分身を含む)事態を把握する。池上 (2006)によると、日本語は<主観的把握>の傾向が 強く、英語は<客観的把握>の傾向が強いため、(12a)や(12b)を英語に訳すとその違いが浮 き彫りになる。以下の(13a)と(13b)は、池上 (2004:39-40) が提示した(12a)と(12b)の英語 訳である。(斜体は池上 2004:39-40と一部筆者による追加、下線は筆者による)
(13) a. Looking up, he saw a fat, black cloud impale itself on the tips of the tiles jutting out from the roof of the gate.
(T. Kojima 訳)
b. …but the next night curiosity came over him again, and again he went to look and saw his father as on the proceeding night.
(E. Seidensticker 訳)
これらの英語訳では、日本語にはない斜体部の(12a) “he saw”、(12b) “he…saw”という 知覚者をそれぞれ加えて表している。英語のような<客観的把握>の傾向にある言語の話者 は、このように知覚者である話者自身を外から眺め、言語化する傾向にある。
一方で、このような違いは日本語と英語のような言語間のみに見られることではない。
以下の短歌はどちらも万葉集の撫子の花について歌った歌であるが、(14a)は知覚者が出て こないのに対して、(14b)では知覚者である<われ>が言語化されている。
(14) a. なでしこがその花にもが朝な朝な手に取り持ちて恋ひぬ日なけむ
(大伴家持『万葉集』巻三(四〇八))
現代語訳:なでしこの花であなたがあればよいそうしたら毎朝手に取り
持っていとおしまない日とてないでしょう
(『新編日本古典文学全集』)
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b. 朝ごとに我が見る宿のなでしこの花にも君はありこせぬかも
(笠郎女『万葉集』巻八(一六一六))
現代語訳:毎朝わたしが見る庭のなでしこの花ででもあなたはあってくだ
さればいいのに
(『新編日本古典文学全集』)
これらの歌は、どちらも「あなたが私の傍に咲く撫子ならいいのに」という想いを歌っ た歌であるが、(14a)では「(あなたが)撫子なら…」と目の前に想像して見える撫子しか 歌っていないのに対して、(14b)では「(あなたが)毎朝私が見る撫子なら…」というよう に、撫子を見る自分自身が言語化されている。すなわち、同じ日本語話者の作者による短 歌ではあっても、(14a)は<主観的把握>であり、(14b)は<客観的把握>の歌である。なお、
上記の例(13a)、(13b)、(14b)ではいずれも「見る」までが言語化されているが、<客観的 把握>は知覚者が自身を外から見て言語化する事態把握であるため、「見る」が言語化され なくても<われ>が言語化されていることで<客観的把握>の指標となる。
また、主観的把握について池上 (2008:4)は以下のように述べている。
(15) このうちに相違ないが、どこからはいっていいか、勝手口がなかった。
この文章も、実は<主観的把握>に基づいて言語化されたものである。(中略)
主人公は事態を把握する<主体>であり、把握される<客体>としての事態の一部 ではない。従って自らの言語化の対象にはならない。主人公は自分自身の体験 の内容を誰かに伝達するという意図なしに独り言のように語っているのであ るから、自分自身を明示的に言語化する必要はないし、また、言語化しない方 が<主観的把握>に基づく文としては自然なのである。(中略)このように見て くると、日本語話者の特徴的な振舞いとしてしばしば言及される<主語>の省略 も、実は日本語話者における<主観的把握>の好みと密接に関係するということ に気づくであろう。
(池上 2008:4)
(15)の「主人公は自分自身の体験の内容を誰かに伝達するという意図なしに独り言のよ
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うに語っている」という点は短歌も伝達を目的としていない点で同様であり、自分自身を 明示的に言語化する必要のない主観的把握に基づく文学作品であることから、<われ>の非 明示が主観的把握に、明示が客観的把握にそれぞれ関わっていると考えられる。
3. 3 主観性の指標の使用の通時的変化
日本語話者は発話に際して、話し手の周囲にある様々な現象から言語化の対象とする事 態を取捨選択し、その事態─<見え>─を非分析的・主客合一的に捉える<主観的把握>を行 う傾向が顕著に観察される(池上 2000, 2006, 池上・守屋 2009, 守屋 2015)。この傾 向に伴い、日本語の発話には話し手や聞き手を客体化せず、独話的に語り出す傾向が見ら れるとともに、会話構成においては、主観の共有を目指す共同主観的傾向が見られ、終助 詞や感動詞などの言語形式として現れる(池上・守屋 2009)。一方で、そのように指摘さ れる日本語においても通時的に見れば、より客観的把握であった時代もあるようである。
佐佐木 (2007:42)は、<われ>の数(一人称代名詞である「わ」「あ」「われ」「あれ」の総 数)を『万葉集』、『古今和歌集』、『新古今和歌集』で数えた。その結果、<われ>は以下の 表9のように上代の『万葉集』で最も多く、中世の『新古今和歌集』で最も少ないという ことがわかった。
表 9 佐佐木 (2007:42)による『万葉集』,『古今和歌集』,『新古今和歌集』
における<われ>の使用の変化
<われ>の数 歌数 比率(%)
万葉集 1780 4500 39.5%
古今和歌集 140 1100 12.7%
新古今和歌集 160 1980 8.1% 2
(佐佐木 2007:42を一部訂正)
2 佐佐木 (2007:42)では0.08%とされているが, 計算上正しくは8.1%であるため訂正して示した。
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池上 (2006:277)によると、状況の<内>に身を置いて、自らがそれに関与し、経験してい る<主観的>な認識者として捉えるという場合は、認識の原点としての自分自身は言語化の 対象としては意識されない。これを<主観的把握>という。一方、言語化する状況を話し手 が<外>から観察し、報告する<客観的>な認識者の立場から捉える事態把握では話者は自分 自身を言語化する。これを<客観的把握>という。話者が自身を事態の中に身を置いて自身 の見えを描写する捉え方(主観的把握)であれば<われ>は言語化されない。西光 (2012) は、万葉集でこれが多用されその後中世にかけて減少したということは、上代の事態解釈 は現代よりも客観的把握であったのではないかと推測している。
また、佐竹 (1980:7, 22-24)では具体的な数字は出されていないが、『万葉集』では客 観的把握の指標である<見ゆ>、<聞こゆ>の使用が著しく多いのに対して、中古以降の和歌 集では万葉収載歌でさえも、以下の(16)の例のように歌末の「所見(みゆ)」がことごと くそれ以外の表現に変貌しており、これが衰亡の一路を辿ったと述べている。
(16) a. 朝露にしののに濡れて呼子鳥三船の山ゆ鳴き渡る所見
(『万葉集』巻十, 一八三一)
b. あさ露にしとゝにぬれてよふこ鳥かみなひ山に鳴わたる也
(『陽明文庫本夫木和歌抄』第五, 喚子鳥)
(佐竹 1980:7)
池上 (2006)によると、日本語において「見る/聞く」ということは、自らの意図に従っ
て行動することであり、人間は<動作主>として認識されている。対して「見える/聞こえる」
ということは、人間は刺激の<到達点>として認識され、「見る/聞く」とは違った構文で表 現される。そのため、西光 (2012)は、話者の見ている状況のみを描写した以下の(17b)の 方が、「見える」という知覚動詞によって見ている主体の存在が含意される(17a)よりも主 観的把握であると述べている。