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生涯理科の提唱

 これまで、現代の児童を取り巻く今日的課題と低学年理科の歴史的変遷に ついて述べてきた。そして、その中で以下の事が明らかになった。

①児童そのものが変容しており、教育の在り方が問われていること    児童を取り巻く、家庭・社会・自然環境…等の変化に伴い、児童   そのものが変容している。特に、直接経験の不足、探求能力の低下、

  自然離れにその傾向は顕著であり、このような時代的要請に応じた   教育の在り方が問われている。

②小学校低学年に於いて自然科学の教育が可能であること

   既存の自然科学の体系の伝達的教授:は困難であるが、児童の発達   特性を考慮したカリキュラムの編成と舜切な指導が為されると言う   前提条件下で小学校低学年に於いても自然科学の教育は可能である。

③小学校低学年に於いて自然科学の教育が必要であること

   小学校低学年と言う主客未分な発達段階には、その後の理知的な   発達段階では困難な直観的学習が可能である。従って、この時期に   知情意一体となった学習をさせることが肝要である。

 本章では、この様な低学年教育の問題点を踏まえ、本研究の中心的な概念 である『生涯理科』について提唱する。

教育の目的は一体何であろうか?

子供をいかに陶冶し、いかなる人間に為さしめるのだろうか?

 『第ll章・4節・5』の中で、我が国の教育思潮が実質陶冶と形式陶冶と いう相反する目的の間で、振り子の様に揺れ動いてきたことについて述べた。

教育理論は時代の流れの中でこのような目的論争を繰り返すことにより成立 してきた訳であるが、教育目的について論ずる際に、果たして形式陶冶とか 実質陶冶とかの論争だけで充分だと言えるのであろうか? 教育には時代の 流れに左右されることのない、普遍的かっ本質的な、より高次な目的がある のではなかろうか?

 以下では、 『生涯理科』を構想する前提条件として教育思想史と教育法規 を調べ、教育の根源的な目的について模索する。

1.教育思想史の視点から

 教育思想史に登場する先人の言葉は、幾多の時代的変遷の中で淘汰を受け 生き残ったものであり、現代の教育に対しても多くの示唆を与えてくれるも のであろう。以下では、これら先人の書物の中から教育目的に関わる思想を 取り上げ、共通性を論い出しながら、より高次な目的に迫っていく。

      一 34 一

①ルソー(Jean−Jaques, Rousseau 1712〜1778)

 ルソーは、18世紀フランスの代表的な啓蒙思想家であり、近代社会と 近代教育の思想的源流として、大きな影響を与えてきたことで著名である。

彼の教育思想は、主観的自然主義に立脚じており、児童中心の直観教育を 主張している。そのようなルソーの教育に関する主著である『エミール』

には、以下の記述が見られる。

 自然の秩序においては、人間はすべて平等であって、その 共通の天職は人間という身分につくことである。この人間と

いう天職のためによく教育された人であれば誰でも、何であ れ人間にとって必要なことをやってうまくできないというは ずはない。私の生徒が将来軍人になることになっていようと、

僧侶あるいは弁護士になることになっていようと、そんなこ とは私にはちっとも問題ではない。自然は子どもが親の職業 を学ぶことよりも、まずもって人間としての生活を学ぶこと を要求している。生活すること、これこそ私が子どもに学ん でほしいと思っている仕事である。(n6》

 このように、ルソーは人間の共通の天職は人間という身分につくことで あり、いかなる職業的・六宮的な教育よりも、まず人間としての教育が重 要であるということを説いている。即ち、合自然の人間形成こそが教育の 究極の目的であり、職業的・専門的な教育は単なる下位目標に過ぎないと

いうことを示唆している。

②フレーベル(Friedrich Wilhelm Au g u s t, F r. O b e 11782〜1852)

 フレーベルは幼稚園(Kindergarten)を創設し、生涯を通して幼稚園教育 の整備と発展に尽力したドイツの教育実践家である。その著書には『母の 歌と愛撫の歌』『幼稚園の教育学』『カイルハウ小論文集』などがあるが、

主著『人間の教育』には以下の記述が見られる。

 学校とは、生徒自身の本質及び内部生命を生徒に認識させ、

臼覚させようとして努力するところである。事物相互の内面的 な関係、人間、即ち生徒に対する事物の内面的な関係、万物の 生き生きとした根拠、万物の自明の統一、即ち神に対する万物 の内面的な関係を知らせ、自覚させるよう努力するところであ

る。〈47)

 精神のみが学校を学校たらしめ、教室を教室たらしめる。

 全く際限も知らず、常に新たな解体と分化の根拠を提起する ところの、既にそれ自身個別的なものを更に一層解体し、分化 することではなくて、あらゆる個別なるもののなかに生きてい る精神、即ち統一的精神に注意し、その精神を直観し認識する ことによって個別なるもの及び分割されたものを統一すること、

これこそ学校を学校たらしめるものである。多様なもの、種々 雑多のものをそのままやたらに教え、伝授することが学校を学 校たらしめるものではなくて、万物の中にあって永遠に生命を もちつづける一者を明らかにすることこそ、学校を学校たらし めるものであるというこどを決して忘れないがいい。〈州        一 36 一

 フレーベルがこの著述の中で主張していることは、具体的な知識体系の 伝達それ自体が教育の目的ではなく、その底流にある精神の直観的な認識

こそが教育の唱的だということである。そして、この精神の直観的認識の 最も核心となる対象は自己の本質及び内部生命であると彼は述べている。

その意味から、教育の目的は人間が彼を取肱巻く世界との関係を認識する ことであると言えよう。

③ベイリー(Liberty ilyde Bailey 1858−1954)

 ベイリーは、今世紀初頭に米国コーネル大学を中心に生じた自然科運動 の中心的指導者である。自然科(Nature−Study)とは自然の中での子供の 自己活動を基本とした開発主義教育のことであり、実物教授や直観教授の 原理的な源をペスタロッチ主義教育に行い出すものである。彼はその主著

『自然学習の思想』の中で自然科の目的について以下のように述べている。

 自然を学ぶには、次の二つの目標のどちらかによるのである。

 即ち、人類の知識の量を増やす目的で新しい真理を発見する ためか、生徒の生活のよろこびを増す目的で彼の自然に対する 共感的な態度を育てるためかのどちらかである。前者は、専門 的に行われようが初歩的であろうが、科学を教える運動なので あり、その目指すところは、研究者・専門家を作ることなので ある。これに対し後者は自然学習であり、その目的は、すべて の人が、その職業のいかんをとわず、内容のより豊かな生活を

し得るようにすることである。く49》

 ベイリーの主張する自然学習(Nature−Study)

対比し、整理すると下表の様になる。

と科学を教える運動とを

表9 ベイリーの自然学習と科学を教える運動の対比

科学を教える運動 自然学習(Nature−Study)

対象

研究者・専門家 職業の如何を問わず全ての人

目 的 人類の知識の量を増やす 生徒の生活の喜びを増す

目 標 新しい真理の発見 自然への共感的態度の育成 人間像 研究者・専門家の育成 内容の豊かな生活のできる人

 この表から分かるように、ベイリーは専門家を育成する教育と一般市民 の教育とを分けて考え、一般市民を対象とする普通教育に於いては豊かな 生活の実現にこそ教育の存在意義があると示唆している。このように国家 社会の教育目的と国民一人ひとりの教育目的とを分離して考察することは 教育の主体を考える上で意味のあることであろう。

④クレイグ(Gerald S, Crajg l893〜)

 クレイグは、ベイリー同様20世紀初頭の自然科運動の中心的指導者で ある。当時、米国の自然科運動の中心はコーネル大学とコロンビア大学に あったが、クレイグはコロンビア大学での指導的立場にある教授であった。

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 人間はやすむことなく新しい発見をなし、古い知識を新しく していくものである。従って現代においては、絶対的に正確な、

実相をつかむことは難しい。だから学校教育においても、永久 に正確不変であるようなものを教えることはできないというこ とになる。 (中略)そこでわれわれのできることは、われわれ の学習していることは、痴る一定の時に得られる最善の解釈で あって、これは将来変わるかも知れないということをはっきり

させておくことである。(50)

 クレイグは上述の様に、既成の学問体系が普遍的又は絶対的なものでは なく、科学史に於いて相対的存在であり、今後も変容する可能性を持った

ものであることを指摘している。そして、現段階での学問体系を過信して 知識の伝達に教育の目的を見い出だす者に警鐘を鳴らしているのである。

 小学校における科学教育の役割は、子供たちに対して徒らに 岩石の名を覚えさせたり動物や植物についていろいろの知識を 覚えさせたりするよりももっと基本的なものである。 (中略)

教師は、宇宙の森羅万象を通して、その背後にある子供が上手 に人生に参加して行くために知っていなければならぬ重要な問 題に考慮を払うべきである。事件や事物は科学の意義を解説し、

それを発展させるに役立ち、問題解決を助けるであろう。しか し、生きたカリキュラムにおいては、それ自体に目的があるの ではなく、それは更に大きな目的に達する手段であるといって よい。(5D

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