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環大西洋世界経済の成立―資本主義の成立 373 第1節 「環大西洋世界経済」 (環大西洋経済圏)の構造

ドキュメント内 はじめに (ページ 93-101)

資本主義経済は、①労働生産物が全面的に商品化するばかりではなく、②それを生産する労働力 も商品化することによって成立する。商品はマルクスが指摘したように共同体の余剰生産物の交換 からはじまり、古代にも商品経済は部分的に存在していたが、資本主義経済の成立・確立によって 全経済の支配的な形態(富の細胞・要素形態)となった。商品経済化の世界的な動力は、大航海時 代の開始とともに大西洋圏を中心として外国貿易(世界商業)であった。それによって国際的分業 が外国貿易によって結びつけら、逆に国際分業化が促進されていった。こうした世界的な商品・貨 幣経済化はヨーロッパの封建制の解体を促進した374。この封建制の解体過程は、生産者を封建的身 分関係から解放した。それとともに、生産者は土地(自然)という生産条件から分離され、生産手 段と資金をもつ階級(資本家階級)に労働力を売り、その代価としての賃金によって生活せざるを えなくさせられていった。この労働力の商品化こそ資本主義成立のメルクマールであり、歴史的に は本源的蓄積(原始的蓄積)によって形成されていった。それは世界商業の発達によって国内的に 促進されたから、時期的には16世紀ごろからはじまっていった。

だがこの時期の世界全体が商品関係によって全面的に結びつけられたのではない。世界経済の成 立をこの時期に求める見解もあるが375、まだ商品経済化していないトルコやアジアやロシアのよう な外部世界が存在していたから、大西洋圏を中心とした「環大西洋世界経済」と呼んでおこう。世 界の隅々が商品経済化するのは、産業革命後の機械制大工業によって生産されたイギリス綿製品の 輸出によるから、世界経済が成立するのは18世紀後半から19世紀にかけてである。

第1項 世界商業のヘゲモニーの推移

世界にいち早く進出したのはポルトガルとスペインであった。極東の日本の種子島に鉄砲を持っ てきたのは、中国と日本の貿易を仲介していたポルトガル人であった。キリスト教の宣教と交易を 求めてメキシコから鹿児島に上陸したのはスペイン人のフランシスコ・ザヴィエルである。彼らを 当時の日本人は紅毛人と呼んだ。アダム・スミスが『国富論』で叙述しているように、地理上の発 見(アメリカ大陸・1492年、喜望峰航路・1498年)はヨーロッパに商業革命をもたらし近代工業 を促進したが、東インド貿易(ポルトガルのリスボンが中心)と西インド貿易(スペインのセビリ ヤ・カディスが中心)が飛躍的に拡大し、両貿易をめぐる国際商業戦の帰趨が世界貿易の覇権を決 定した376

ヨーロッパの商業革命は毛織物工業の勃興によってはじまったが、それ以前の中世末期の毛織物 工業の中心地はイタリア諸都市(ベネチア中心)であった。「東洋の物産」として輸入された商品は 香料(胡椒が代表的)、熱帯産食物・果実(砂糖)、染料、奢侈的織物であり、ヨーロッパからエジ プトのアレクサンドリア経由で東洋に輸出されたものは、貴金属(主として銀)、銅などの鉱産物、

麻織物、穀物、木材、武器、珊瑚・真珠・宝石、奴隷などであった。そして銀・銅は南ドイツの鉱 山から供給された377

東インド航路発見によって東インド貿易の覇権を最初に掌握したのはポルトガル商人であり、ポ ルトガル王室の庇護下でリスボンを中心として、胡椒と銀との交換が代表的になった。銀を供給し た南ドイツ巨商たち(フッガー家の時代)は次第に金融業者化し、新たに南ネーデルランドのアン トウェルペンが台頭してきた378。ポルトガルが最初に海外進出した理由は、大航海時代に有利な 地政学的条件に恵まれ、海外に進出しようとする意欲と能力のある人材に恵まれていたことだろう

373 本章は、拙稿「資本主義の発展段階(1)」のⅡを加筆・修正した。

374 新田滋は、遊休貨幣資本の過剰化した部分(投資の捌け口のない部分)が高利貸し資本化し土地 集積に向かったことが共同体社会に分解作用を与えた、としている(「<広義の段階論>序説―「資 本主義」の超長期的循環と「資本主義社会」の生成・発展―」『グローバル資本主義と段階論』305 頁。

375 イマニュエル・ウォーラスティン著、川北稔訳『近代世界システム』1、岩波書店、1986 年、の2、参照。

376 大塚久雄『近代欧州経済史序説』(改訂版)岩波書店、1981年、5頁。

377 同上書、10~15頁。

378 同上書、19~25頁。

379

しかしポルトガルの支配はアジアでは、中国のインド洋への進出が中断されたことによる軍事的・

政治的空白を利用したものであり、アジア社会にはほとんど影響を与えず、また世界帝国を形成す るものではなかった。

新たに展開された新大陸貿易(西インド貿易)の覇権を握ったのは、スペイン王室の庇護下のセ ビリヤ商人ギルドを主軸としたスペイン商人である。自国産の毛織物を輸出して新大陸から銀・

金を獲得し、東インド貿易に使った。スペインは中南米における植民地的な強制賦役労働によって 銀・金を搾取したが、シルバー・ラッシュは本国工業(毛織物)の販路を開拓し、毛織物工業が国 民的産業になった。同時に価格革命を引き起こし、やがて南ネーデルランドとイギリスの毛織物が セビリア商人によって新大陸に輸出されるようになっていった380。またスペインの中枢都市はセビ リアから南ネーデルランドのアントウェルペンに移った。

しかし東インド貿易と西インド貿易はその性格が異なり、したがってその後のヨーロッパの工業 化に違った影響を与えた。すなわち、「東インド貿易に覇を制するためには何よりも貴金属、とくに

『銀』の供給を確保することが必要であるように、新大陸から流入するあの豊富な『銀』を自己の 支配下に置くためには、結局、諸種の工業生産物、とくに『毛織物』を豊富かつ廉価に供給しえな ければならなかった。そしてまたこの点から東インド貿易に対比して新大陸貿易の持つ特質もおの ずから明らかとなる。すなわち東インド貿易がそもそも仲立ち商業の性格を具え、のちになるほど それが顕著となってゆくのに対して、新大陸貿易は工業生産物の広大な販路を提供することによっ て、西ヨーロッパ諸国における工業生産の発達と緊密な関連をもちつつ展開していったのである。」

381。新大陸貿易を補完したのは「三角貿易関係」(ブラジルの金、アフリカ西海岸からの金と奴隷、

新大陸の「プランテーション」)であり、東インド貿易を補完したのは地中海沿岸貿易・バルト海沿 岸貿易であり、新大陸銀に依存しそれを東インド貿易に回した382

スペインは、中南米を侵略してインカ帝国を滅ぼし、莫大な金・銀を手に入れヨーロッパに持ち 帰ったが、ヨーロッパ大陸にも版図を拡げ一大帝国を実現した(ハプスブルグ帝国)。アントウェル ペンは1530年代以降、大西洋貿易とヨーロッパ縦断貿易の結節点であり、金融の中心でもあり、

「熱病的な資本主義ブーム」が発生した。しかしスペインには巨大な政治的・軍事的帝国を支える だけの産業が成長しなかった。金融は外国人の支配が強く、産業保護政策を採らなかった。スペイ ンはポルトガルを合併し(1580年)、東西貿易を統一しようとしたが、「アカプルコ貿易」や台頭す るオランダ・イギリスに対抗できなかった383

南ネーデルランドでは農村工業として毛織物工業が勃興し、原料をイギリス産羊毛からスペイン 産羊毛に変え、イギリス産毛織物を仕上げ直接スペイン向けに輸出した。そのために1570年ごろ からスペイン毛織物工業は衰退し、南ネーデルランド産・イギリス産の毛織物を西インドに輸出す る仲立ち商業化していった384。そのために軍隊と官僚を維持していく費用の重圧に悩まされ、経済 的にスペインは衰退に向かった385。政治的・軍事的にも、ネーデルランドの反抗機運が増大し、ネ ーデルランドおよびイギリスとの「海上ゲリラ戦」やイギリスの海賊船に敗れ、アントウェルペン の陥落(1585年)はスペイン・ポルトガルの経済的中枢に打撃を与え、南ドイツ巨商たちに最後の とどめをさした。

第2項 ヘゲモニー国家オランダ

オランダとイギリスは、スペインの「無敵艦隊」を撃滅し東インド貿易を実質的掌握し、密貿易 と海賊船によりスペイン銀船団を壊滅させ新大陸貿易を完全に掌握し、スペインとポルトガルの独 占圏を奪取し世界商業覇権への道を歩みはじめた。スペインからの独立戦争後、事実上の連邦にな った南ネーデルランドの遺産を継承しヘゲモニー国家オランダが出現した。

オランダの生産力基盤は毛織物業であり、アムステルダムは世界貿易の核であるばかりか海運や 資本市場の中心となった。オランダがヘゲモニー国家となった背景には、①ネーデルランド革命(ナ

379 イマニュエル・ウォーラースティン『近代世界システム』Ⅰ、54頁。

380 大塚久雄『近代欧州経済史序説』27~39頁。

381 同上書、41頁。

382 同上書、48~51頁。

383 同上書、54頁。

384 同上書、58~63頁。

385 イマニュエル・ウォーラースティン著、川北稔訳『近代世界システム』Ⅱ、岩波書店、1986 年、12-27頁。

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