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道徳性の自律の理性的根拠づけの可能性

ドキュメント内 著者 藤森 寛 (ページ 151-166)

第 4 章 道徳性の根拠と理性的人格の道徳的アイデンティティ 136

4.2 道徳性の自律の理性的根拠づけの可能性

『道徳形而上学の根拠づけ』第三章では、「自律的道徳性」の「理性の自律」にもとづく 根拠づけがこころみられる。これに先立つ第二章の最後では、「いつしか広く一般に通用 している道徳性の概念の分析」(Kant 1785, IV 445)によって摘出され、前提されていたに 過ぎない「定言命法」が、この「正当化の原理」と結びついている「意志の自律」ととも に、「ア・プリオリな綜合的・実践的命題〔強調原著〕」(Kant 1785, IV 444)として、「どの ように可能か〔強調原著〕」(Kant 1785, IV 444)と問いが立てられる。カントは、この問

とがある。西欧良心概念の歴史、ならびにルターとカントの良心概念については、拙稿「ルターとカント の良心概念」(Societas Philosophiae Doshisha編『同志社哲学年報』第21(1998)所収)を参照のこと。

いを解くことで、定言命法に道徳的要請の権威を付与し、定言命法を根拠づけるといい、

自律的道徳性を理性の自律のもとで根拠づけようとする(4)

カントによれば、「意志(Wille)」は、生命をもつ理性的存在に帰属するある種の「原因 性」である。そして「自由」は、外的被規定性から独立に作用することができるという特

性である(Kant 1785, IV 446)。むろん、自由に関するこの説明は「消極的」である。そこ

で自由を「積極的」に説明すれば、自由は、「自分が自分自身に対して法則である」(Kant

1785, IV 447)ことを意味する。自由は、必然的な自然法則による被規定性からの独立だ

けを意味するのではない。自由は、「自分が自分自身に対して法則である」ことも意味す る。自由もひとつの原因性として、「不変の法則」(Kant 1785, IV 446) に従属するからで ある。

それゆえカントは、「意志の自由」を「自律」と規定する。「意志は、すべての行為にお いて自分自身に対して法則である」(Kant 1785, IV 447)とみなされる。そしてこの命題 は、「汝の格律が普遍的法則となることをこの格律によって同時に意欲できるような格律 にしたがってのみ行為せよ〔強調原著〕」(Kant 1785, IV 421)と定式化された定言命法、す なわち「道徳性の原理(Prinzip der Sittlichkeit)」を表現したものに他ならない(Kant 1785, IV 446-447)。自由な意志は、道徳法則に従属する意志なのである(Kant 1785, IV 447)。

こうして意志の自由が前提されれば、自由の概念を分析するだけで、「道徳性」が「道 徳性の原理」とともに導出される(Kant 1785, IV 447)。カントによれば、人間を含むあ らゆる理性的存在にも、同じ意志の自由を認める十分な根拠が必要である (Kant 1785,

IV 447-448)。それゆえ道徳は、すべての理性的存在に対して法則となる(Kant 1785, IV

447-448)。

したがって道徳は、人間を含むあらゆる理性的存在に妥当しなければならず、同時に自 由という特性のみから導出されなければならない。あらゆる理性的存在の意志の特性とし て、自由が示されなければならないのである(Kant 1785, IV 447-448)。

ここから『道徳形而上学の根拠づけ』では、「自由の理念のもとでしか行為し得ない存 在は各々すべて、まさにそれゆえに実践的見地において実際に自由である〔強調原著〕」

(Kant 1785, IV 448)と主張される。「自由の理念」のもとでしか行為し得ない存在には、

自由と不可分に結びついているすべての法則が妥当するのである(Kant 1785, IV 448)。 そこで私たちは、意志をもつあらゆる理性的存在が「自由の理念」をもち、この理念の もとでのみ行為することを認めなければならない。意志をもつあらゆる理性的存在が、対

(4)ヘンリッヒによれば、『道徳形而上学の根拠づけ』で「普通の道徳的認識」から出発するカントは、道徳法 則の意識という理性の「事実性(Faktizität)」から出発している(cf. Henrich 1975, 58)。ヘンリッヒのこの 解釈を筆者も共有している。

象に対して原因となる「実践理性」をもつと考えられるからである(Kant 1785, IV 448)。 したがって自分の判断について、それが自分の判断であるという意識をもちながら自 身の外部に導きを求める理性を考えることができないように、「理性は、自分以外のもの の影響から独立して、自分自身を自身の原理の創始者であるとみなさなければならない」

(Kant 1785, IV 448)。理性は、「実践理性」として、自分自身を自由とみなさなければなら

ない。

カントによれば、「ある理性的存在の意志は、自由の理念のもとでのみこの理性的存在 自身の意志であることができ、それゆえ実践的見地においてこの意志は、すべての理性的 存在に付与されなければならない」(Kant 1785, IV 448)。ある存在が理性的で「行為に関 する自身の原因性」をもつと考えるのであれば、「自由の理念」を前提せざるを得ないと いうのである(Kant 1785, IV 448-449)。

それゆえ、自由の理念のもとで「行為の法則の意識」、すなわち「定言命法」の意識が解

明される(Kant 1785, IV 449)。「行為の法則」は、「行為の主観的法則、すなわち格律がい

つでも客観的にも、すなわち普遍的にも法則として妥当し得るように、したがって私たち 自身の普遍的立法に役立ち得るように選び取られなければならない」(Kant 1785, IV 449) という法則である。

カントの理解では、「しなければならない」という当為の意識は、「本来的」には、各々 すべての理性的存在の「したいという意欲(Wollen)」として、「自由の理念」のもとで説 明される。

「なぜならこの当為はもともと、理性が各々すべての理性的存在において〔意欲の〕障害 物がなくそのままで実践的であるなら、各々すべての理性的存在に妥当する『意欲』であ るからである〔括弧内引用者〕」(Kant 1785, IV 449)。

むろんカントのこれまで議論は、自由の理念のもとで「道徳法則」を前提しているだけ であり、道徳法則の「実在性(Realität)と客観的必然性(objektive Notwendigkeit)」を「そ れ自体で証明する(für sich beweisen)」ものではない(Kant 1785, IV 449-450)。「私たちの 格律の普遍的妥当性が、法則の普遍的妥当性として、なぜ私たちの行為を制限する条件で なければならないか」(Kant 1785, IV 449)といった問いに対する十分な解答を与えていな いからである。カントの議論は、道徳法則が権威と拘束力をもつ理由を十分に解明してい ないのである。

そもそも自由の理念のなかに道徳法則を前提するカントの議論は、ひとつの循環論法で

ある(Kant 1785, IV 450)。自分自身が道徳法則のもとにあると考えるために自分自身を自

由であると想定したうえで、自分自身に意志の自由を帰したがゆえに自分自身が道徳法則 に服従するとみなされているからである(Kant 1785, IV 450)。

むろん、この循環から抜け出す途が示される。一方「叡知界」(Kant 1785, IV 454)に、

他方「感性界」に属するという二重の地位をもつ「有限な理性的存在」としての人間存在 の理解が、カントの解決である(Kant 1785, IV 450-453)。

「私たちが自分自身を自由であると考えるとき、私たちは、自分自身を悟性界における構 成員の立場で考え、意志の自律をその帰結である道徳性とともに認識するが、しかし私た ちが自分自身を義務づけられていると考えるとき、私たちは、自分自身を感性界に属しな がらも同時に悟性界〔叡智界〕に属しているとみなす〔括弧内引用者〕」(Kant 1785, IV 453)。

それゆえ定言命法は、「ア・プリオリな綜合的・実践的命題〔強調原著〕」(Kant 1785, IV 444)として可能になる (Kant 1785, IV 453-455)。自由の理念は、私たちが自分自身を悟 性界の一員とみなすことを可能にする。仮に私たちが悟性界にのみ属するのであれば、私 のすべての行為はつねに、意志の自律にしたがうことになる。だが、私たちは同時に、自 分自身を感性界の一員としても「直観」する(Kant 1785, IV 454)。それゆえ私のすべての 行為は、意志の自律にしたがう「べき」ものとなる(Kant 1785, IV 454)。

カントにしたがえば、この「定言的なべし〔強調原著〕」が「ア・プリオリな綜合命題」

を表象可能にする(Kant 1785, 90)。感性的欲求の支配下にある私の意志に、それと同一な しかし悟性界に属する純粋なそれだけで実践的な意志の理念が、付け加わるからである

(Kant 1785, IV 454)。この純粋な意志は、感性的欲求の支配下にある私の意志に対する断

定的命令を含んでいるのである(Kant 1785, IV 454)。 したがって、以下のように結論される。

「それゆえ道徳的当為〔すべき〕は、叡知界の構成員としての〔人間存在に〕固有な必然 的意欲であり、彼が自分自身を同時に感性的世界の構成員とみなす限りにおいてのみ、こ のひとによって当為〔すべき〕として考えられる〔括弧内引用者〕」(Kant 1785, IV 455)。

むろん、カントのこの議論は満足のゆくものではない(cf. Larmore 2008, 106-107)。こ の議論は、私たちが定言命法を採用するかどうかが、自由を付与された叡知界の構成員と 自分自身をみなすことを私たちが意欲できるかどうかにかかっていることを意味するから である。そしてこの議論によって、道徳法則に対して人間存在がもつ「関心〔強調原著〕」

(Kant 1785, IV 459)、それゆえ「道徳的動機」を経験に与えられた何かあるものとして理 解することが不可能になる。私たちは、経験の対象になることのできない自由の理念が、

どのように経験的影響を生み出すのかを知ることができないからである。道徳法則に対す る関心、したがってまた、「道徳的感情」は、道徳法則が意志に影響を及ぼした「主観的 結果」に過ぎないのである(Kant 1785, IV 459-461)。

「それゆえ法則としての格律の普遍性、したがって道徳性がどのようにまたなぜ私たち の関心を喚起するかということの説明は、私たち人間には完全に不可能である〔強調原 著〕」(Kant 1785, IV 460)。

最終的にカントは、人間としての私たちに妥当するから道徳法則が私たちの関心を喚起す ると説明せざるを得ない。道徳法則が私たちの関心を喚起するのは、それが、私たちの関 心を喚起するからではなく、人間としての私たちに妥当するからである。「それ〔道徳法 則〕は、叡知的なものとしての私たちの意志、したがって私たちの本来的自己から生じた ものだからである〔括弧内引用者〕」(Kant 1785, IV 461)と主張することしかできないの である。

「定言命法がどのようにして可能であるか」(Kant 1785, IV 461)という問いには、定言 命法がそのもとでのみ可能になる唯一の前提である「自由の理念」の「必然性」を私たち が理解している限りにおいて解答できる(Kant 1785, IV 461)。

「しかしこの前提自体〔自由の理念〕がどのように可能であるかは、人間の理性を通じて は、一度として洞察され得ない〔括弧内引用者〕」(Kant 1785, IV 461)。

したがってカントの理解するところ、残された可能性は、「叡知界」(Kant 1785, IV 462) の理念のもとで道徳法則に対する関心を解明することである(Kant 1785, IV 461-463)。叡 知界の理念は、「目的そのもの(理性的存在)の普遍的な国という高貴な理想〔強調原著〕」

(Kant 1785, IV 462)を通じて、道徳法則に対する関心を私たちに喚起するはずのもので

ある。だが、「すべての叡知的なものの全体」としての「純粋悟性界の理念」(Kant 1785, IV 462)は、「道徳に関するあらゆる探究の究極の限界」(Kant 1785, IV 462)を超えている (Kant 1785, IV 462-463)。

自分自身を純粋悟性界に「入れて(hinein)」「考える〔強調原著〕」限り、人間理性は、

その限界を超えることはない(Kant 1785, IV 458)。この考え方は、意志を規定するどのよ うな法則も理性に与えることのない感性界にとって、単に否定的な考え方に過ぎないから

ドキュメント内 著者 藤森 寛 (ページ 151-166)