第 2 章 道徳的観点の再構成 35
2.4 理性的人格の実践的判断力
善き生と生活の理想を構築し、この理想をあらゆる生活の領域と局面で実現しようとす る「一般的で包括的な見解」(Rawls 1993a, 13)の多様性によって、現代社会が特徴づけら れるなら、正義の諸原理が中立的に正当化されるだけでは十分でない。すなわち、いかな る包括教説も前提しないという意味で中立的に正義の諸原理が正当化されるだけでは十分 でない。正義の諸原理は、「他のひとびとが理性的に拒否できないであろう根拠」(Rawls 1993a, 49-50 n. 2, Scanlon 1982, 138)という意味で共有可能な根拠にもとづいて正当化さ れなければならない。正義の諸原理は、包括教説の受け入れに依存しない「無条件的・義 務論的妥当性」をもたなければならないのである。
私たちが、「他のひとびとが理性的に拒否できないであろう根拠」のもとで自分の行為 を正当化したいという「欲求(desire)」をもつなら、各々の包括教説の「倫理的観点」の
「内部から」(Rawls 1985, 411)の是認に依存しない、正義の諸原理の「独立」した正当化 が可能になるはずである。スキャンロンが構成主義の立場から主張するような「欲求」を 私たちがもつなら、正義の諸原理の独立した正当化が可能になるはずである(22)。
スキャンロンは、以下のように定式化された「動機づけの源泉(source of motivation)」 を私たちに想定する。
「ある行為が〔道徳的〕悪であるという信念によって直接引き金が引かれる〔道徳的〕動 機づけの源泉は、他のひとびとが理性的に拒否できないであろう根拠のもとで自分の行為 を彼らに正当化できるようにありたいという欲求である〔括弧内引用者〕」(Scanlon 1982, 138)(23)。
「道徳的衝突と政治的正当性(Moral Conflict and Political Legitimacy)」と題されたネー
ゲル(Thomas Nagel)の1987年の論文では、自由主義社会の規範的原理の「倫理的」に
「中立的」な正当化の可能性が考察される。ここでは、ロールズの議論が、動機づけの源 泉を定式化したスキャンロンの議論とともに取り上げられる。この論文では、後にスキャ
(22)スキャンロンが構成主義の立場を採用している点については、スキャンロンの1982年の論文の該当する 箇所(Scanlon 1982, 125-126)を参照のこと。
(23)スキャンロンによれば、「動機づけの源泉」の定式化における「理性的に(reasonably)」という条件は、
「〔私と〕同じように動機づけられた他のひとびとの理性的に拒否できないであろう〔道徳〕諸原理を見出 したいという欲求〔括弧内引用者〕」(Scanlon 1982, 138 n. 12)を前提している(cf. Scanlon 1982, 138, 138
n. 12)。なおこの条件については、第四章第四節で考察している。
ンロンの動機づけの源泉を「道徳的動機づけの原理」として以下のように再定式化する ロールズの議論とともにスキャンロンの議論が取り上げられ、ロールズの「第一原理」の ような道徳規範の倫理的に中立的な正当化の可能性が考察されるのである(Nagel 1987, 221-222)。
「私たちは、他のひとびとが理性的に拒否できないであろう根拠のもとで自分の行為を彼 らに正当化できるようにありたいという基本的欲求をもつ‐理性的にというのは、すなわ ち、理性的に拒否できないであろう諸原理を見出したいという欲求を、同じく動機づけら れた他のひとびとに前提してということである」(Rawls 1993a, 49-50 n. 2)。
ネーゲルの議論の出発点にあるのは、あるカトリック信者の事例である。他のひとびと の本当の意味での幸福のために、自分の信仰を他のひとびとに法的・政治的に強制しよう と考えながら、同時に他のひとびとの「信仰の自由」を尊重すべきと考え、思い悩むカト リック信者の事例をネーゲルは取り上げる(Nagel 1987, 225-227)。
「彼は、自分の現在の宗教的価値の不偏不党な適用と、彼もまた保持している、他のひと びとの宗教的確信が彼自身に強制されることを望まないというより一般的な価値の不偏不 党な適用のあいだで引き裂かれているであろう〔強調引用者〕」(Nagel 1987, 225)。
ネーゲルによれば、信仰の強制は、他のひとびとに彼らが共有できない信念を強要す ることである (cf. Nagel 1987, 224-225)。それゆえ信仰の強制は、他のひとびとを単なる 手段としてのみ扱うことを禁じるカントの観念に抵触する (cf. Nagel 224-225, 238, Kant 1785, IV 427-429)。
だがネーゲルの論文においては、他のひとびとを単なる手段としてのみ扱うだけでな く、同時に「目的そのもの」としても処遇し、尊重すべきであるというカントの観念のも とにある要請が、当該のカトリック信者にも適用される(Nagel 1987, 224-225)。「第一原 理」のような自由主義社会の規範的原理が善の包括的構想に対して中立的に正当化される なら、カントの観念のもとで擁護される信仰の自由は、このカトリック信者にも等しく認 められなければならないからである。「他のひとびとが理性的に拒否できないであろう根 拠」にもとづいている場合にはじめて、信仰の自由は中立的に正当化され、無条件的・義 務論的妥当性をもつことができる(cf. Nagel 1987, 221)。
ネーゲルの論文では、中立的正当化のこの問題が「役割逆転の議論(role-reversal argu-ment)」(Nagel 1987, 225)のもとで考察される(Nagel 1987, 225-227)。「誰かがあること
をあなたにしたとして、あなたはその行為をどう考えるか」と問い掛け、その返答を考察 するのが役割逆転の議論である(cf. Nagel 1987, 225)。そして強制される相手の立場に自 分自身をおき、信仰の強制を拒否することで信仰の自由を承認すること、すなわち「相互 性の基準」のもとで信仰の自由を承認することが、当該のカトリック信者に期待されて いる。
だが「相互性の基準」に訴えるだけでは、このカトリック信者を説得できない。「カト リックの信仰の強制をどう考えるか」と問い掛けられれば、彼は、信仰の強制を受け入れ ると考えられるからである。「あなたの宗教の実践を妨げられることをあなたはどう思う
か」(Nagel 1987, 227)と問われたカトリック信者は、「それはその宗教が、本物の宗教で
あるか否かによる」(Nagel 1987, 227)と返答できる。
それゆえ、問題となっている行為の「記述」が、すべての関係者が関心を寄せる「一般
的」(Nagel 1987, 225)価値や「一般的」理由を記述し、すべての関係者によって「一般的」
に受け入れられる場合にはじめて、相互性の議論が有効になる(cf. Nagel 1987, 226-227)。 言い換えれば、当該のカトリック信者は、「カトリックの信仰の強制をどう考えるか」では なく、「信仰の自由の侵害をどう考えるか」と問い掛けられるべきである。このカトリッ ク信者もまた承認している「信仰の自由」という「一般的な価値」(Nagel 1987, 225)に訴 え、「信仰の自由の侵害をどう考えるか」、あるいは「信仰の強制をどう考えるか」と問い 掛けられるべきなのである。役割逆転の議論は、「一般性の基準」を必要としているので あり、相互の基準にもとづく議論が有効に機能するためには、一般性の基準が不可欠なの である。
したがって一般性の基準が、解明されなければならない。一般性の基準の解明にあたっ てネーゲルが着目するのは、信念の真を信じずに信念を保持できない一方、信念の真を信 じていることと、その真理が「一般的妥当性」をもつこととを私たちが区別しているとい う「事実」である(Nagel 1987, 229)。
ネーゲルによれば、この区別は、「懐疑論的想定」(Nagel 1987, 229)にもとづくもので はない。この区別は、信念の「外部(outside)」(Nagel 1987, 229)の「道徳性 (morality)」 (Nagel 1987, 230)の想定にもとづいている。
そして「私たちを私たち自身の外部へと連れ出す」(Nagel 1987, 229)この道徳性は、「認 識論的(epistemological)」(Nagel 1987, 229)に理解される(Nagel 1987, 229-230)。ネーゲ ルの理解では、「信念を正当化するのに必要なものと、〔信仰の強制に際して〕政治権力の 採用を正当化するのに必要なものとの区別は、倫理的に(ethically)基礎づけられた客観性 のより高度な基準を拠り所としている〔括弧内引用者〕」(Nagel 1987, 229)。
それゆえネーゲルの論文においては、一般性の基準が、善き生の理想や構想を主題とす
る宗教などの「倫理」に「認識論的意味」で優位する「客観的基準」として理解されてい る。一般性の基準は、「客観性のより高度な基準」であり、「認識論的制約」(Nagel 1987, 229)である。
したがって「道徳」は、この高度な基準に対応した「認識論的倫理学(epistemological ethics)」(Nagel 1987, 230)とみなされる。実践的問題の主題に関するハーバーマスの分類 のもとでいえば、ネーゲルのいう「道徳」は、倫理的主題における客観的真理に相当する。
倫理的主題における単なる信念と真理の区別を可能にする「不偏不党性」(cf. Nagel 1987,
215-216) は、私たちを自分自身の外部の観点へともたらす「非人称的立場 (impersonal
standpoint)」(Nagel 1986, 139, cf. Nagel 1986, 138-143, Rawls 1993a, 116)なのである(24)。 ネーゲルによれば、「倫理」と「道徳」のこの認識論的区別は、「私的領域」と「公的領 域」の「認識論的分離」に対応している(cf. Nagel 1987, 230-231)。
「私たちは、私的領域と公的領域の認識論的分離を受け入れる。私は、自分の信念が真であ り、このことを知っているとどれほど確信していても、特定のコンテクストにおいては、
自分の信念を真としてではなく、単なる信念と判断するように強制されている」(Nagel 1987, 230)。
それゆえカトリック信者の事例のもとで説明すれば、この信者は、一般性の「認識論的 基準」とともに私的領域と公的領域の認識論的分離を受け入れ、公的領域においては自分 の信仰の真理を単なる信念とみなさなければならない。彼には、一般性の認識論的基準の もとで私的領域と公的領域の認識論的分離を受け入れ、公的領域においては自分の信仰の 真理を単なる信念とみなすことが要請されているのである。
したがって「第一原理」のような道徳規範は、相互性と一般性の基準のもとで「中立的」
に正当化されなければならず、「他のひとびとが理性的に拒否できないであろう根拠」と して共有可能な「共有根拠」(Nagel 1987, 232)にもとづいて「公共的」に正当化されなけ ればならない。
ネーゲルは、「相互性」と「一般性」の基準のもとで行われる正当化を「公共的」と呼ぶ が、その条件は二つある。
(24)ネーゲルは1987年の論文で、「良心の自由」を擁護するロールズの議論が「懐疑論的想定」のもとにな いことを正しく指摘している(cf. Nagel 1987, 228-229, cf. Rawls 1971b, 214-216)。だがロールズの議論 においては、不偏不党な道徳的観点がネーゲルのいう「非人称的立場」のもとでは理解されていない(cf.
Rawls 1993a, 116)。この点については、以下の議論が明らかにする。
「第一に、不一致という現実のコンテクストのもとにある公共的正当化は、〔信念の真を 信じる〕理由を他のひとびとの批判に開示する覚悟と、共通の批判的合理性を行使し、共 有可能な証拠を検討することで私の誤りが明らかになることを認める覚悟とを必要とする
〔括弧内引用者〕」(Nagel 1987, 232)。
公共的正当化においては、「信念の真を信じる証拠」を共有し、この証拠をもとにしたひと つの判断に到達できるように、互いに証拠を開示しなければならない(Nagel 1987, 232)。 公共的正当化の第一の条件は、信念を信じる証拠を開示し、その証拠を共有することで一 致した判断をくだせるように、互いに自分の信念を公にする備えをもつことである。
それゆえ第一の条件が充たされているにもかかわらず正当化に失敗した場合には、信念 の真を信じる証拠そのものか、この証拠からの推論に不一致があると考えられる。公共的 正当化の第二の条件は、信念の根拠となる証拠やそこからの推論における不一致に正当化 の失敗の原因を求め、この不一致が公共的に解明され得ると想定することである (Nagel 1987, 232)。
したがって公共的正当化においては、自分の「倫理的」信念の外部に認識論的に理解さ れた「道徳性」を想定することで、間主観的な一般的妥当性をもたないという意味での誤 りの可能性と、この誤りの公共的解明の可能性を自分の信念に認めながら、相互性と一般 性の基準のもとで自分の信念を説得することが求められる。ネーゲルによれば、「このこ とは、私たちが信念を信じること、すなわち自分の信念を真と信じることをやめなければ ならないことを意味していない〔強調原著〕」(Nagel 1987, 230)。
しかしラズは、この可能性を疑う。自分の信念を真とみなす一方、一般性の認識論的基 準のもとで真でない単なる信念と考えながら公共的正当化を遂行することが可能であるか とラズは問い掛ける(Raz 1990, 36-39)。ネーゲルの公共的正当化の理論は、信念をもつこ との核心にある事実を捉え損なっていると考えられるからである。
信念をもつことは、信念を受け入れる理由や信念にもとづいた行為の理由として、信念 の真を信じることである。ラズが批判するように、信念をもつことは、信念を真と考える 理由ではない(Raz 1990, 38)。信念を信じることは、信念に信頼を寄せていることに過ぎ ず、この信頼を正当化することでも、この信頼の根拠を明らかにすることでもないからで ある。
ラズが主張するように、「私が自分の信念にもとづいて行為すれば、私の行為の理由は、
私がその信念をいだいているというネーゲルの提案する事実ではなく、その信念の真理で
ある」(Raz 1990, 38)。信念を信じることは、信念を受け入れる理由や信念にもとづいた
行為の理由として、信念の真を信じることであり、信念をもつことに関するこの事実は、